おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2019.11.23column

山中貞雄とその時代

11月10日、山中貞雄資料展示の最終日ということで、「映画史における山中貞雄」というテーマでお話しさせていただいた。

生誕110年、没後も昨年で80年が経ち、山中貞雄については、語り尽くされた感がある。それでも、「若き天才」として今も語り継がれるのは、監督生活6年ほどの短い期間に26作品(共同監督も含む)を演出し、その中でたった3本(『丹下左膳余話百万両の壺』『河内山宗俊』『人情紙風船』)しか残っていないこともあるのだろう。その天才監督は、将来を嘱望されながらも一兵卒として徴兵され、満28歳という若さで、中国の野戦病院で戦病死した。無念の思いを込め、今も9月の命日近くには、彼を慕う人々によって「山中貞雄を偲ぶ会」が続けられている。

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10年前の新聞記事。

10年前、玩具映画に関する取材の中で、山中作品『鼠小僧次郎吉』もあることを話した。生誕100年の折でもあったので新聞記事となった。それも小さなコラムと思っていたのが、読売新聞夕刊一面トップに掲載された。たった50秒ほどの映像の断片でありながら、過分な扱いに驚いたが、それほど山中貞雄の映画発見が待望されていることを知った。

その様な事もあり、今回改めて当館所蔵フィルムを調べてみた。助監督時代の1作『からくり蝶』、脚本作品の2作『鞍馬天狗』『右門捕物帖十六番手柄』、監督作品5作品『鼠小僧次郎吉』『国定忠治』『関の弥太ッペ』『大菩薩峠第一部甲源一刀流の巻』『丹下左膳余話百万両の壺』(GHQによるカット場面)があり、それらを今回の話の冒頭で見ていただいた。短い映像の中でも山中のスタイルを見ることができた。『鼠小僧次郎吉』、『国定忠治』は明らかに、山中が「仔犬の目線」と呼んでいたローアングルのカメラポジションで構図を決めている。対して、稲垣浩との共同作品『関の弥太ッペ』と『大菩薩峠第一話甲源一刀流』(荒井良平も加わった共同監督)は、明らかにカメラポジションが高い。短い映像でありながらも、比較してみるとその違いが良く解る。

今回、恩師の宮川一夫カメラマンが山中組の撮影スタッフであったこともあり、宮川から聞いた山中についてのエピソードなども交え、①「マキノの昼行燈(アンドン)」、②「鳴滝組」。そして③「山中貞雄とその時代」の3つのキーワードで話した。

「マキノの昼行燈」

京都一商の先輩であったマキノ正博の紹介で、マキノ映画御室撮影所に入社。城戸品郎監督の下で助監督についたが、全く何もできず、無能扱いされた。そこで付けられた渾名が「マキノの昼行燈」だった。人の才能は、早くから開花する者もあれば、遅い者もある。盆栽も、地植えしてやると、大きく育つという。枝振りばかりを気にする芸術教育では、若い才能も盆栽になってしまう。山中も自由な脚本の執筆から開花し始めたと言える。

マキノ正博の言によれば、嵐寛寿郎が独立する際、「同じ顎が長いので、山中を推薦した」とあるが、あてにはならない。嵐寛寿郎が独立する際、「嵐長三郎」の名を返上させられ、歓迎された独立ではないことが分かっている。城戸品郎監督が嵐寛について行くと、当然、助監督であった山中も従うことになる。城戸の下で、『鞍馬天狗』や『むっつり右門』のシナリオを書き、次第に評価を得ることになった。そして1932年、長谷川伸の股旅もの『源太時雨』を原作に、『磯の源太 抱寝の長脇差』でデビューした。和田山滋(岸松雄)が、山中を見出し、高く評価して、映画批評の側からも若き才能を育てようと応援したことは有名である。

 「鳴滝組」

「梶原金八」のペンネームで、太秦の北、鳴滝音戸山に8人の監督やシナリオライターが集まった。鳴滝は、高級住宅地であり、俳優たちが住んでいたが、「音戸山に住むと落ち目になる」との噂が広がり、空き家が多かった。「ムダめしを食う奴はきたるな(なるたきの逆読み)。映画が好きな奴は集まれ」。稲垣浩、滝沢英輔、山中貞雄、土肥正幹(鈴木桃作)、萩原遼、八尋不二、三村伸太郎、藤井滋司の8人。若手の映画人たちである。もともと、南木屋町の居酒屋「なるせ」に集まった監督、脚本家たちで、映画談議をする中でシナリオ創作につながっていった。

 「鳴滝組」の意義は、所属会社の枠や利害を越え、純粋に良き映画の創作を求めて集まったシナリオ集団であること。これは世界にも例がない。そして、無声映画時代の剣劇映画全盛からトーキー映画に移る時代に、生き残りのための模索であり、新しい時代劇映画への挑戦でもあった。伊藤大輔の「抵抗と反逆」に象徴される剣戟時代劇に追随するのか、新しい時代映画を目指すのか。その分かれ目でもあった。ちょうど、日本映画監督協会が創設され、東西の監督たちの交流が始まり、小津安二郎などとも知り合った。そのような中から、明朗時代劇、「髷をつけた現代劇」が生まれることになる。

 アメリカ映画を見た後などに、「いただき!」と言って、映画手法の「引出しに入れておく」などと、山中がよく言っていたことを宮川から聞いた。また、鳴滝組8人のメンバーの共通のライバルは、伊丹万作一人であったことなども語っていた。

 「山中貞雄とその時代」

昭和恐慌と呼ばれた1927(昭和2)年に映画界に入る。トーキー映画が始まり、満州事変が起こった翌年の1932(昭和7)年に監督デビューする。翌年には、満州国建国に対し世界から孤立し、日本は国際連盟を脱退。映画界でも「映画国策樹立に関する建議」が上程され、映画統制が始まる。天皇機関説批判や226事件が起こり、軍靴の音が次第に大きくなる。山中や「鳴滝組」が活躍したのは、そんな時代。明朗時代劇のジャンルを切り開き、さらに自由な創作を求め、新しくできた東宝に移籍する。1937(昭和12)年に、名作『人情紙風船』を作り、その封切りの日に赤紙が来て、翌年、中国河南省北開封の野戦病院で戦病死した。

 「山中貞雄と小津安二郎」

山中と小津の友情は有名である。山中は仕事を終えるとすぐに、宮川に「カー坊、あれ頼むわ」と声をかけた。宮川が、いつものように日本手拭いと石鹸を買ってくると、その足で東京へ向かった。小津に会うためである。

宮川は、小津とも『浮草』で仕事をしている。小津のローアングルが気になり、「どうしてローアングルに拘られるのですか」と聞いたそうだ。「ローアングルが好きなんだよ」との返事だった。山中もローアングルであり、山中の甥の加藤泰もローアングルで有名だった。山中はローアングルを「仔犬の目線」と呼んでいた。宮川のカメラは、華麗なカメラワークと呼ばれ、クレーン撮影や移動を多用し、俯瞰の名手でもある。ダイナミックな黒澤作品や重厚なカメラワークの溝口健二作品からすると小津のスタイルは、スタンダードのローアングル。静止したカメラは1カット1カットつなぐだけの撮影。宮川の両手を縛ったような撮影法でありながら、生涯で「この時ほど楽しかった仕事はなかった」と回想している。小津の中に山中を見ていたのかもしれない。

 「山中貞雄と黒澤明」

以前から黒澤作品の中に山中貞雄の影響を感じていた。例えば、時間転換をワイプで行うことや、倒置法的な場面転換を行うことである。黒澤明が山中貞雄に影響を受けていたことは間違いない。ただ、その接点があったのかが分からなかった。今回、前進座の資料の中に、戦場に向う山中への(PCLスタッフの)寄せ書きがあり、その中に黒澤明の名前もあるのを見つけて、ハッとした。入社間なしでサード助監督の黒澤が、山中と言葉を交わしたのかはわからない。山中が黒澤を認知したのかもわからないが、黒澤にとっては、すでに「天才監督」と呼ばれた山中を大いに意識していたであろうことは想像できる。山中は戦前に活躍し、黒澤は戦後に活躍する。活躍した時代の異なる二人だが、山中は1909年、黒澤は1910年の早生まれ。同じ学年なのである。

 「山中貞雄と宮川一夫」

宮川は、『快傑白頭巾』や『丹下左膳余話百万両の壺』で撮影助手をしていた。B班として任されたショットもあった。『快傑白頭巾』では多くを担当したが、作品が残っていない。『百万両の壺』では、ラストの番屋に沢山の壺が集まってくる行列の場面を担当している。山中の演出手法に憧れた一人でもある。山中がPCLへ移籍する時、宮川は「私も連れて行ってください」と頼んだ。山中は「やめとけ。助手で行ったら助手のままや。技師になったら、俺が呼んでやる。」と断ったそうだ。そのあと、宮川は日活で撮影技師になり、稲垣浩とコンビを組むことになる。山中とはプラトニックのままで終わった。

山中の東京行きに「手拭い」を買うなど、宮川は山中の小間使いであったが、年齢は宮川の方が上だった。監督と撮影助手の立場の違いである。因みに、宮川はマキノ正博とは同じ町内で「カー坊」「マーちゃん」と呼びあって遊んだ幼馴染だった。

 「山中貞雄とマキノ正博」

マキノ正博には、宮川とコンビを組んだ『鴛鴦歌合戦』という映画がある。1939(昭和14)年、映画法が制定された年、山中が戦病死した翌年製作の映画である。1940年に国民総動員法が可決され、1941(昭和16)年に太平洋戦争が勃発する。戦争へのキナ臭い時代に、和製オペレッタという能天気な映画が出来た。こんな時代に何故かと疑問が湧くが、私はこの『鴛鴦歌合戦』は明朗時代劇を求めた山中への追悼の意味が込められているのではないかと思う。偽物ばかり買わされる骨董好きの父とそれに悩む娘、怪しい殿様が登場したり、役にも立たない家来たち、武士生活が嫌いな浪人などが登場し、新しい時代の明るい映画を求めながら、時代にのみ込まれて行った山中へのマキノ正博らしい鎮魂の映画でないかと思うのである。終始一貫して、宮川カメラが「仔犬の目線」でまとめているのが、それを証明している。

yamanaka余談として

この報告を書きながら、宮川カメラマンの話を思い出した。宮川には赤紙が来なかった。のちに理由が分かったのだが、コンビを組んでいた荒井良平監督が、撮影所内の名簿作成者で、仕事の具合などを軍部に報告する役目を担っていた。宮川が台湾での『南方発展史・海の豪族』の撮影に行き、そのまま台湾に行ったままになっていたというのだ。

映画は丙種産業だったから、撮影所のスタッフが次から次へと徴兵され、仕事ができないほどの状況になり、女性事務員がピント(フォーカス)を送るほどの現場になっていた。宮川まで取られてしまうと撮影ができないというので、荒井良平があえて宮川の名を記載しなかったらしい。

徴兵にも選択順位がある。誰もが徴兵される時だが、選択順位があったかもしれない。山中貞雄が東宝(PCL) に移籍し、封切り日に徴兵されたというのも、そう思えば気になってくる。新任の監督であり、東宝カラ―ではない『人情紙風船』。東宝にとっては外様の監督でもある。そんな不運も災いしたかもしれないと、・・・。

戦争によって無限の才能も映画芸術も殺された時代。永遠の「若き天才」山中貞雄に哀悼の念を捧げたい。

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