おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2021.04.15column

京都新聞で、開催中のペン画展についてご紹介いただきました‼

今朝の京都新聞市民版トップに、開催中の「ペン画で甦る尾上松之助最晩年『忠臣蔵』展」についてご紹介いただきました。大きな扱いで、とても嬉しいです。

昨日もブログで、このペン画について書いたのですが、「当時絵を描くにあたって何か参考にするものがあったのかよく分かりませんが」と書きました。そのことが気になったので、いつもお世話になっている日本映画史家の本地陽彦先生にお尋ねしました。

以下にそのお返事のあらましを書きます。

……この作品の時代、大正末から昭和にかけてですと、映画雑誌など、いわゆるビジュアルの情報も豊富な時代です。ただし、この『忠臣蔵』(1926年)に限るとしたら、どの程度そうした情報が流布したかまでは分かりません。映画館のプログラム(パンフレット)は、1916(大正5)年に浅草の帝国館が「第一新聞」として発行したのが最初ですが、スチール写真の情報などはほとんど無く、しかも戦前はプロ(当時はプロと略していました)は、映画館を出るときに「来週」の上映作品を知らせるために、無料で配布したものです。

じきに、これらを集めるファンが出てきて、このプロの誌面に「どこそこの館のプロを求む」「私の××館のものと交換希望」などという投書が載るようになって、一気に全国の館へとプログラムが広まっていきます。戦前はこれが普通でしたが、やがて戦争の時代に入って物資不足、統制から消滅してしまいます。お金を払って、鑑賞の記念にプロを買うようになるのは、戦後のことです。

また、プロマイドは1891(明治24)年頃に、写真館が人気の女義太夫や歌舞伎役者の写真を販売したのが始まり、ということです。大正に入って、専門の業者が登場します。1914(大正3)年の良古堂が最初とされ、ここが活動俳優のものを販売するようになったのが初めとも言われています。

こういう人たちがやがて映画に詳しくなり、「キネマ同好会」を名乗って俳優番付なども販売するようになります。良古堂のものは、今でも質の高いものと評価されています。これらも映画館での販売ではなく、一般にはプロマイド屋で売っていました。

やがて、大正中期になって映画雑誌が定着するようになりますと、例えば「キネマ旬報」などでも海外のスチール写真を複写販売したりするようになります。日本のものは、尾上松之助のものが圧倒的な量で販売されました。

『実録忠臣蔵』のペン画を描かれた方は、おそらくそうした「グッズ」によらず、ご自身の「記憶」で描かれたのではないでしょうか。東京と地方とでは、情報量の差はあって、地方の方は『キネマ旬報』など見たことがない、というのも珍しいことではありませんでした。この方が、積極的に情報を収集したかどうかはわかりませんが、一般的には、そんなにビジュアル情報に接していたとは考えられません。

ですから、この方の記憶力が、とりわけ優れていたと考える方が良いように、私は思います。例えば、淀川長治先生も、少年時代にみた作品でもほとんど、最初から最後までストーリーはもちろん、どんな場面であったか、いつまでも正確に記憶されていました。他にも飯島正さん、植草甚一さん、双葉十三郎さんたちは、一回見た映画でも実に良く記憶していたのは、よく知られた話です。昔は、試写を一回見ただけで、長文の映画評を書くのはあたりまえの時代でした。……

本地先生、お教え誠にありがとうございました。とても興味深い話ですね。映画に関しては、当時どういう状況だったかはおおよそわかりましたが、伊藤彦造のペン画が載っていた『少年倶楽部』などの雑誌については、地方でどれくらい手にして読むことが出来たのでしょうか?

甥の英治さんの記憶にあるのは、文彰さんが一人で長机に向かってペンを走らせて絵を描いている様子だそうです。一度見た映画が頭にはっきりと刻まれていて、それを思い出しながら、時には記憶にある映像に急かされるように、記憶をペン画に置き換えて、一人コツコツと描いておられたのでしょう。ミュージアムで出会った人の中にも、私が天才と呼ぶ若者がいます。一度見たら、その映像が記憶されていて、その様子に大変驚きました。文彰さんが今の世の中に生まれていたのなら、才能を埋もれさすことなく、活かす道もあったに違いありません。本当に惜しいことだなぁと思います。

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