おもちゃ映画ミュージアム
おもちゃ映画ミュージアム
Toy Film Museum

2016.04.26column

戦前の音楽、映画、そしてフィルム

4月16日の「無声映画の昼べ」に関東から参加いただいた「ぐらもくらぶ」を主宰する保利さんから、昭和エロ歌謡全集1928-1932『ねぇ興奮しちゃいやよ』をプレゼントしていただきました。今それを聴きながら書き始めています。このタイトルを書き出すにも抵抗があったのですが、レコードが発売された当時の殿方は、耳まで赤らめて、こっそり楽しんでいたのかもしれませんね。近頃のマイブームは、御伽歌劇をもとにした戦前のアニメーション「茶目子の一日」で、そのレコードにも出てくる二村定一さんの歌が全23曲中、4曲も収録。最初の1曲「とこイットだね」の声は、4月3日まで開催していたSPレコード展で何度も聴いた彼の声そのままで、目を閉じると「茶目子の一日」の映像が瞼に浮かびます。来月8日には東京で彼のリスペクトショーが開催され、今改めて彼の仕事に光が当てられようとしています。

晩年の「ブルースの女王」と称された淡谷のり子さんしか知らない私にとっては、彼女が若いころに歌った「エロ行進曲」(1931<昭和6>年)に驚きました。「ズロース忘れた ヤレエロチック とてもなやまし エロおどり」「あるかないかのワンピース 好いて好かれて ヤレはだかげき」の歌詞を、美しい声で気にもかけずに、のびやかに歌っておられるよう。

とにかく口に出すのも書くのも憚れる「エロ」の文字が、CD全体にいったい何回出てくるのかというほど、数多く登場します。解説の多摩均さんによれば、1928(昭和3)年~1932(昭和7)年は、「エロ(エロティシズム)・グロ(グロテスク)・ナンセンス(馬鹿馬鹿しいこと)」の時代。昭和5年夏ごろに、新聞などで一括りにしたこの言葉が使い始められたそうです。第一次大戦後の好景気とその反動、共産主義思想が弾圧され、左翼思想が徹底的に締め付けられる一方で、庶民にはガス抜き作戦として風俗の取り締りを緩くした結果、一時的に生まれた世相。

日頃映画復元の話を傍で聴いていると、監督、脚本、カメラなど映画製作スタッフの話が頻繁に出てきますが、主題歌について聞くことがほとんどありませんでした。連れ合いが専門外だったこともあるでしょう。「ぐらもくらぶ」の活動を知ることで、映画が公開された当時の主題歌にも関心が出てきました。「唄は世につれ」とこれもよく聞く言葉です。人気を博した映画や歌は世相を反映しています。

収録されている「スピード時代」は、作曲サトウ・ハチロウ、高階哲夫、歌手伊達里子で、1931(昭和6)年8月に本格国産トーキー映画として公開された「マダムと女房」の主題歌。田中絹代が和風な奥さんを演じ、主題歌を歌っている伊達里子が隣家のマダムを演じています。きれいな声で歌も上手。演技をして主題歌を歌う、本格的トーキーという話題だけでなく、歌の面でも新しい試みがされていたことがわかります。

CDの刺激的なタイトルにもなっている「ねぇ興奮しちゃいやよ」は、1931年2月7日に封切られた成瀬己喜男監督の同名短編映画(松竹蒲田作品)の主題歌だそうで、小津安二郎監督「淑女と髯」、市川右太衛門と大江美智子の「剣響龍巻」の合間に上映されていたそうです。歌をうたうのは青木晴子。「テーブル挟めば脚と脚 ひとつの傘さしゃ肩と肩 恋のスパーク消えて散る いらいら焦れてじれったい♫」、今も昔もキュンとなる乙女心。映画と主題歌の組み合わせを楽しむ催しは、面白いかもしれません。5月22日午後3時から、鈴木重吉監督の「何が彼女をそうさせたか」(1930年2月公開)を上映しますが、その時にこの映画の主題歌「彼女の唄」もお聞かせできれば良いなぁと思っています。

ところで、SPレコード展の期間中、関西レコード愛好会の人が何人か来館されました。4月2日に「ラジオ深夜便」に連れ合いが出演し、その伝えたい思いに感動してくださった同会メンバーの方が、再度同会のチラシを持って来館。それによれば、毎月第2日曜日の14~18時に高槻市総合市民交流センター3階の「音の工房」で、SPレコードの持ち寄りコンサートをされているそうです。そのメンバーの別の男性が、当館のトーレンスのターンテーブルの評判を聞いて先週来館。

あいにくその時は留守番の私しかいなかったので、音をお聞かせするのは出来ませんでしたが、映写についての話を聞かせてもらいました。1950(昭和25)年頃から大阪の都島で4年間映写技師をしていたそうです。映写技師は2交代制で、この頃までは70mmフィルムをやっていて、スクリーンを3つ繋いで上映していたそうです。その後は35mmばかりになります。2館を掛け持ちし、上映が終わるとフィルムを入れた缶を自転車で急いでもう一つの館へ運びますが、映写技師は、1缶ずつ来るので、もうそろそろ終わりそうなのにフィルムが届かないと気が落ち着かずイライラしたものだとか。自転車はギアを替えて速く走れるようにしていたそうです。なんと、京都府内の園部から大阪へフィルム缶を運んだこともあり、そこは鶏がいるような長閑なところだったとか。ミュージアムにある沢山の映写機を前にし、復元した映像を見ながら、懐かしそうに若いころの仕事を思い出しておられました。

この男性から「富士フイルムは大阪の堺にセルロイド工場があり、販路を増やすためにフィルムを作った」と教えてもらったのが興味深かったので、あとで調べてみました。1934(昭和9 )年に国策会社として作られた富士写真フィルムですが、母体となった大日本セルロイド㈱は、1919(大正8)年に設立されました。玩具、文房具、日用品などの分野で成長しましたが、更に発展していくために目を付けたのが写真フィルム、映画用フィルムの開発・事業化でした。いち早くセルロイドの支持体(フィルムベース)に写真乳剤を塗布した写真フィルムを作ることに成功したのは、米国コダックの創業者ジョージ・イーストマンで、1889(明治22)年のことでした。一時はコダック社との提携も検討されましたが失敗。大正末期に日本の映画館は1000軒を超え、大衆娯楽の王座に上りつつありましたが、国産のフィルムはまだできていなくて、アメリカ、ドイツからの輸入に頼らざるを得ませんでした。その金額は当時の金額で800~1000万円もかかっていたこともあり、写真フイルムの国産化は急務でした。

1920(大正9)年にフィルムベース製造実験から始まった懸命な研究の結果、1932(昭和7)年に映画用ポジフィルム試作に成功し、翌年に「映画用生フィルム製造奨励金下付申請書」を商工大臣に提出。そこには「全国千三百有余ノ常設館ハ日日六十万一ケ年二億ノ観客ヲ収容シ(略)今後軍事教化宣伝方面ヘノ利用拡大ヲ考フル時ハ映画事業ノ重要性ハ益々痛感セラルルモノナリ。然ル二映画用生フィルムハ我国二テハ未ダ全クソノ生産ヲ見ズ全部之ヲ海外ヨリ輸入二仰グ状態ナルヲ以テ価格ハ不廉二シテ供給ハ円滑ヲ欠ク更二一朝有事ノ際ヲ考フル時ハ軍事上ノ需要ヲモ充タシ得ズ寒心二堪エザルモノアリ映画用生フィルムノ国内生産ハ実二最モ重要二シテ緊切ナルモノト曰フベシ(略)」とあり、翌年向こう4年間で総額120万円まで交付されました。映画が大衆娯楽として浸透している様子、戦争に備えて映画が有効であるとの認識が窺い知れます。

CDに収録された音楽や上映された「エロ・グロ・ナンセンス」な桃色文化の一方で、近づく戦争をも視野に入れた国産フィルムへの動き。改めてこのCDが範疇とした4年間の世界の動きを見ますと、1927(昭和2)年に金融恐慌が発生し、1929(昭和4)年に世界大恐慌、1930(昭和5)年に浜口首相狙撃事件、1931(昭和6)年満州(現在の中国北東部)で日中の軍事衝突、1932(昭和7)年に五・一五事件、1933(昭和8)年に日本の国際連盟脱退と、まさに激動の時代でした。

1枚のCDから、日本の現代史を振り返り、これからの国の舵取りが益々方向を見誤らぬように、注視しなければいけないと思いました。昨日は、保利さんと共に活動されている音楽ライター・毛利眞人さんも出演されていたN.H.K.「ファミリーヒストリー」の録画を見ました。2月5日に放送された森山良子さんの家族をたどる番組。日系二世の良子さんのお父様は、1929年の世界恐慌後日本へ渡り、コロンビア・ジャズバンドに就職して、人気ジャズマンになりますが、戦中・戦後は日米の狭間に立ち随分苦悩されたようです。そのお父様の言葉「We must live」、“生きていかねばならぬ”は、どんな時代、どんな状況にも共通する力強い言葉だと、感銘を受けました。

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