おもちゃ映画ミュージアム
おもちゃ映画ミュージアム
Toy Film Museum

2024.09.01column

今日は九月一日、関東大震災から101年目

今日は9月1日「防災の日」。甚大な被害を記録した関東大震災から101年目です。大型の台風10号は日本列島各地に大雨をもたらし、多くの被害を出しました。被害に遭われた皆様には、心よりお見舞いを申し上げます。相変わらず地震も頻発し、いずれ来ると言われている南海トラフ巨大地震への備えが必要です。8月23日に旧伴家住宅で実施した無声映画上映会では、最近発掘した震災の映像をご覧頂きました。『奥丹後大地震の惨状』は1927年3月7日18:27ごろに発生した地震のニュース映像を家庭用に再編集してパテ・ベビー版(9.5㎜)として販売されていたものです。現在の京丹後市網野町を震源地に宮津市で震度6、京都市で震度5を観測し、合計死者数は2925名にも及びました。

関東大震災の映像は以前から所蔵していた2作品を先ず上映しました。1923年9月1日当日のニュース映像は、“おもちゃ映画”として35㎜で販売されていたもので、赤く染色されていました。その翌日2日に撮影された映像は映写機についていたモノクロ35㎜フィルムでした。トタンで急ごしらえした避難場所で休む人々の様子や、安否を知らせるたくさんの張り紙の中に活動弁士・漫談家として活躍した大辻司郎の名前もありました。この映像については、後に触れるとちぎあきらさんも見たことがないと仰っていました。これらは来館の折にお声がけ下されば、いつでもご覧になれます。それらの他に、今年6月に寄贈頂いたばかりの16㎜フィルムに記録されていた「関東大震火災の思ひ出-九月一日」という映像もありましたので、それを初披露しました。

このフィルムは一見して「これは救えない!」と思うほど劣化が酷くて、本来は廃棄する以外にないような状態のものでした。けれども冒頭のタイトルが『関東大震火災の思ひ出、九月一日』と辛うじて読めたことから、「貴重な映像に違いない」と思い、静止画でも見られるようにと、当館のスキャニングの機械に掛けてみました。

フィルムは歪み、感光乳剤が剥がれて細かい粉状になって飛び散り、それがセンサーに付着して送り孔を読み取らず、手回しで動かしてみたりと悪戦苦闘しました。

中ほどからは安定してきて、スキャナーが動き始め、どうにか101年前の映像を保存することが出来ました。その作業の様子を一部撮影しました。

記録されている関東大震災の映像も貴重ですが、「フィルムが劣化すると、このようになる」という見本にもなるかと思い、そのスキャニングの様子も含めて編集し、当館のYouTubeチャンネルで公開しました。

もしも、お手元に古いフィルムがありましたら、そこに記録されている映像自体が100年前の記録として貴重ですので、決して捨てたりしないで、できるだけ早くデジタル化をご検討ください。私たちは、そのお手伝いを致します。

この映像に、関東大震災で半壊した「浅草十二階」として親しまれた当時日本一の高さを誇る高層建築「凌雲閣」を爆破するシーンがあります。

それがなされたのは、9月21日工兵第8大隊によって着手され、9月23日に爆破解体されていますので、このフィルムはその後に編集されて販売されたものとわかります。字幕に記されているのは、「死者74000、行方不明231000、焼失家屋289000、倒壊戸数15000」で、今の内閣府防災情報のサイトに記載されている「関東大震災の死者・行方不明者 約105,000人」よりは多い数字です。混乱していたからではないかと思いますが、それだけ甚大な災害だったと受け止められていたのでしょう。今日の分析結果では、震災による死者の平均年齢は28歳で、10歳以下が全体の25%を占めていたそうです。高齢者が亡くなることが多い現代と異なり、幼い子どもや若年層が犠牲になったのですね。

関東大震災と聞くと、火に包まれる東京の様子ばかりを思い浮かべてしまいますが、震源地だった神奈川県でも大きな被害が出て、その様子も記録されています。

倒壊した鎌倉の鶴岡八幡宮も痛々しい有様です。国立映画アーカイブ(NFAJ)で2021年に公開されたサイト「関東大震災映像デジタルアーカイブ」は、所蔵する震災関連映画をネット上で紹介することを目的とし、翌年、昨年と更新され現在に至っています。その制作に尽力されたとちぎあきらさんに、今回の映像を見て貰いました。

当館の凌雲閣爆破については、前掲写真のようにその爆薬の導火線を引く様子も映っていて、珍しいのではないかと思ったのですが、関東大震災映像デジタルアーカイブの『關東大震大火實況』にはそのシーンも含まれていました。NFAJの出典は、文部省が東京シネマ商会に委託して完成させ、自ら公開した映像で、白井茂カメラマンが撮影したものと思われるそうです。もうひとつ、同じ爆破瞬間の映像は、京都大学工学部建築学教室で発見されたフィルムにも登場するそうです。そのメインタイトルは「大正十二年九月/実寫/關東地方大地震/贈 京都帝国大学/大阪毎日新聞社」。こちらの映像には、当館が以前から持っている9月1日の映像と同じ場面がいくつも見られました。

とちぎさんによれば、今回YouTubeで公開した映像の多くのカットは文部省=東京シネマ商会や岩岡商会によって撮影されたものを使っていて、浅草凌雲閣爆破場面も文部省映画からの抜粋だとのこと。でも上掲YouTubeのタイムで言うと9:58-10:11の3カット(終りの2カットは被災した橋梁を渡っているカット)は、とちぎさん未見だったそうです。横浜シネマ商会のカメラマンによる撮影の可能性が高いと仰っています。

他にも、当館YouTube公開映像のタイムでいうと、11:07、11:29、11:44の人が山積みになった汽車や線路上に人々があふれているカット、

12:48-13:00の救援物資が船から荷下ろしされているカットは、未見のものだったそうです。NFAJの「関東大震災映像アーカイブ」サイトのために随分多くの映像を見て来られたとちぎさんから、未見の場面があったとお聞きして、舞い散る感光乳剤の粉塵と闘いながら、スキャンした甲斐があったと思いました。

とちぎさんは「残されたフィルムの1コマでも再現できるところは再現するという心意気が伝わります」と書いて下さいました。大変に劣化が進んだ状態のフィルムでしたが、貴重な映像だから何としても映像を残したいと思い、コマ撮りアニメのように、1コマずつ少し大きめに撮って、それを繋いで動画のようにした部分があります。見苦しかったかもしれませんが、これしか方法が思い浮かびませんでした。昨年、今年と紙フィルムをデジタル化する作業をされたバックネル大学エリック・フェデン教授の手法を参考にしました。

とちぎさんは「関東大震災の災禍を撮影したフィルムは、現存しているフィルムのほとんどが、オリジナルの出所が異なるカットを繋ぎ直しているもので、今回YouTubeで公開されたフィルムもその例にもれません。

そして、時間軸もバラバラで、たとえば浅草凌雲閣の爆破は9月23日ですが、その後に続く両国の陸軍被服廠跡での犠牲者慰霊の場面(上掲写真)は、おそらく9月10日前後と思われますし、その前に登場する上野公園での米の炊き出し風景は9月7日撮影と考えられます。しかし、一方で、このような形で編集され残されたという事実が重要で、エンドマーク直前の場面が被服廠跡での慰霊であることは意味を持ちますし、また多くの被災映画でその被災状況を描く際に、先ず地割れから始まって、次に火災を描くというロジックも、共通しているところがあります。

ちなみに、映画の冒頭、中央気象台の観測塔の時計が11時58分で止まっているカットの次に出てくる地割れのカット(上掲写真)は、現在の飯田橋駅と市ケ谷駅の間にあった当時の牛込駅の駅前とみられています。」

と教えて下さいました。土地勘のない者にとっては、映っているのがどこかを特定するのが困難ですが、こういう風に教えて下さると、同じ映像でも見え方が違ってきて、迫ってきます。もしも、この映像をご覧になって、何かお気づきのことがございましたら、ぜひお知らせください‼

その後戦争もあり、多くの貴重な映像が失われたのですが、日活や松竹などの映画会社、また新聞社の活映部でも撮影しています。現状では幻になっていますが、様々な災害を逃れた未発掘の映像がまだあるかも知れません。新たな発見に期待したいです‼

見せて頂いたNFAJの映像が35㎜のオリジナル・フィルムなので、その画像の鮮明さに驚きました。普段、短い“おもちゃ映画”や劣化した小型映画ばかり見ているので、「オリジナルに近い映像の保存が如何に重要か」を改めて思った次第です。

今回寄贈頂いたフィルムは16㎜でした。奇しくも関東大震災があった1923年に生まれた16㎜映画(シネコダック)、同じく前年に誕生したパテ・ベビー(9.5㎜)フィルムも、この年に日本に入ってきます。もとは35㎜で撮影されて、16㎜に縮小(リダクション)して編集し、家庭用に販売されたものなのでしょう。重要なことは、新しく入ってきた小型映画フィルムが、それまでの可燃性35㎜ナイトレート(セルロイド)ではなく、アセテート素材の“安全フィルム”だったことです。未曽有の大惨事となった関東大震災、専用の映画館で上映するだけでなく、一般に広く知らしめるのに、安全フィルムで作られた小型映画は渡来早々大活躍の場を得たのです。とはいえ、まだ一般には普及していない頃の話。もしも、アマチュアの人が撮った関東大震災の映像があれば、画質以上に重要なものになるかもしれません。もちろん被災した人たちにとっては、撮影する余裕もなかったでしょうけど。

本当は、8月23日の「最近発掘された震災を中心にした映像特集」で、もう1作品上映したのですが、いつもながらの長文になってしまいましたので、別の日にご紹介させていただきます。もう暫くお待ちください。

【9月4日追記】

フィルム調査員の衣川太一さんに、16㎜フィルムの現物が実際にいつ入ってきたのか尋ねてみました。今朝お返事を頂戴したので、それをコピペします。

………コダックの16㎜フィルムは最初から現像料込みで販売されていたのですが、日本にコダックの現像所が設置されたのは1927年です。それまでは小西六などが輸入して販売していたようですが、無料の現像サービスは国内で受けられませんでした。コダック現像所ができるまでは、いわば「不完全」な状態だったためか、輸入業者も大きく宣伝しておらず、実際にいつ現物が日本に入ってきたのかは、調べてもよくわかりませんでした。………

ということでした。シネコダックのカメラは1923年に入ってきています。デモンストレーション用のフィルムも入ってきていたでしょう。ヴァイタスコープの荒木和一が直接海外とやり取りしていたように、お金持ちで、本当に新しいものに関心がある人は海外と直接やり取りしていたかもしれませんが、一般への普及は1928(昭和3)年の昭和天皇御大礼の頃かもしれません。

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