おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2020.05.20infomation

6月3日から企画展「第四の巨匠 映画監督成瀬巳喜男 資料展」を開催します‼

 

今年7月2日に51回目の命日を迎える映画監督成瀬巳喜男についての小さな資料展を開催します。公益財団法人川喜多記念映画文化財団さんと日本映画史家本地陽彦先生のご協力で、ポスターや、台本、スチール写真、チラシなどの資料をご覧頂きます。

この企画展の契機になったのは、昨年7月18日に村川英先生が来館され、その時いろいろおしゃべりして話が弾んだこと。余り映画に詳しくない私は、原節子さんの映画での用い方が、小津さんと成瀬さんでは違うという話にとりわけ興味を持ちました。貧乏所帯の主婦というのが、ちょっとイメージ出来なくて、面白いと思いました。そういう話をもっと聞きたいと思い、その場で講演をお願いしました。

東京の四谷の貧しい家庭に、兄姉に続いて生まれた成瀬は、生来無口で、言うべきことも言えない遠慮がちな性格だったようです。巳年生まれなので、巳喜男と名付けられたとか。1920年、15歳で小道具係として入った松竹蒲田撮影所では、後から入ってきた清水宏、五所平之助、斎藤寅次郎、小津安二郎が先に監督に昇進し、なかなか監督に昇進できずにいました。諦めて退社しようとしていた時に五所平之助に引きとめられて、五所の助監督に移ります。監督デビューした『チャンバラ夫婦』(1929)他、いくつかナンセンス喜劇と当時“小市民”と呼ばれた安サラリーマンを主人公とする生活の味が滲み出た作品を作りますが、松竹の城戸所長から「小津は二人は要らない」とまで言われる始末。しかしながら、新人の逢初夢子、水久保澄子による『蝕める春』(1932)、『君と別れて』(1933)、栗島すみ子主演『夜ごとの夢』(1933)で評価され、一躍注目されます。

五所の『マダムと女房』(1931)以降、日本でもトーキー化が進み、1934年P・C・L(後の東宝)に引き抜かれた成瀬は、『乙女ごころ三人姉妹』(1935)、続いて『妻よ薔薇のやうに』(1935)を監督します。この作品はキネマ旬報ベスト・テンの1位に選ばれ、“Kimiko”の英題で1937年ニューヨークで封切られ、アメリカで興行上映された初の日本映画となりました。続く『噂の娘』(1935)は毎日映画コンクールの第1位に輝きました。この作品に出演した千葉早智子と1937年に結婚しますが、もともと性格も生い立ちも両極端だった二人は離婚し、長いスランプに陥ります。結婚した年の作品『雪崩』(1937)では、黒澤明がセカンド助監督についています。スクリプター、プロデューサーとして黒澤監督を傍で見ていた野上照代は「黒澤さんが一番尊敬していたのは間違いなく成瀬さん」と書いておられます。

1946年再婚した成瀬は、『銀座化粧』(1951)を作った頃からスランプを抜け出し、続く『めし』(1951)でキネマ旬報ベスト・テン第2位に。その後、『おかあさん』(1952)、『稲妻』(1952)、『夫婦』(1953)、『妻』(1953)、『あにいもうと』(1953)、『山の音』(1954)、『晩菊』(1954)と夫婦生活の機微、女のふしだら、芸者の余生などを描き続け、成瀬自身だけでなく主演の高峰秀子にとっても生涯の代表作となった『浮雲』(1955)に至ります。この作品は高く評価されました。因みに、小津は「俺にできないシャシンは溝口の『祇園の姉妹』と成瀬の『浮雲』だけだ」と語っています。

その後も、『流れる』(1956)、『あらくれ』(1957)、『鰯雲』(1958)、『女が階段を上がる時』(1960)、『乱れる』(1964)などを監督し、「女性を撮らせたら右に出るものはいない」とまで謳われました。最後の作品は『乱れ雲』(1967)。撮影中から健康を害して、1969年7月2日、癌により死去。以上は主に『日本映画監督全集』(キネマ旬報増刊12・24号№698)を参考にしました。

本地先生と川喜多映画記念資料館からお借りして展示するのは、『めし』『稲妻』『浮雲』『放浪記』などのポスター、『銀座化粧』『浮雲』『驟雨』『妻として女として』などの台本、『勝利の日まで』『山の音』『浮雲』『女が階段を上る時』のスチール写真、『流れる』『あらくれ』『放浪記』などのパンフレット他。

貴重なコレクションを快くお貸しくださったことに、心から御礼を申し上げます。

本地先生は、「今の時代、世界中がそうであるように、誰しもが、明日の『健康』を保障されないという、おおよそ想像しなかった危機を迎えて、それでもなお、『今日がある』幸福というものに、ようやくと、少なくないこの国民も気付いているのかも知れません。そういう今こそ、あの、明日の『命』が保障されなかった戦時下を生き抜いて、それでも唯『今日がある』ことの大切さを見事にフィルムの中に描いた小津の戦後映画の卓見を、じっくりと再確認すべきなのかもしれません。そして、改めて、小津と成瀬、それぞれの描く『女』たちの存在から見える、この国の『敗戦後』のありようを、すこし真剣に考える良い機会になるのかも知れません」と書いてくださいました。

そして、今日のように成瀬巳喜男の名声が世界的に高まったのは、昭和初期の映画文化活動家の川喜多かしこらの働きかけの賜物です。1983年スイスのロカルノ国際映画祭で、成瀬の大回顧展が組まれました。1946年に始まったこの映画祭は、自由の精神のもと、無名監督やマイナーな国の作品にスポットを当ててきました。この開催を機に、成瀬は世界的に知られることになり、1998年スペインのサン・セバスティアン国際映画祭で特集、2001年フランスのシネマテーク・フランセーズでレトロスペクティヴが開催されました。その時フランス映画誌『カイエ・デュ・シネマ』は成瀬巳喜男を、小津安二郎、溝口健二、黒澤明に次ぐ日本の「第4の巨匠」と讃えました。海外の映画賞受賞者に名を連ねていなくても、こうして評価されている成瀬を紹介した川喜多長政・かしこ夫妻が築いた財団から、貴重な資料をお借りできたことも光栄なことです。改めて御礼を申し上げます。

なお、最終日の6月28日(日)13時半、一番最初に書いたように、この展覧会開催のきっかけになった村川先生による講演「成瀬映画の女優たち 成瀬映画の技法とデティール」を開催します。日本映画史に名を連ねる女優さん達を取り上げながら、主な作品と成瀬監督の演出術について、わかりやすくお話しして頂きます。

三密を防ぐために、いつもより定員を減らし、換気にも気を付けます。ご入館頂く際は、蒸し暑い時期を迎えて恐縮ですが、マスクを着用し、入り口に設置しているアルコール消毒液で手指の消毒をお願いいたします。なお、体調に不安がある方のご入館は、お控えください。皆様のご協力をよろしくお願いいたします。

これまで、私どもが大切にしてきた懇親会は、残念ながら見送ります。コロナ禍が一日も早く収束して、講師の先生を囲みながら、あれこれおしゃべりできる普通の日が戻ると良いなぁと願っています。

 

 

 

 

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