おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2021.04.18infomation

映画『祇園祭』(1968年)に関する資料や思い出を大募集‼

 

4月16日付け京都新聞朝刊に「山鉾巡行 今年も中止」の大見出しで、祇園祭山鉾連合会の苦渋の決断が報道されました。コロナの収束が見通せずやむを得ない判断だとは思いますが、淋しいです。その翌日、新聞の対向面に劇作家の清水邦夫さん(84歳)の訃報が載っていました。上掲チラシに掲げた映画『祇園祭』の脚本家の一人ですが、清水邦夫さんの主な作品に挙げられていません。紆余曲折、艱難辛苦の末に完成したこの作品を、清水さんはどう思っておられたのでしょう。

さて、“参加する”映画『祇園祭』(1968年)の思い出発掘・記録プロジェクトの始まりは、2018年10月11日に受け取った1通のメールです。その前日に私がミュージアムで縁を頂いた方宛に一斉メールで催しのご案内を差し上げたことを受けての返信でした。

ご案内した催しの一つが、上掲の10月27日と28日に京都大学人文科学研究所で開催された「映画『祇園祭』と京都」でした。

メールの差出人岡田佳美さんは、映画製作当時、京都府庁の新人職員で、演劇に関心があったこともあり、仕事の余暇に製作上映協力会事務所に行って、そこで発行されている協力会ニュースに役者さんのインタビュー記事を載せたり、 山鉾巡行シーンのエキストラの募集から撮影当日の世話(何百人分)をしたり、ご自身もエキストラとして出演したりと、様々な思い出がある作品だと綴って下さいました。

改めて28日の研究報告会の項目を見て、映画に“参加”した一般の人びとと映画の視点がないと思い、翌年7月24日岡田さんにもお越し頂き、「祇園祭の映像を見て、1150年記念『祇園祭』還幸祭神輿渡御見物」を開催しました。その時に映画『祇園祭』について、岡田さんにも話して貰いました。その振り返りはこちらで書きました。そのお話に関心を示されたのが、京樂真帆子・滋賀県立大学教授でした。

その後、京樂先生、高木博志・京都大学教授にも参加して頂き、関係者へのインタビューを2回実施しました。インタビューに応じてくださったのは、映画と行政がタイアップし始めた初期の作品ということで、行政の窓口として労働省職員から府職員に採用され「映画『祇園祭』製作上映協力会事務局長として活躍された堀昭三さん、京都・府市民団体協議会事務局から京都府文化事業室嘱託となり、製作上映協力会事務局員として堀さんを支えた田中弘さん、そして岡田さんです。その時の記録は「“参加する”映画『祇園祭』とその時代ー映画製作上映協力会メンバーに聞くー」(『新しい歴史学のために』297号、2021年2月、京都民科歴史部会)に京樂先生と高木先生の連名で纏められています。

そして、昨年7月には映画『祇園祭』資料展を開催し、24日に映画『祇園祭』研究者と製作上映協力会メンバーとのトークイベントを開催しました。その振り返りは、

(1)

(2)

(3)

をご覧下さい。

この3名様からお借りしたり、寄贈頂いたりした資料をもとに、現在上掲『“参加する”映画「祇園祭」の記録』を制作中です。一連の資料整理をしているうちに、もっと他にも資料がどこかに埋もれていやしないかと思うようになりました。同時に、群衆役として府市民エキストラ延べ1万5百人、山鉾町からの指導エキストラ延べ4百人を出した(1998年10月30日付け京都新聞夕刊「日本映画100年」№73『祇園祭』参照)そうですから、この映画に何らかの形で関わった人びとに思い出をお聞きしたいとも思いました。

資料や思い出募集の呼びかけは、京都府文化スポーツ部文化政策室企画・生涯学習課さんのご協力で、「京都府ミュージアム・フォーラム」メーリングリストでご紹介頂き、京都市の「まちづくり・お宝バンク」にも登録しました。

早速、お宝バンク担当者から連絡があり、4月15日、菊水鉾元理事の川塚錦造さん(74歳)に京樂先生と一緒にお話を伺ってきました。貴重な資料も見せて頂きましたので、今年も7月に映画『祇園祭』資料展を開催し、その折りに展示可能な資料をお借りしてご紹介することに。今、これを書きながら先に書いた「日本映画100年」№73の記事を見ましたら、川塚さんのコメントも載っていました。

「私はまだ学生だった。暑い暑い日だったが、囃子方として二日間ロケに参加、同じシーンを何回もやって、カット、カットの連続だったのを覚えている。それは大きなロケでした」とあります。15日にお聞きした話はこれから文字起ししますが、囃子方には30~35名が応援参加し、川塚さんは菊水鉾の鉦の1番か2番として映画にも映っているそうです。映画の為に作った長刀鉾はこの菊水鉾をモデルとして作られ、大映の大工方が協力して作ったそうです。「神事ではないけれど、鉾に乗って、動かして、囃子ができて、映画に出られる。スターをチラッとでも見られるということで、皆が喜んだ。映画は素晴らしかった」と思い出を語って下さいました。

「映画を見たら、巡行する通りの左右に広がる民家の景色に驚いた」そうです。合成の技の素晴らしさですね。うちには大映『大魔神三部作』などの合成作画を担当された渡辺善夫さんが描かれた精緻な背景画がありますが、残念ながら『祇園祭』のものはありません。他にもこうした技術を持っておられた方が幾人かおられたそうです。今ではCGに置き換わっていますが、こうしたものも見つかれば良いのですが。

ともあれ、映画『祇園祭』について、資料や思い出を広く募っておりますので、ご連絡をお待ちしております。いずれはそれらを纏めて、「“参加する”映画「祇園祭」の記録2』として残そうと考えています。お知り合いにも、ご紹介頂ければ幸いです。どうぞ、よろしくお願いいたします。

なお、京都・府市民団体協議会事務局時代の田中弘さんが発行に尽力された「京都府市民新聞」の1968年3月15日号~5月15日号まで3回にわたって、映画評論家・滝沢一先生(故人)の「“参加する”映画『祇園祭』」と題したコラムが載っています。何度も書いている“参加する”の表現は、滝沢先生のこの表題から来ています。滝沢先生は「映画『祇園祭』の企画に蜷川府政が真っ先にのったのは、(略)京都府・市民の民主的な自治精神を刺激しようとする目的をもつものだからだ」と述べ、「知事が映画の製作上映に協力するというのは、知事も市民といっしょになって、鉾の綱をひこうという意味である。だから映画『祇園祭』は、京都府・市が有力なスポンサーになるからといって、京都府の映画でもなければ、京都府・市民だけの映画でもない。これはどこまでも、“日本映画”“日本人の映画”であるべきだ」(3月15日号)と綴っておられます。難しい問題があるのでしょうが、この作品が開かれた形になることを願っています。

 

 

 

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