おもちゃ映画ミュージアム
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2016.03.02infomation

「石田民三監督生誕115年記念上映+研究発表会in京都」の報告

「二月は逃げる」と言いますが、本当にその通りで、もう今日は3月2日。先月20日に開催した「石田民三監督生誕115年記念上映+研究発表会in京都」から早や11日が経ちました。近づく企画展などの準備に追われ遅くなりましたが、その折の報告を掲載します。

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開催日前日の奈良新聞に、紹介記事を掲載していただきました。当日はあいにくの雨模様で肌寒い一日でしたが、2月13日付け京都新聞、そして、この奈良新聞を読んだ方々も、お忙しい中、ミュージアムに足を運んでくださいました。京都ゆかりの石田監督ですが、晩年の作品『古代の奈良』(1960年、近畿日本鉄道)はそのタイトル通り、奈良の人にこそ見て欲しい内容ですので、記事掲載していただけたことはとても嬉しく、心から御礼申し上げます。

では最初に、昨年石田監督の作品『おせん』(1934年、新興キネマ)のフィルムを発見された佐藤圭一郎さんのリポートからどうぞ。氏は、「古書からたち」を営みながら、石田民三伝を執筆中の若き研究者です。

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2月20日はあいにくの雨だったが、15時、17時の二回の上映会+研究発表は盛況の裡に終わった。当日の様子を簡単に報告する。

まず中原逸郎氏の「石田民三と京都北野上七軒」という研究発表。中原氏のこれまで発表されている上七軒及び石田民三に関する研究をまとめたもので(氏の名前で検索すると研究室HPに論文等の業績一覧があるので詳しくは論文にあたるのがいいだろう)、上七軒の成立から戦後の石田民三の活躍までの数百年を貴重な資料を使って駆け足で見ていくスケールの大きな発表だった。人名事典の類では映画の仕事が主になるので戦後は映画を撮れなかった映画監督として「悠々自適」の一語で済まされてきた石田の活躍ぶりを「北野をどり」を中心に、俗曲収集、上七軒のムードメーカー(野球チームの立ち上げなど)、若葉会などの若手育成、京都名士の素人歌舞伎による歳末チャリティー「素人顔見世」など多岐にわたることを紹介した。

京都で上映会をする醍醐味というべきだが、上映会場には石田民三を直接知っている人が幾人もおられた。石田と交友のあった書家の綾村担園ご息女による思い出話をここに紹介する前に、石田が晩年に書斎を紹介した随筆「汁一堂漫語」に綾村との交友が描かれているので引用しておこう。

 

某日――書家の綾村担園老が飄然とやって来た。久しぶりのこととて先ずは一献――やがて例によって酔筆――背後に掲げてある「寂」の一字が即ちそれであるが、この字をよく見ると瓢の形をなしている。「これは君の姿だ――」と呵々と笑う老に「然らば夫子自身は如何に?」と借問すると「余も或いは然らん」と憮然と腕を組む老であった――。「寂しがりやが一升さげて寂しがりやに会いに来る」と云う唄の文句があったが、世の中には同じような仲間がずいぶん居るようである――。(「木」篠田銘木店、1970年10月号)

 

綾村氏のお話によれば、石田と綾村は飲み友達で、石田の実家の銘酒「百千鳥」の字は綾村の揮毫によるものとのことだった。石田の実家の増田酒造株式会社は戦中に国策により廃業を余儀なくされているので、あるいは石田と綾村の交友は戦前からであったか。石田と綾村の交友は「夕刊京都」の原在修氏を通じて始まったのかもしれないとのこと。石田は大丸の井上甚之助らと1952年に素人顔見世を立ち上げ、世話人を務めていたので京都の名士との交友エピソードはまだ眠っているに違いない。向後に期待したい。

 

また会場には石田が仲人をつとめた上七軒の洋食店「万春」のご夫妻もお越しで、仲人の時も靴下に穴が空いているなど風流人でありながら飾らない、石田の万年書生のような一面をお話し下さった。先に引用した石田の文章にある「飄然」、また石田の文章には「飄々」など「飄」の語が頻出するが(ペンネームでも使用)、飄々と生きることは石田の人生哲学のようなものであった。そうでなければ『花ちりぬ』の監督が『をり鶴七変化』の監督であることを理解できないだろう。しかしそのために石田民三の仕事の全体像は飄々として捉え難いものとされ閑却されてきたきらいがある。

そういう現状にあって今回の『おせん』(1934)の発見・上映は石田の首尾一貫性を明らかにするものとして重要であろう(もちろん残された作品に首尾一貫性ばかり認めたがるようでは従来のように石田民三的存在を閑却させることになるのだが)。小村雪岱の構図を借りた『おせん』の独特の浮世絵風の構図は、単に構図主義と言うにとどまらず、のちの『花ちりぬ』(1938)における勤王でもなく佐幕でもない第三者――お茶屋の芸舞妓たちの物語へと深化・発展するし、戦争末期に『花ちりぬ』の変奏として作られた『あさぎり軍歌』(1943)では軍部や評論家から「傍観者」的視点と咎められることになるだろう。

また『古代の奈良』は戦後も石田の演出力がまったく衰えていなかったことの証左であり、石田が戦中につまらない映画を撮りすぎて退社に追い込まれたかのような認識に再考を促すものである。映画界引退について石田は『あさぎり軍歌』で軍部からいじめられ映画がいやになったと言葉少なに語っているのみだが、それでも戦後暫くすると映画界への復帰を考えていたらしい。実際には映画界への復帰は叶わなかったが、晩年には花街を通して京都を描く映画を構想していたようである。

 

最後に、関西ではフィルムで見ることは不可能である(東京では都立多摩図書館の16ミリフィルムがあるので貸出視聴可能)『古代の奈良』のDVD-Rをお貸し下さった猪熊兼勝先生、上映の機会を下さったばかりでなく、上映会のチラシ作成に配布などお世話になり通しのおもちゃ映画ミュージアム、またチラシ配布を快く引き受けて下さった神戸映画資料館、京都文化博物館、シネ・ヌーヴォ、その他の施設、雨の中ご来場下さった方々に感謝申しあげます。

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 DSC04489写真は、 『おせん』の解説をする佐藤圭一郎氏。当日の配布資料は、朝日新聞夕刊1933年9月30日~12月13日付け(全59回)連載の、小村雪岱画『おせん』全挿画。そして、「キネマ旬報」「映画之友」などに掲載された映画『おせん』をめぐる言葉たち。

足元が悪い中、大勢来ていただきまして、心から御礼申し上げます。

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