おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2017.02.02infomation

森 恭彦さんから講演会「反論!…日本『映画』事始め」のレポートが届きました

1月28日13時半から開催した森 恭彦(やすひこ)さんの講演会「反論!…日本『映画』事始め」は、おかげ様で多くの皆様の参加を得て大いに盛り上がりました。昨年12月4日に開催した武部好伸さんの意気盛んな講演会「映画の渡来、120年目の真相~日本の映画発祥地は京都ではなく、大阪だった~!?」を受けて、その日に京都の立場から「反論をします」と上品に手をあげてくださった森恭彦さん。お二人は共に読売新聞大阪本社の先輩後輩の間柄。1995年には大阪本社文化部と東京本社文化部が一緒になって1年間連載した『映画百年 映画はこうしてはじまった』のチームの同僚として活躍。

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後にこの連載は、キネマ旬報社から1997年に刊行されました。大学でフランス文学を専攻された森さんはリヨンとパリでも取材をされ、今回の年末年始の貴重なお休みをこの時の資料探しに充て、講演会本番に向けて準備して下さいました。当日は森さんの講演から始まり、続いて武部さんが「まだ言い足りない」と前回の発表以降に見つけた資料なども交えてお話くださいました。

お二人の発表者それぞれから当日のレポートが届いていますので、発表順に、先ずは森さんのレポートから掲載します。

 

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2017.1.28

反論!…日本「映画」事始め

読売新聞大阪本社編集委員 森恭彦

『大阪「映画」事始め』の著者であり、映画が日本で初めて上映されたのは京都ではなく大阪だった、とする武部好伸さんの「おもちゃ映画ミュージアム」での講演について、コメントを加えたいと思います。

京都市中京区蛸薬師通河原町東入る、元立誠小学校の京都電燈跡地に「日本映画発祥の地」の駒札が立っています。「稲畑勝太郎が日本で初めて映画(シネマトグラフ)の試写実験に成功した場所である」と書かれています。シネマトグラフは世界最初の映画の撮影・映写兼用機で、1895年、フランスのリュミエール兄弟が発明しました。特許はこの年2月に取っています。映画を意味するシネマという言葉はシネマトグラフから来ています。シネマの語源はギリシャ語で、「動き」を意味します。

この京都での試写よりも早く、大阪・難波の鉄工所で荒木和一による映画の試写が行われました。荒木が輸入したのは、シネマトグラフに少し遅れてアメリカのエジソンが発表したヴァイタスコープでした。この前後関係は武部さんの指摘の通りでしょう。塚田嘉信著『日本映画史の研究』(1980年)などにも同様の記述があります。吉田喜重らの『映画伝来』(1995年)も荒木のヴァイタスコープが先に輸入されたと紹介しています。それにもかかわらず、塚田も吉田らも、稲畑のシネマトグラフを日本の映画の始まりとして、前に置いています。

京都の試写地が長く、鴨川の「四条河原」と伝わり、歌舞伎の発祥地と同じ場所だと誤解されたこともあって、この試写は必要以上に重要視されてきました。しかし、実際に試写が行われたのは四条河原町の交差点近くの京都電燈の庭だったことが調査の結果、明らかになっています。そもそも、京都であっても大阪であっても、上映できるかどうか実験したに過ぎない非公開の試写を「発祥」とすることに違和感があります。世界の映画の始まりは1895年12月28日、パリ・オペラ座近くのグラン・カフェで行われたシネマトグラフの有料上映の日とされます。これより先、同年3月22日にパリの国内産業振興会で出席者に向けて行われた無料の上映会は「始まり」とされません。商業公開をもって「映画の最初」とするのが一般的です。日本の有料上映は1897年2月15日、大阪・難波の南地演舞場で、稲畑の輸入したシネマトグラフによるものでした。

 ただ、京都を「発祥」地というのも、それほど的外れではありません。稲畑がシネマトグラフとともにフランスから連れ帰った映写・撮影技師、コンスタン・ジレルによる最初の映画撮影は京都を拠点に行われました。京都の稲畑家で家族を撮影した「家族の食事」もその1本です。稲畑らを縁側に座らせ、茶を飲んでいるだけなのに「食事」というタイトルを付けています。こうした誤解や“やらせ”も含めて映画の始まりを考察するべきです。

 この映画は稲畑から同じ京都の横田永之助へ、そして横田が設立した横田商会に渡ります。京都の横田商会が東京の3社と合併して日活が誕生します。横田商会や日活京都撮影所で活躍したのが「日本映画の父」、牧野省三でした。もう一点、付け加えます。京都電燈での試写には後の松竹監督で、日本映画の基礎を作った一人、野村芳亭も立ち会っています。日活と松竹は戦前の代表的な映画会社でした。日本の映画産業の元をたどれば、この京都での試写に行き着くのです。荒木のヴァイタスコープは産業化につながりません。

 シネマトグラフは突然、発明されたものではありません。各国で様々な映写装置が作られ、それらの技術改良を受け継いで、わずか1年弱でリュミエール兄弟はシネマトグラフを開発したのです。映画は実験室や工場を出て、産業となりました。リュミエール兄弟の最初の映画が「工場の出口」というタイトルであるのは、まさに象徴的な事態です。その瞬間が「最初の映画」です。日本「映画」は京都で始まったと言っていいでしょう。

 

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いかにも京男らしい風貌の森さんは、やんわり とではありますが、「ここで一つ」と隣に座る武部さんをチクリと幾度となく刺すのですが、武部さんには、余り痛くないようで。その知的、文化的なトークバトルがとても面白かったです。

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