2018.11.13infomation
11月14日から、没後50年記念企画「オールスター映画の巨匠 池田富保展」
近年、尾上松之助遺品保存会の活動はめざましい成果を見せています。尾上松之助の仕事を掘り起こすだけでなく、松之助を支えた監督や俳優たちにも広がっていて、すでに忘れられた映画人を発掘し見直す作業は先人たちの名誉の回復だけでなく、先達のすぐれた知恵や技法、時代の背景を学ぶことに貢献しています。
このような保存会の活動にささやかながら当館が協力していく中で、先達の仕事ぶりが、短い映像の中にも浮かび上がってきました。特に、パテ・ベビー版『荒木又右衛門』(1925年)や『忠臣蔵』(1926年)の発見は、これまでイメージされてきた「目玉の松ちゃん」こと、尾上松之助像を大きく見直すきっかけになりました。さらに、監督池田富保(1892年5月15日―1968年9月26日、76歳没)の存在が、日本映画史上で重要な位置を占めていたことにも気付かされました。
歌舞伎劇からリアリズムに向った映画劇の発展からすれは、大袈裟な芝居、目を剥き、見栄を切る松之助映画は、古色蒼然として、映画発展の妨げのように長く思われてきました。しかし、『荒木又右衛門』の立ち回りや『忠臣蔵』で松之助が演じる大石内蔵助像は、リアリズムを志向する映画界の流れに決して遅れを取っていないことを十分に証明しています。松之助映画のお抱え監督という感があった池田富保が、松之助を説得し、写実的な演技と映画劇としての成熟度を示しました。
また、松之助没後の『地雷火組』(1927‐28)や『弥次喜多伏見鳥羽の巻』(1927-28)は、大河内伝次郎と河部五郎の主演ですが、これらの作品からも、初期時代劇の世界にあって、決して伊藤大輔だけが秀でているのではなく、池田富保の存在の大きさも見えてきます。
『忠次旅日記』(1927)や『一殺多生剣』(1929)、『斬人斬馬剣』(1929)などの革新的な演出が話題になり、伊藤はすでに神格化した監督として評価されています。一方の池田はといえば、『忠臣蔵』を代表するスター映画の保守的な職人監督として、今では忘れられた存在となっている感があります。しかし、伊藤と対比しながら池田富保を見ることで、往時の映画が如何に豊かなものであったかがお分かりになるでしょう。
尾上松之助遺品保存会松野吉孝さんの全面ご協力で開催の運びとなった今回の展覧会は、大正から昭和初期の映画界、日本映画(無声映画期)黄金期を飾る重要な存在であった池田富保監督の人と芸術を再発見する場にしたいと思っています。
チラシに、3000点の映画ポスターなど6万点に及ぶコレクションで知られた映画史家・御園京平さんの『オールスター映画の巨匠』(1991年)の文章を引用して掲載しました。その最後の2行「私は池田富保によって映画の面白さと広い間口を知った。そして、伊藤大輔によって映画の面白さと奥行きを知った」を引用した理由は上記の所以です。
日本映画史研究者の本地陽彦さんに確認したところ、この企画展は日本で初めての「池田富保展」に間違いないとのことです。「悲しいかな、忘れられた監督、の一人だと思います」とのコメントが添えられていました。伊藤大輔が戦後も活躍し、作品が残っているのに対し、池田富保監督の作品が、残念ながらほとんど残っていないことも影響していると思います。
一人でも多くの人に、池田富保監督の「映画の面白さと広い間口」を知ってもらえたら、と願っています。