おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2018.12.15infomation

小型映画研究の飯田定信さんから、パテ・ベビーカメラ使用経験がある塩澤昂一氏への取材レポートが届きました!

昨年12月1日に発行した小冊子『パテ・ベビーの時代』執筆者のお一人、飯田定信さんから取材レポートが届きましたので、早速ご紹介します。お話を聞かせて下さったのは、塩澤昂一さん。2016年4月2日まだ薄暗い4時から放送されたNHKラジオ深夜便「明日へのことば」に出演した連れ合いの話を奥さまの直和子さんがお聞きになられ、その内容を昂一さんにお話されたことから、その年の7月2日、そして飯田さんのレポートにもありますように、9月24日の飯田さんの発表の日にもお越しくださいました。その時の様子はこちらに書いております。ご縁をいただき、『パテ・ベビーの時代』執筆にご協力いただいただけでなく、今回の取材にも快く応じてくださいましたこと、心より御礼を申し上げます。

では、飯田定信さんのレポートを、どうぞ‼

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9.5ミリを訪ねて

 

2017年4月と2018年6月の2回に渡り、かつて9.5ミリのパテ・ベビーカメラを実際に使ったことのある方にお話を聞くことできました。横浜市在住の塩澤昂一氏で、最初にお会いしたのは2016年9月におもちゃ映画ミュージアムで行った研究発表『機材と技術からみたパテ・ベビー~カメラから現像・編集、映写機まで~』の時でした。ご自身が使われていたパテ・ベビーカメラのひとつをお持ちくださり、おもちゃ映画ミュージアムに寄贈されています。発表会のあとの質疑応答でもコメントをいただきました。塩澤氏への聞き取りの成果の一部は森末典子さんとの共著で書きました冊子『パテ・ベビーの時代』にも反映させていただきました。今回の記事は塩澤氏の小型映画に関するお話を再構成してまとめたものです。

 

塩澤氏は1932(昭和7)年生まれで、電子工学の技術者であり、現役で働いていた際には通信機器関係の技術の仕事をされていたそうです。会社に入ったばかりの頃には空襲で焼けた電話交換機の修理や入替をしたこともあるそうです。学生の頃から小型映画だけでなく、オーディオにも関心があり、当時は放送局がラジオのために街頭録音行なっていて、その際に使われていたレコードのカッティングマシンによる録音を試したり、オープンリールのテープレコーダーが出始めた頃にはテープレコーダーを組み立た話など、オーディオへの思いもお話いただきました。

 

9.5ミリとの関わりは子ども時代からで、1904(明治37)年生まれの塩澤氏の父親が9.5ミリカメラを使っていたからだそうです。父親はその当時名古屋で食品会社の会社員をしており、社員の間でパテ・ベビーが流行っていて、先輩に勧められて買ったそうです。買ったのは名古屋に伴野商店の支店があり、そこで購入したそうです(注1)。塩澤氏の父親はパテ・ベビーの同好会などには所属していなかったそうですが、知人の中にそういう会に入っていたのかパテ・ベビーの趣味の人がおり、回し見していた9.5ミリ映画のなかにはアニメーションやステンシルカラーの作品もあったことを覚えているそうです。

 

その当時に父親が同僚と行ったスキー旅行の写真を見せていただいたのですが、塩澤氏は9.5ミリを持って行ったそうですが、スキーに同行したなかのひとりに16ミリを所持していた人がいて、その人は裕福な家族の子息で、家も殿様の屋敷ような印象だったといいます。父親は生まれたばかりの塩澤氏を9.5ミリでよく撮影したそうですが、父親が撮影したもので覚えているものには、名古屋の火災の影響で国鉄の特急が本来の経路でなく、変わった場所を迂回している様子を撮った映像があり、それは貴重な映像ではないか、ということです。その後戦争もあり、1930年前後の数年で父親は9.5ミリカメラを使うのはやめてしまったそうです。

 

塩澤氏自身が小型映画を使うようになったのは、1952(昭和27)年頃からで、父親からパテ・ベビーカメラを譲り受けたことがきっかけで、戦前から小型映画を扱っていた九段下の中村パテー商会で9.5ミリの生フィルムを扱っていることがわかり、買いに行ったそうです。この時購入したフィルムは35ミリフィルムを裁断・穿孔したもののようです。1950年代にはすでに8ミリ(ダブル8)は日本に入ってきていましたが、あまりよいものが出回っておらず、9.5ミリのほうが写りがよかったそうです。当時、中村パテー商会は九段下のホテルグランドパレスの向かいにあり、初代の創業者の方によって営業されていたそうです(注2)。この時、塩澤氏が父親から譲り受けて使用していたドイツ製の9.5ミリカメラ(シネ・ニッツオ、Cine Nizo)はメカニズム部分では優れていたが、レンズは絞り開放でf5.6という暗いもので、父親が撮ったフィルムでも感度が低いフィルムで撮ったものなど、室内を撮影したはずが真っ暗というフィルムもあったそうです。そこで中村パテー商会でf1.5の明るいレンズがついていたパテ社製のモートカメラ(Motocamera)を探してもらい、その後はそれで撮影するようになり、夜景でも上手に撮れるようになったそうです。

 

塩澤氏の所有機材を拝見させていただいたのですが、パテ社製のモートカメラ(Motocamera)のほか、映写機では当時の高級機であったパテ・ルックス(Pathé Luxa)映写機が動く状態で保管されていて、当時の三脚やスプライサーなどの付属品もお持ちでした。実際に9.5ミリ映写機を使って200フィートほどの9.5ミリの作品を映写して見せていただきました。作品は現在の両国国技館に移転する前の蔵前国技館での1952(昭和27)年の大相撲の秋場所を撮影したものでした。オープンリールと9.5ミリ映写機を同じモーターで駆動させることで、9.5ミリで音声が同期再生できるテープトーキーを自作したことがあるそうで、部品を残して分解してしまったそうですが、大相撲の秋場所の9.5ミリもラジオからオープンリールテープに録音した実況音声とシンクロするようにつくったものだったそうです。1960(昭和35)年頃からはダブル8のカメラを使うようになり、三協精機やキヤノンなどのカメラを使い、とくに三協精機のものはメーカーにレンズのターレット部分の改造をしてもらったりしたそうです。その後、スーパー8に切り替え、ビデオが主流になる1988年頃までフィルムで撮影していたそうです。塩澤氏が撮影されていたのはおもに旅行などで、9.5ミリの頃から旅行ものを撮影していて、ダブル8の頃には北海道にSLの三重連を撮影に行き、このときは音はテープレコーダーで録音もしたそうです。

 

注1 ・文献では名古屋の伴野商店の店舗は確認できなかった。

注2 ・その後、九段下駅近くに移転、2009年頃までDPE店として営業している。

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