おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2022.08.06infomation

夏の企画展「『シベリア抑留』って、知っていますか?」開催中

2019年から始めた「映像を通して平和を考える」シリーズの第5回目のご案内です。

第1回目は2019年8月11日、滋賀県長浜市にある高月観音の里歴史民俗資料館学芸員西原雄大さんの研究発表「近代記録映像から災害・文化・戦争を考える」と、白石慶子監督アニメーション作品『ホウセンカおじいちゃん』、小林まことさんが立命館大学映像学部卒業作品として当館所蔵映像も使用して作ったドキュメンタリー映画『あこがれ』、そしてNOddINによる『戦争のつくりかた』(2015年)の3作品をご覧いただきました。

第2回目の12月は河田隆史さんのコレクションで「戦争プロパガンダ展―ポスター・雑誌・映画-」を開催し、8日に「ブラジル移民と満州移民送出の背景を探る」と題して、近畿大学工業高等専門学校の田中和幸准教授と大阪大学大学院の安岡健一准教授に講演をしていただきました。私もブラジルと満洲移民促進に幻燈と映画を用いて社会活動をしていた長野県の岸本與について現地調査をした結果を報告しました。

第3回目は2020年7月29日~8月30日に資料展「『満洲国』って、知っていますか?」を開催し、8月1日松岡勲さんに講演「靖国を問う~遺児集団参拝と強制合祀~」、23日には子どもの頃に一人で満洲から引き揚げてきた体験をされた黒田雅夫さんが自ら描いた絵を示しながら貴重なお話をして下さり、大人になって中国から引き揚げてきた男性の実話をもとにした大型紙芝居『やっちゃんと3人のおかあさん』と多くの満洲移民を送出した『大日向村』の紙芝居を上演し、資料展期間中毎日ご覧いただいた満洲の記録映像の数々も上映しました。

第4回目は2021年8月4日~9月26日に「戦後76年、戦争パネル展『戦争の真実』」を開催し、一般社団法人アジア南太平洋友好協会・だるま寺さんのご協力で南太平洋方面戦没者遺品収集品も展示し、武器の残骸など実際に手に取って、その重さを体感して頂きました。フィリピンには、日本人であるという証明ができず取り残されたままの残留邦人が千人近くおられるという事実を知ってもらいたいと願い、期間中は毎日小原浩靖監督のドキュメンタリー映画『日本人の忘れもの-フィリピンと中国の残留邦人-』をご覧いただきました。映像との関係もあり、戦争パネル展では主に中国と南太平洋地域に絞りました。このパネル展示でご協力いただいた「京都原爆展を成功させる会」の繋がりで村田洋子さんと知り合い、その時にシベリア抑留をテーマにした展示の協力をお願いしました。

戦後シベリアに抑留された約60万人の日本人のうち、抑留中に亡くなったのは約6万人と言われています。そのうちかなりの人たちは1945年~46年春にかけて亡くなっています。上掲チラシ2枚に載せている協力団体の一つに「京都シベリア抑留死亡者遺族の会」があります。村田洋子さんの父亀井励(つとむ)さんが1993年4月に発足された会です。洋子さんの祖父弥之亮さんは満洲開拓団第二天田郷開拓団の責任者として1945年2月に依蘭県に渡ります。敗戦後、一緒にシベリアに抑留されていた仲間から、弥之亮さんが1946年シベリアのクラスノヤルスクで亡くなったことを知ります。その後、励さんはシベリア抑留問題や、抑留体験者・遺族の現状を次の世代に引き継いでいかねばという思いを強くし、遺族間の連携強化も必要だと考えて、「京都シベリア抑留死亡者遺族の会」を立ち上げ、熱心に活動を続けられましたが、2016年2月に80歳で死去。その後を洋子さんが引き継いでおられます。

展示には励さん著『シベリア抑留者と遺族はいま』(1992年、かもがわ出版)、絵本『シベリア抑留って?』(2000年、文:励さん、絵:木川かえるさん)、子どもたちにシベリア抑留の事実を伝えようと学校で授業された折の感想文を綴った『ひどいのはロシア人ではなく、戦争だと思う』(2005年、同遺族の会)も並べていて、自由に手に取ってご覧いただけるようにしています。

洋子さんのご紹介で一般財団法人全国強制抑留者協会の方とも知り合いました。同協会所蔵資料の中からいくつかを借用して展示しています。防寒着や手袋も展示していますが、これでマイナス30~40度の厳寒に耐えるのは過酷だったろうと思います。チラシにも用いている奈良県大和高田市にお住まいだった吉田勇さんが描かれた抑留当時の様子を描いた絵も借用してたくさん展示しています。励さんが『シベリア抑留者と遺族はいま』を出版された当時、吉田さんは健在で、満洲やシベリアの絵を描き続けておられたようです。飢えと不十分な施設、極寒の中で課せられる伐採などの重労働、さらにはソ連兵だけでなく旧関東軍時代の階級絶対主義の体制が収容所内でも継続していることによる圧政、と幾重にも悪条件が重なる中での抑留者の姿が暗く、重く描かれていて、見る者の胸に突き刺さります。

「死者が出ることになれてくると、亡くなる数日前に死相が出て、間もなく死ぬことが分かる。そうなると周囲の仲間が、いつ死ぬか、誰が衣類をはぎ取るか、お互いに牽制し、競争した、という。ギラギラと目玉が光るような光景を想像すると、誠におぞましい。あまりにも非人間的な話ではある。しかし、お互いに生きるか死ぬか、といった状況の中で、それはギリギリの選択だったのだろう。非人間的であることが、生き残るための一番の選択であった、と抑留記に書いている人が何人もいる」(『シベリア抑留者と遺族はいま』82頁)

展示に際し年表を作成しました。幾つかを拾うと、1941年4月に日本とソ連が相互の領土を不可侵とする日ソ中立条約を結びますが、1945年2月にアメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンがヤルタ会談を開き、連合軍に参戦を迫られたソ連は樺太南部・千島列島の領有や満洲の権益の見返りとして、ドイツ降伏後に対日参戦する秘密協定を結びます。4月にソ連は日ソ中立条約を延長しないことを日本に通告しますが、その条約は1946年4月まで有効でした。5月ドイツが無条件降伏すると、ソ連は欧州の兵力をソ連国境に集結させ態勢を整えます。一方の関東軍は苦戦が続く南方戦線へ移動していて、国境警備は開拓団や青少年義勇軍など現地の民間人から招集した俄か仕立ての兵隊にさせていました。その警備のもろさをついて、8月8日ソ連は日本に宣戦布告し、翌9日ソ連軍攻撃開始。満洲・朝鮮北部へ、11日に樺太南部に侵攻します。そして8月15日「終戦の詔書」ラジオ放送後の8月23日、スターリンは「日本軍俘虜50万人」を労働力として利用するよう決定し、24日に命令します。そして、8月末に日本人捕虜のソ連領への移送が始まります。

日本の状況認識の甘さがこの悲劇を招いたとしか言いようがありません。そして、今年2月に始まったロシアのウクライナ軍事侵攻を見ていても、彼の国は変わらないのだなぁと思って見てしまいます。亀井励さんの学校での授業を聞いた子どもたちが「私はもうぜったいに、戦争してもらいたくないです。ぜったいにシベリア抑留みたいなことにはなってほしくないです。もっと多くの人にもこのシベリア抑留を知ってもらいたいと思います」と感想を綴っていますが、同じ気持ちで今回の展示をします。

関連して9月10日(土)14時から催しをします。佛教大学の原田敬一名誉教授に講演『シベリア抑留を歴史的に考える』をしていただき、シベリア抑留者支援・記録センター様のご紹介で縁を得た㈱ケー・シー・ワークス様のご協力で映画『私はシベリアの捕虜だった』(1952年、東宝配給、86分)を上映します。その後、先に触れた絵本『シベリア抑留って?』をご覧いただきます。朗読は「遊劇体」所属の俳優で演出家の中田達幸さんにお願いしました。なお、この絵本の朗読は企画展期間中、随時ご覧いただけます。

新型コロナウイルス感染防止対策を十分とって開催しますので、企画展・イベント共々、おひとりでも多くの方にご覧いただきたいです。宜しくお願いいたします。

【8月11日追記】村田洋子さんから、文中で触れた絵本『シベリア抑留って?』と本『シベリア抑留者と遺族はいま』を少しずつ預かりました。ご希望の方は各千円でお分けしますので、遠慮なくお声がけください(先着順です)。先ほど近所のご住職にも届けてきました。兵庫県出身のお父様(故人)もシベリア抑留を経験されましたが、多くの仲間が亡くなったのに僧籍の自分が生きて帰ったことが後ろめたくて何も語ろうとされなかったのだそうです。けれども晩年になって、世の中の動きを見ているうちに戦争のことを次世代に伝えなければと考えて、自らの経験を子どもたちに語るようになられたのだそうです。展示をご覧になって「抑留生活のことが絵に描かれていて、父が語っていたことがイメージできた。勉強したい」と絵本を求められました。

 

 

 

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