2017.11.13infomation
石田民三生誕116周年記念「外モノの支えた京都花街の芸」発表者、中原逸郎さんのレポート
石田民三生誕116周年記念 「外(よそ)モノの支えた京都花街の芸」京都楓錦会・中原逸郎
去る10月21日(土)、22日(日)、荒天の中、おもちゃ映画ミュージアムまでお運びいただきました皆様、とりわけ上七軒関係者の川端、田中、伊藤の諸氏に感謝します。また、上七軒の映像上映を許可いただいた立命館大学映像学科の鈴木岳海先生と、映像の存在を私に教えてくれた上七軒の旧茶屋「長谷川」の長谷川小四郎氏に感謝します。長谷川氏とは上七軒の共同で古文書解読に挑んでいましたが、今は鬼籍に入られました。
さて、当日発表した内容をお伝えしたいと思います。
* 花街は主に座敷における歌舞音曲の披露を通じた、都市民の交流の場です。
伝説では北野上七軒(京都市上京区、以下上七軒)は足利将軍のころ、北野天満宮(当時は北野天神)造営の折、作られたとされ(京都府、1872)、それゆえ、市井では京都最古の花街とされます。一方、祇園甲部(京都市東山区、以下甲部)も八坂神社の参詣者を対象とした江戸期の水茶屋がその始原と考えられています。
花街の芸に関し、中原逸郎は茶屋の内外における芸の分類を試みました(中原、2016)。花街における花街舞踊は、茶屋内で披露される芸を一般社会に発信する場で、その発信は経営的、興行的にはかなり負担でしたが、戦前、戦後を通じて行われ、花街の心意気(関西の花街では粋(すい))を示してきました。
本発表では、これら花街舞踊を支えてきた人物に京都以外の出身者が多いことに着目し、その実態を把握したい。そのため、祇園甲部に携わった吉井勇(1886-1960)と上七軒の演出に携わった石田民三(1901-1972)の事績を比較しました。
10月21日(土)
祇園甲部と吉井勇
(1)祇園甲部の芸能の土壌
祇園甲部は古くは祇園新地といい、琵琶湖の寄港地である大津との距離も近く、鉄道が開通した明治以後は京都駅との近接性が有利に働き、大規模を誇る花街となりました。鴨川を利用した染色技術の発達した場で、染物の着物を着た若年芸能者(舞妓)を名物としました。
舞妓の風情は京都の風物として詩歌にも歌われ、多くの文学者を刺激したと思われます。一例ですが、吉井勇や長田幹彦、佐々紅華、久保田万太郎、谷崎潤一郎、夏目漱石等の東京出身者が挙げられます。
『月刊誌京都4月号』(白川書院、昭和49年4月)に掲載された森川舟三による「都をどりと井上流」には、勇は立派な古典舞踊であるという古格を重んじて、「おどり」ではなく「をどり」という旧仮名遣での表記に拘った(吉井勇記念館ホームページ)としています。昔の風情を残しつつも観客が新鮮味を感じられる趣向に勇は腐心したと言います。昭和25(1950)の都をどりの置うた(リード)を示します。
「和らぎし昭和の御代も廿五の年を重ねて新しく姿手ぶりも大いなる再びここに貴やかにわれらが時を迎えばや」
戦争で踊りの会が中断していたことによる鬱積が一挙に晴れる様子が伝わってきます。
発表では、谷崎潤一郎の「磯田多佳女のこと」(谷崎潤一郎、昭和22年〈1947〉、全国書房)を中心に多佳の描いた草花や祇園甲部の文学女将 磯田多佳と夏目漱石、谷崎潤一郎、横山大観等の交流そして茶道と一体化した多佳の生活を偲びました。
表1.祇園甲部と関わりのあった文学者(筆者作成)
(2)吉井勇と都をどり
吉井勇は華族の家に生まれ、早稲田大学(東京都新宿区)に学びました。一説には与謝野晶子の短歌「清水へ祇園をよぎる夕月夜 今宵見る人皆美しき」に惹かれて京都に来たとされ、後に祇園甲部の風情を歌った歌を多く残しました。吉井が都をどりに関わったのは、昭和25から36年まで(祇園甲部歌舞会電話調査)で、都をどりにおける貢献に対し、甲部では吉井の祇園を歌った「かにかくに 祇園は恋し 寝る時も 枕の下を水の流るる」から取った「かにかくに」祭を毎年11月8日に行い、顕彰を続けています。
(3)レコードの発達と花街
レコードの発達は芸能習得の機会の拡大という役割を果たしました。一方、レコード会社は主に米国籍が多く、東京に日本支社を置き、録音も東京で行われた。花街舞踊関連レコードの一例を表2.に示します。これらの曲は今日祇園甲部(中原、2016)や上七軒でも演じられることが多く、レコードと花街の芸の関連性が推測されます。
表2. 主な花街舞踊関連レコードの一例(国会図書館データ調べ、旧三階松文庫所蔵)
発表では、映画「祇園小唄・絵日傘」で主人公 舞妓千賀勇の踊りが祇園甲部の井上流の所作と異なること。そのため改めて見ると、指導は若柳流(東京)が関わっていること、また、主題歌の節回しが本物の井上流の節回しと異なっていることを示し、映画が東京のスタッフ中心で作成されたが、実際の花街での歌い方は京都の好みに変えられていることを示しました。
(4)映画人の交流
映画を通じて、歌舞伎や芝居で培われた芸術表現を地方都市でも比較的安価に楽しむことができるものになり、簡単に行くことのできない西洋の風情を居ながらに楽しむことのできる映画は、人々に喜んで受け入れられたと考えられます。
こうした中で、維新の西洋文物を描くことに長けた石田民三に対する評価も高かったと考えられます。石田に影響を与えた人物として、東京都千代田区出身の邦枝完二(1892-1956)をあげることができるでしょう。邦枝は慶應義塾(東京都港区)に学び、洋行しハイカラを謳われた永井荷風(1879-1959)に私淑したと言われ、浮世絵にも詳しかったと言います。
石田に素養があったとは思えますが、映画「おせん」(1934)の邦枝(図3)との出会い、浮世絵を意識した演出を行った後、「お伝地獄」(1935)「江戸鳶」(1939)等江戸情緒のある作品を多く手がけました。戦後は上七軒の北野をどりの演出を始めました。昭和27年(1952)から京都の一般市民が上演する「素人歌舞伎」と題する戦災孤児支援のチャリティ事業を始めましたが、これは邦枝が転居した神奈川県湘南で実施した労働者対象の歌舞伎芝居(1940-45)に範を仰いだと筆者はみます。一例に過ぎませんが、京都が多くの人物の交流を可能にし、さらなる文化的創造を果たしたことを示しました。
10月22日(日)
上七軒と石田民三
(1)上七軒の芸能の土壌
上七軒は古くから西陣の繊維関係者との親密な関係を謳われ、明治5年(1872)に祇園甲部で都をどりが開催された時、上七軒でも花街舞踊が行われたと言います。その場所は北野天満宮東門近くの旧「神楽」という茶屋や岩神座(五辻通り)で(上七軒楓錦会、1922:緒言)。岩神座は西陣の中ほど(現織成館近くの岩神神社)にあり、西陣の労働従事者の娯楽の場として様々な芸能を行っていたと言われています。
井村和雄氏(上京区在住)によると、戦前千本通り(上京区)には夥しい数の映画館が立び、市井に芸達者が多く、八百屋の主人が閉店時間になると木戸銭をとって落語等芸能を披露するような土地柄だったそうです。筆者の調査では北野天満宮の森では、天満宮の厳しい規制の中で、境内の土地を借りながら、歌舞伎芝居や浄瑠璃が行われ、文政時代(1818-30)ごろ茶見世と称して芸が披露されていたようです。
映画はこうしたマチ柄(地元風土)の下、義太夫節や浄瑠璃が流行したようです。西陣では明治の初年、技術者をフランス国リヨン市に派遣して、ジャガード織り等大量生産方式の導入に成功し、この技術輸入に伴い、西陣にルミエール兄弟が発明したばかりのキネマトグラフ(1895)技術がもたらされました。そのため、西陣が日本の映画上映の最先端の場となったのです。
映画は長く、人々の娯楽であったことがわかります。西陣付近の主な映画館の変遷は、1990年に発行された田中泰彦「西陣の史跡・思い出の西陣映画館」に詳しく述べられていますのでご参照ください。
(2)花柳流の導入と石田民三
上七軒の芸は江戸時代に寿仲間により培われましたが、芸を指導してきた篠塚流が大正末期に衰退すると、大阪花街で活躍していた花柳流が受け継がれました(中原2015:71)。
花柳寿輔は文政4年(1821)の生まれで、嘉永2年(1849)に花柳流を立て、「船弁慶」「どんつく」等1500本もの振付を残しました。二代目は大正7年(1918)寿輔を襲名して家元となった。三代目を二代目実子の花柳わかばが継ぎ、四代目は花柳芳次郎が継ぎました(藤田2010:75)。
「花柳舞踊研究会」は二代目寿輔自らが主催する舞踊研究会で、坪内逍遥(1858-1935)の新舞踊運動に影響を受けたとされる(『技芸倶楽部』1924、第2巻1号:口絵、歴彩館所蔵)。花柳流は伝統を重んじつつも、新作を創造していく傾向があったのではないか。例えば長崎博覧会(昭和9年(1934)に3月25日から5月23日)までに創作され、地元丸山の芸妓がオランダ風の扮装で初演した「阿蘭陀(オランダ)漫歳」[長崎新聞 1970年6月19日夕刊]はその一例ではないでしょうか。(図1)。
図1 昭和9年(1934)初演の「阿蘭陀漫歳」を伝えるイラスト(長崎新聞1970)
戦後、上七軒の花街舞踊は昭和27年(1952)に北野をどりが発足しましたが、それより早く、上七軒の茶屋の娘を対象とした舞踊の錬成会である「若葉会」が昭和24年(1949)4月4日、5日に開催予定記事があります(芸能新聞 昭和24年(1949)3月24日第4面)。同年10月8日、9日には2日間の温習会が実施された(華街新聞 昭和24年 11月15日第4面記事)。同年11月9日、10日の2日間に関しては、東京出身で京都在住の花街研究家・加藤藤吉による記事があり、石田民三演出で6演目を実施したことがわかります。加藤は石田を「文化人」と紹介しています(華街新聞 昭和24年 12月1日第4面記事)。
石田は秋田県出身で、東京で学生時代を過ごし、戦前京都市の等持院(右京区)で映画監督を務め、上七軒の芸妓と結婚しました。戦後は映画界を引退し、上七軒の茶屋の主人で、昭和25年(1950)には上七軒内に野球倶楽部を設置し(石田民三 1950年ごろ,元茶屋『長谷川』所蔵)、花街の親睦に一役買っていたのではないでしょうか。野球倶楽部は北真倶楽部と言い、3人の花街の経営者中心に運営されていたといいます。昭和26年(1951)9月には、米軍に接収されていた北野会館が正式に返還されたと考えられ、温習会が開催された(華街新聞,昭和26年9月15日第4面記事)。聞き取りでは北野会館はダンスホールとなり、米国将校のダンスの相手をする「ダンス芸妓」のみが入場を許されました。今もダンス芸妓が居住していたお茶屋が2軒確認できます。
図2 昭和27年(1952)ごろの上七軒茶屋関係者。石田は最前列右端。(元茶屋万春旧蔵)。
上七軒では、この翌年の昭和27年(1952)に、北野天満宮の創建1050年を記念して奉納芸とも言える、「北野をどり」が開催されました。昭和31年(1956)6月の温習会[華街新聞 昭和31年10月10日5面]は小唄と坪内逍遥作の常磐津が披露されています。
昭和34年(1959)には長唄、常磐津、小唄、清元が開催され、文化文政時代の演目に加え、新作が披露されました。江戸の町人の着流しを京都の島原の太夫に変身させた演出を行い、「寿会」を名乗りました。
昭和36年(1961)には第二回寿会が開催され、演題は長唄、常磐津、小唄、清元が披露された。演題は黒木売(大原)、鳥辺山(右京区)、うつぼ猿(上京区、閻魔堂狂言等)、小鍛冶(三条)、戻り橋(上京区)、喜撰(宇治)と京都にちなむものでした。
昭和37年には、京都らしく大宮人(公家)が桜をかざして群舞させ、大正8年(1919)長唄研鑽倶楽部で募集し作品を取り扱いました。昭和21年(1946)5月西川鯉三郎が名古屋御園座で襲名披露に用い、九代目団十郎が新舞踊劇創始の意気込みで取り上げた能狂言の舞踊化で岡村柿紅作詞、常磐津林中作「花子」もありました。
紙面上省略するが、以降東京等外部で発表された作品を導入し、京都の風情に改めるといった作業が演出家石田の指揮下に行われました。
当日の発表では以下の作品を上映しました。
1.づいき(ずいき)祭
づいき(ずいき)祭は北野天満宮の祭神である菅原道眞(845-903、天神さま)を祀る神輿を瑞き芋等農作物で作成したもので、瑞き神輿の作成・巡幸は慶長12(1607)とされ、一旦明治8年(1875)に中止されましたが、明治23(1890)北野天満宮の10月の祭で再興された(吉野亨、神道宗教学会29年3月例会資料)と言います。映像は沿道で御神酒を備え迎える上七軒の芸舞妓、市電が走る今出川通りの都市風景とともに八乙女、十八講等民俗学的にも見応えがあるものです。
2.きぬ代のみせ出し
みせ出しは見世出しの意でデビュー時のあいさつ回りのことです。今日では職業的に無くなった男師さんが大傘を差して新芸妓を先導し、上七軒の各茶屋を回る様子が記録されています。きぬよさんは現茶屋の女将の芸の上の姉(妹引くと花街では呼ぶ)にあたり、女将にも映像を見てもらいました。
3.春のおどり(上七軒楓錦会)
上七軒楓錦会は長唄の錬成を中心に行われた上七軒の発表会のことで、楽屋で化粧する、当時は珍しい舞妓(伊藤勝太郎)や芸妓が跳躍を見せる闊達な舞台舞踊の様子が記録されています。石田民三が激賞してやまなかった戦前の全盛時代の芸妓の至芸が見られる貴重な映像です。
4. 豊公茶会
上七軒は豊臣秀吉(豊公)から北野大茶会(1587)の際、法会権という営業権を与えられたとされ、その恩に対し、江戸時代、豊公廟(東山区)に参拝したとされています。上七軒では北野大茶会350周年を記念に合わせて昭和11年(1936)催された茶会に参加しました。古式ゆかしく、桃山時代の上臈(高級侍女)等の服飾をまとい、桃山屏風と思われる豪華な室礼の中で上七軒の芸妓が点茶する姿に人々は桃山の時代を感じ取ったことでしょう。なお、上七軒の点前はこの大茶会の掛釜の一つとして、北野会館で行われたことが資料でわかります(昭和北野大茶会記録、昭和11年)。
5.染織祭
昭和6から12年まで、京都市主催で開催された繊維産業振興のための催事で、平安神宮で特設の神社を備えて、京都各花街の芸妓が有職故実に基づいた各時代の服飾で練りました(沿道で芸を披露し、パレードすることです)。上七軒は奈良時代の中国調の服飾で舞を披露しました。出演者一人ひとりの服飾にいかに時代考証を凝らしたかは次の資料で分かります(『歴代服飾図録』昭和8年10月、歴代服飾図録刊行会)。
3.まとめ
本発表では、京都の二つの花街と主に東京の文化人との交流をみました。西洋化の進む東京の文化人にとって京都の自然や京都千年の歴史的蓄積は創作活動への刺激やヒントをもたらしたと考えられます。
東京の文化人の関わりから京都の風情が映画、レコード等を通じて日本全体に広まった事例をみました。また、京都の風情を喧伝する映画、レコードとも東京の製作技術や芸能者の影響を受けたことを示しました。京都文化の一部である京都花街の文化が京都固有のものとばかりは言えず、「外モノ」との相互作用で成立してきたことを確認しました。
一方で地元固有の文化やしきたり、つまり民俗性の検討が重要で、一旦文化的影響を受けつつも、実際の花街での歌い方は京都の好みに変えられていることを、映画「祇園小唄・絵日傘」の映像と主題歌の検討から示しました。
主な参考文献
藤田洋編, 2010,『日本舞踊ハンドブック』三省堂.
祇園甲部歌舞会,1951,『都をどり』祇園甲部歌舞会.
上七軒歌舞会,1957,「寿会」上七軒歌舞会.
技芸倶楽部社『技芸倶楽部』1924、第2巻1号:口絵、(京都府立京都学・歴彩館蔵)
祇園甲部歌舞会,1951,「都をどり」祇園甲部歌舞会.
田中泰彦, 1990「西陣の史跡・思い出の西陣映画館」京を語る会.
中原逸郎,2015,「芸の脈絡−大阪の花街舞踊の隆盛を中心に−」『都市研究』近畿都市学会,63-78.
中原逸郎,2016,「京都祇園甲部花街(かがい)の芸」『京都民俗』京都民俗学会.
米谷頂録,1922,『温習会』米谷頂録(三階松書庫所蔵).
(新聞)
芸能新聞社,昭和24年(1949)3月24日第4面記事「お嬢ちゃんの若葉会」(国会図書館蔵)
華街新聞社,昭和24年11月15日第4面記事「京の温習会を見て」(国立民族学博物館蔵)
華街新聞社,昭和24年12月1日第4面記事「続京都の温習会」(国立民族学博物館蔵)
華街新聞社,昭和26年9月15日第4面記事(国立民族学博物館蔵)
華街新聞社,昭和31年10月10日第5面記事「上七軒歌舞会秋の温習会」(国立民族学博物館蔵)
長崎新聞,昭和45年(1970)6月19日夕刊3面記事「女のふるさと〈24〉」
高知県香美市香北町猪野々514 吉井勇記念館ホームページ
……………………………………………………………………………………………………………………………………………………
「きぬ代のみせ出し」の映像をご覧になっている様子。大きな傘を差しているのが、今では見られなくなった男師さん。右から2番目に写っているのが、初々しい新芸妓のきぬ代さん。
マイクを手に話しておられるのが発表者の中原逸郎さん。この日はアルバムを資料提供してくださった旧茶屋万春を経営されていたご夫妻も参加して下さり、貴重な話を聴かせてくださいました。ご協力、誠にありがとうございました。