おもちゃ映画ミュージアム
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2018.11.29infomation

没後50年記念「オールスター映画の巨匠 池田富保監督」デジタル展示会

11月14日から始まった没後50年記念「オールスター映画の巨匠 池田富保展」の一押し展示品について、資料提供者の尾上松之助遺品保存会松野吉孝さんからデータが届きましたので、順にご紹介します。

『弥次喜多』(1928年)シリーズ。左から大河内伝次郎、池田富保監督、河部五郎。

同上『弥次喜多伏見鳥羽の巻』。いずれも池田富保監督のおどけたような、映画広告宣伝用とも思えるような写真の数々。尾上松之助逝去後は日活の看板として河部五郎が背負いますが、大河内伝次郎が日活デビューすると、伊藤大輔監督の『忠次旅日記』や『新版大岡政談』などで大ブレーク。ご覧のような喜劇的な演技の幅広さで人気を得て、河部に代わり、大河内が日活の大看板となります。その過渡期として、とても珍しい作品群といえます。

『赤垣源蔵』(1929年)。9月9日「木村白山って、何者?」をした時に、渡辺泰先生が熱く語られた木村白山第1作アニメーション「赤垣源蔵 徳利の別れ」(1924年)を思い出します。いよいよ討ち入りに行くことが決まり、兄を訪ねますが生憎留守。河部五郎演ずる赤垣源蔵は、兄の着物に別れの盃を手向けます。

『大久保彦左衛門』(1927年)。左から池永浩久(こうきゅう)、山本嘉一、池田富保監督。この年12月池永は、日活太秦撮影所を開業し、取締役所長に就任。この写真からも伝わりますが、人情家の池永は所員に人気があり名物所長でした。山本嘉一は、『忠臣蔵』(1926年)で風格ある吉良上野介を演じた日活の重鎮でした。

『不破数右衛門』(1928年)の新妻四郎。2015年に当館で発見された『(実録)忠臣蔵』(1926年)をその年12月12日に坂本頼光さんの活弁付で上映した折り、ご子息も見に来て下さいました。「小さい頃に父を亡くしたことから父親の記憶がなく、せめて映画の中で父を見付けて偲んでいる」という話をされたことを思い出します。濃い眉と髭、印象的な風貌が人気でした。

『尊王攘夷』(1927年)の酒井米子。前掲『(実録)忠臣蔵』で苅藻太夫を演じ、池田富保監督作品を最も支えた女優さんだと思います。今年は「酒井米子没後60年」の年でもあります。とても美しいですね。

『楠公父子』(1933年)。馬に乗っているのが、国際派俳優として活躍した早川雪洲。ニッカポッカ姿の男性が池田富保監督。早川雪洲については、こちらの記事後半で触れています。

『忠直卿行状記』(1930年)。片岡千恵蔵が池田富保監督にお酒を注いでいますが、その何とも言えない表情をとくとご覧あれ!

『尊王攘夷』(1927年)で井伊大老を演じた大河内伝次郎が、尾上松之助子息の中村房吉(房雄)に宛てたサイン。絵葉書ブロマイドの裏に書いてあります。彼にとっては、宝物だったのでしょうね。

『元禄快挙大忠臣蔵』(1930年)。「史跡大石良雄宅阯」と「大石旧邸長屋門」の前で、池田富保監督(左から3番目)、大河内伝次郎(中央)ら、スタッフ一同と記念撮影。門前には駒札や石碑があるため撮影には使えなかったと思えますが、内部などをロケーションされたのかもしれません。映像が残っていれば分るのですが…。

『忠臣蔵』の台本を手に、自宅庭での池田富保監督。とにかくお洒落な方ですね。

松野吉孝さんの思いが、ギュッと詰まった展覧会です。「オールスター映画の巨匠」と形容されながら、今ではほとんど忘れ去られようとしている池田富保監督の最初で、ひょっとしたら最後の展覧会かもしれません。当館にも、これまで修復して保存した幾本かの作品があります。

12月16日には、その中から『(実録)忠臣蔵』(1926年、英語字幕版)、『地雷火組』(1928年)、『荒木又右衛門』(1925年)を片岡一郎さんの活弁で上映します。3作品とも、パテ・ベビー版で発掘した映像を字幕修復したものです。たいへん貴重な機会ですので、ぜひお誘いあわせの上、ご来館ください。

【池田富保略年表】(御園京平編著『オールスター映画の巨匠 』、1991年12月14日発行参照)

・1892(明治25)年5月15日、兵庫県美濃郡中吉川村に父民之助、母すみ江の長男として生まれる。本名民治。

・遊芸を好む父(芸名中村駒次郎)と一緒に旅役者一座にいて、5歳で初舞台。

・13歳で父を亡くし、活版屋、小間物屋等を転々とするが落ち付かず、子どもの頃の役者の道へ戻り、旅廻り一座に。

・2年間の入隊後、当時流行の活動写真の陰台詞弁士として、大阪九条高千代館に勤務。帝キネ系の小屋だったが、他館で尾上松之助を見て、子ども時代の巡業中に松之助と座を共にしたことを思い出し、松之助の台詞を入れたくなって新世界の日活封切大山館に就職し、松之助映画の陰台詞を受け持つ。

・1919(大正8)年松之助に憧れて、松之助に俳優志願の手紙を出す。民治からの手紙を読んだ松之助は、自分が可愛いがった子役だと知って、直ちに呼び寄せ、日活俳優部に入社させる。芸名市川喜当、後に尾上松三郎と改名。

・松之助の映画が旧態依然としているのを革新しようと匿名で脚本を書き、その1本が松之助に認められる。

・1922(大正11)年、脚本第1回作品『八幡太郎と安倍宗任』が辻吉郎監督により映画化される。

・1923年、松之助の実妹キクノと結婚し、池田富保と改名し、監督に転向する。

・1924年1月、第1回作品『渡し守と武士』を撮り、成功する。

・1925年秋、松之助生涯の名作『荒木又右衛門』を製作し、映画史上空前のヒット。池田監督の手腕が認められ、日活首席監督に。1930(昭和5)年春まで、春秋二期超特作作品をつくり、第一期黄金時代をつくる。

・1932年、不況により日活は197名の馘首問題から大争議になり、10月に所長を辞任した池永浩久と一緒に退社。

・1933(昭和8)年12月、フリーの契約で日活に復帰。その頃、映画はトーキー時代を迎え、無声映画は昭和10年代に消える。

・1936年秋、大河内伝次郎と組み『栗山大膳』を撮り、超特作映画として発表される。

・1937年、日活は池田監督に再度オールスター超特作製作の機を与え、『水戸黄門廻国記』、『忠臣蔵』、『続水戸黄門廻国記』、『王政復古』の大作が生み出された。

・1940(昭和15年)、皇紀二六〇〇年記念『大楠公』(阪東妻三郎主演)を発表。この年、奈良の橿原で阪妻が生で演じる『大楠公』を黒山の人々が見物するニュース映像『金鵄輝く建国の聖地』(朝日新聞社製作)は当館でもご覧になれますが、この演劇は映画の宣伝も兼ねていたのでしょう。しかし、映画そのものは、興行的に失敗。

・1941年、戦時体制になり、日活は製作部門を新会社大映(大日本映画製作㈱)に吸収され、池田監督の演出方法は時代に添わぬ者として解雇される。昭和30年代は、望月健佐(けんすけ)の芸名で東映時代劇の脇役として多くの作品に出演。

・1967(昭和42)年4月29日、映画開拓者としての優れた業績に対し、池田監督に国より勲四等瑞宝章が贈られた。

・1968年9月26日、76歳で生涯を閉じる。

 

 

 

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