おもちゃ映画ミュージアム
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2021.08.24infomation

小冊子6『京都の映画館文化』ができました‼

7月に発行した小冊子6『京都の映画館文化』です。執筆者は、約30年間にわたってゲームデザイナーの仕事をされている竹田章作・立命館大学映像学部教授。祖父、竹田猪八郎さん(1901-76年、以降敬称略)の代からの家業である映画看板製作を、京都に映画看板がなくなるまで手伝ってもおられました。

京都の「南座」経営に関わっていた白井信太郎に、23歳の時に見い出された猪八郎は、12月の顔見世興行の「まねき書き」をするようになりますが、それ以外の時間を松竹系列の映画看板を描くようになります。その仕事の中には、手描きのポスターも含まれていました。2016年竹田章作先生からお預かりして開催した猪八郎が描いた手描きポスター展のことは、こちらで書いています。劇場前に貼ったり、予告ポスター代わりに使ったりしたそうです。

当時京都の同業者に井上秀雄という京都で最も多くの劇場看板を手掛けていた人物がいて、その妹が猪八郞の妻になります。

井上とその弟子達との付き合いの中で、猪八郎は幻燈機を使った“アタリ取り”などの技術を学びます。映画がトーキーになった1927(昭和2)年に長男耕作が生まれ、父の仕事場である京極を庭のように歩き回って劇場に出入りし、映画に親しむ子ども時代を過します。

持病で兵役を免れた猪八郎は、病死した井上秀雄の一番弟子で1948(昭和23)年12月に復員してきた松本利一と一緒に、「タケマツ画房」を立ち上げました。やがて大阪の劇場看板専門の不二工藝社で修行した耕作も手伝うようになります。

京都の繁華街にあったほとんどの劇場を手掛けていたタケマツ画房は、作品や劇場の特色を活かした人目をひく看板を毎週提供します。看板は映画の『顔』であり、昭和30~40年代は劇場が看板に一番力を入れていた時代。切り出しや電気を入れたり動かしたり、立体物を配置したりと、知恵を働かして工夫した映画看板の頑張りは興行成績を左右しました。

耕作はカメラが欲しくてたまらず、1952、53年頃に映画看板を撮るということで購入できたボックス型の二眼レフカメラで、納品証明も兼ねて制作した看板の写真を撮っていたことが幸いし、映画が娯楽のトップだった時代の新京極を中心とした映画館の様子を偲ぶことができます。

平成13年京都ロキシー跡地にMOVIX京都がオープン。シネコンの登場で映画館の姿が変わり、ポスターが手描き看板に取って代わるようになって、60年近く続いたタケマツ画房はその幕を下ろしました。

小冊子6には、竹田耕作が記録した映画看板を掲げた新京極界隈にあった懐かしい映画館の写真をたくさん載せながら、その変遷、映画館文化を紹介しています。

小冊子発行の契機になったのは、昨年1月18日に聴講した立命館大学土曜講座№3301。竹田章作先生による「京都の映画館文化ー新京極の映画看板を中心に-」でした。終了直後に、「面白かったから、ぜひ小冊子に書いて欲しい」と依頼しました。

前向きな返事を頂戴したのですが、それからあれよあれよという間に、新型コロナウイルスが蔓延し、授業がオンライン対応に。その準備で多忙な日々を過されましたが、その合間に約束通り書き上げてくださいました。

目次は1.映画と映画館 

   2.映画館の歴史

    3.   京都の映画館

    4.   新京極界隈の映画看板

    5.   映画鑑賞の形態変化

執筆者の竹田章作先生(向かって左)と『京都の映画館文化』の素敵なフォントをデザインして下さった井上優さん。「(優さんのおじさんにあたる)井上秀雄が終戦直後に亡くならなければ、“タケイ画房”になっていたかも」と二人。井上さんはタケマツ画房で仕事をされていたことがあり、南座の「まねき書き」4代目として活躍中です。

井上:懐かしいなぁ、当時が思い出される。関わった看板がよーけ載っているから。あの当時の看板が“切り出し”とか一番派手だし、映画も後に残る作品が多いし。劇場の宣伝費も多かった。1960年手前ぐらいがピークかな。

竹田:貴重な情報を頂いた方に御礼を申し上げる。篠原俊次さん(当団体正会員)から貰った表をもとにして、地図を作るという作業から始めたので、すごく役に立った。

竹田:父(耕作)が二眼レフで撮った看板の写真があって、タケマツ画房の仕事を残しておかないといけないと思って、看板を作っていた人たちの視点で作った。貴重な1冊になった。

井上:映画看板は次の仕事に目が行っているので、看板を残す発想がなかった。看板を残している人はいないので、いとこの耕作さんが写真を撮ってよく残しておいてくれたと思う。

竹田:父はカメラが欲しかったので、カメラを買う理由に看板を撮った。それが当時を振り返る役に立った。

竹田:パレス劇場の写真が珍しい。寺町通りが正面で、表通りに面していない。松竹京映は一番名称が変わった劇場だった。松竹には電気部の伊藤さんという人がいて、父のアイデアをもとに一緒に電気仕掛けで奇抜なことを度々やっていた。

竹田:主に新京極や河原町にあった映画館について書いたが、次は西陣の映画館についても調べていこうと思っています。

小冊子はご連絡をいただければ遠方でもお送りいたしますので、遠慮なくお声がけ下さい。貴重な資料となっていますので、ぜひお手にとってご覧下さい。よろしくお願いいたします。

 

 

 

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