「京都ニュース」No.38 昭和34(1959)年

| 目次 | 総時間 |
| 京都に国立国際会議場を 第1回促進委員会、永田雅一、小川半次、河野一郎氏 |
01:45 |
| 市公葬でおくる故伊沢(為吉)博士 | 01:18 |
| 織物のまち西陣 | 04:06 |


「京都へ国立国際会館を」と結成された建設促進委員会の第1回委員会が、2月15日、京都ホテルで開かれました。

この日、東京から駆け付けた河野一郎氏はじめ、政界、財界、その他各界の委員が出席して会議が進められましたが、席上、河野氏は、政府に対し、京都に誘致するよう強調し、続いて永田雅一氏、小川半次氏ら各委員も、こもごも立って(?)所感を述べ、結局、委員会としては、第1候補地として、左京区松ヶ崎の宝池公園を推すことに決定。市側から、宝池の規模および建設想像図の説明があって、第1回委員会を終わりました。

引き続き、一行は車を連ねて宝池を視察しました。この宝池公園は、都心から北へおよそ2キロ、面積はおよそ140ヘクタールで、去る25年以来、都市計画公園として整備を進めています。会館の建設予定地は、この公園東寄りの山上を切り開く計画です。

一行は、四方の山々を一望に収める頂上に立って、東は比叡山から東山三十六峰、さらに市外から西山、北山への絶景に見とれ、どうやら候補地としての試験は合格といったところでした。


京都市名誉市民、故伊沢爲吉博士の市公葬は、去る1月25日、岡崎の勧業館で厳かに行われました。式はまず、京響サロンアンサンブルの演奏するショパンの「葬送行進曲」が静かに式場を流れる中を、市長の先導で、故博士の位牌などが、遺族の手で式場に安置されました。

去る31年11月、文化の日に、京都市名誉市民の表彰を受けられた、在りし日の伊沢博士です。博士の写真を前にして、高山市長も心からなる哀悼の言葉を述べ、最後に音大コーラスの合唱する挽歌の調べで市公葬の幕を閉じました。


西陣織は遠く6世紀の昔から、我が国の歴史とともに千数百年を経て現代にいたるまで、その伝統の中に生きている。織物のまち「西陣」は、京都御所の北西方、上京区から北区、右京区に渡る、昔ながらの家並みのまちである。

およそ3万人の人が西陣織を業とし、年間生産額は250億円に達している。ここで生産される西陣織は、お召し、帯地をはじめ、金襴、室内装飾、ネクタイなどから洋服地?まで、多くの種類がある。軒並みに漏れる機の音は、西陣のまちの音である。

西陣織は、細かい分業によって生産されている。大雑把に分けても17業種にも上り、これは、ほかの織物には見られない特色である。これらの業者のほとんどが、いわゆる中小企業である。織物の模様が図案家から届くと、細かい方眼紙に模様をかたどる。これが「指図(差図)業」。続いてこれを、「文彫り業者」が短冊形のボール紙に穴をあける。糸を晒し、染め、糊付けし、撚りをかける。これらの仕事も西陣で行われている。「染色業者」は、図案に従って糸を染める。「撚糸業者」は、糊付けを終わった糸に十分撚りをかけ、撚り上がった糸は糸繰機で糸巻にかけられる。ここで、いよいよ専門の「糸掛け工」によって織機にかけられる。西陣で使っている織機は、ジャガード式である。昔ながらの手機に代わってモーターも相当増えているが、帯はその7割までが手機である。手織りの服地も西陣で生産されている。手機から動力へ、西陣にも近代化の努力に拍車がかけられ、古い伝統の中にも新しい息吹が見られる。

こうして織り上がった美しい着物、帯は、織元から市場に送り出されてゆく。そしてまた、これらを纏って脚光を浴びる美しいファッションモデルの装いから、さらに流行が生まれてゆく。

こうして伝統に生きてきた西陣織は、生産の近代化を目指し、最近の着物ブームに乗って新しく伸びようとしているのである。



