おもちゃ映画ミュージアム
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2017.03.17infomation

雨宮幸明氏研究発表会「プロキノと山本宣治―京都における『政治と映画』」のご案内

山宣研究発表 - コピー

毎年3月5日になると、京都府宇治市にある山本宣治のお墓で営まれる墓前祭が新聞に掲載されることもあり、私どもも含む京都府南部の人にとっては、彼の名前は耳に馴染んだものの一つではないでしょうか。大衆に慕われ「山宣」の愛称で呼ばれた山本宣治は、多くの観光客で賑わう京都市の新京極でアクセサリー店を営む山本亀松、多年の一人息子として1889年(明治22)年5月28日に生まれました。両親は敬虔なクリスチャンでした。1907年、園芸の勉強のため18歳でカナダに渡り、バンクーバーで5年間働きながら学ぶ体験を通じて、自由と民主主義の気風を身につけて帰国しました。東京大学で動物学を学んだ後、同志社大、京都大で生物学、性科学者として活躍。学問の実践的課題として産児調節運動や労働者運動、小作争議などに関わる中で、1928(昭和3)年、38歳の時に第1回普通選挙に京都府第2区より立候補して当選。第56帝国議会で3.15事件などでの官憲の拷問を取り上げて政府を追及します。

翌1929年大阪での全国農民組合大会で「実に今や階級的立場を守るものはただ一人だ。山宣独り孤塁を守る!だが僕は淋しくない、背後には多くの大衆が支持しているから」と挨拶したところで中止させられました。この言葉は先のお墓に刻まれています。当時は軍国主義が台頭し、国会での発言も妨害されました。国の進路に危機感を抱き、理路整然と言論で警鐘を鳴らす山宣の身辺には右翼がうろつき回り、ついに3月5日テロリスト黒田保久二により暗殺されました。享年39歳の若さでした。その後日本は満州事変から泥沼の戦争へ突き進みます。

現政権を見ると、再びいつか来た道を辿ろうとしているのではないかと危惧します。誤った歴史は決して繰り返してはなりません。雨宮さんには、以前「映画の復元と保存に関するワークショップ」で発表していただいたこともあり、お声かけをして登壇していただくことになりました。たくさんの方に聴講していただきたいと願っております。

以下に館長が「雨宮幸明氏の研究発表に際して」を書きましたので、掲載します。

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「プロキノ」(プロレタリア映画同盟)が創設された背景には、昭和初頭の社会状況が大きく影響を与えている。

関東大震災後の経済不況の中、大正デモクラシーを引き継ぐ政治参加が盛り上がり、1928(昭和3)年の第一回普通選挙を勝ち取ることになる。平民と呼ばれた人たちにも選挙権が与えられ、唯一社会主義政党であった労働農民党(労農党)から選出された山本宣治代議士が、新しい時代の幕開けを目指して登壇した。

当時の映画界でも伊藤大輔を中心にした「傾向映画」(社会主義的傾向の映画)が撮影所で作られ、底辺の人間たちが、権力や体制に対する「抵抗と反逆」を描き、一般観客から大きな支持を得る。「斬人斬馬剣」、「一殺多生剣」などがその代表作である。これは、ロシア革命の影響を受けた無産者階級(プロレタリア)の政治参加が映画の世界でも大きな影響を与えたことを証明している。

アマチュアの映画集団である「プロキノ」は、正式には、日本プロレタリア芸術同盟映画班として、1928年に創設された。当然普通選挙などと連携した観客の支持を得たといえるが、映画を政治的な武器として活用する日本での「プロパガンダ」の始まりでもあった。一方、その主張を弾圧する動きもあり、日本共産党への弾圧(3.15事件)、治安維持法に反対した山本宣治(山宣)の暗殺につながってくる。

全日本無産者芸術団体協議会(ナップ)が組織され、その映画班「プロキノ」が山宣葬儀の模様を記録に残すべく秘密裏に撮影をした。1929(昭和4年)は世界恐慌の年であり、経済不況は極限に達する。当然庶民の生活も困窮し、昭和6年満州事変という形で、軍国時代、戦時統制の時代への突入を許してしまう。

当然、戦前の日本映画史の中では、語られることがなく、山宣の暗殺も、その記録も表に出ることはなかった。戦後、GHQの検閲などで、軍部や封建的な時代への批判を奨励した戦後民主主義映画が作られるようになる。黒澤明作品「わが青春に悔なし」など戦前の社会批判をテーマにした映画が歓迎されるが、一方で、政治色が強い映画はやはり検閲の対象となり、映画会社の中でこうした作品が製作できないことに変わりがなかった。

1960年、テレビの普及により、映画界は観客動員に陰りを見せるなか、自主製作や独立プロの動きも活発になり、ようやく戦前の政治弾圧の状況などを映画化できるような機運が高まる。そんな中で製作されたのが山本薩夫監督「武器なき斗い」(1960年、大東映画)であった。脚本を書いた依田義賢は、昭和初頭に銀行員であったが政治的なビラを撒いたことで官憲に逮捕され、銀行を解雇された。撮影所の門をたたいたのは村田実との知己の関係からである。依田は山宣の葬儀の模様を肌で知っており、山本薩夫に製作段階で呼ばれ、シナリオにまとめることになった。時代の息吹や若き日に肌で感じた政治への主張、何よりも人間としての言論を弾圧する時代やその背景となる社会への怒りがこの映画には込められている。映画史的にも依田義賢研究にも大変重要な映画ということになる。

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