おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2022.12.03infomation

資料展「『シベリア抑留』って、知っていますか?」Part2

昨日の京都新聞「まちかど」で紹介して頂いた12月の企画展と催しのご案内です。

ことの始まりは昨年の夏、「戦後76年、戦争パネル展『戦争の真実』」をした折に、「京都シベリア抑留死亡者遺族の会」の村田(旧姓亀井)洋子さんと知り合ったことです。その前年夏に「『満洲国』って、知っていますか?」展をしたのですが、シベリア抑留問題はその延長にあると考えて、「シベリア抑留をテーマに展示をしたいから協力して欲しい」とその場で依頼しました。その時点ではロシアがウクライナに軍事侵攻をするとは想像もしていなかったのですが、今年2月に始まった戦争は今も終わりが見えず、その進行状況はかつて日本軍が行った加害の歴史を彷彿させます。かけがえのない平和を守るために、過去の歴史に学ぶことは意味があると考えて、今年8月3日~10月2日まで「『シベリア抑留』って、知っていますか?~世紀の悲劇を銘記し、永遠の平和を祈念して~」を開催しました。

この時は(一財)全国強制抑留者協会様と洋子さんが亡きお父様亀井励さんの遺志を引き継いでおられる「京都シベリア抑留死亡者遺族の会」の全面的なご協力を得て開催しました。抑留経験者だった故吉田勇さんが描かれた絵画を多数展示したほか、抑留者たちが身に着けていた防寒着やゲートル、飯盒など日用品の実物、判りやすく説明した地図など大型パネルも掲示しました。期間中には抑留経験者のご遺族の方も多く見に来て下さり、絵を見ながら故人が体験したであろう悲惨な事柄を、自分の身に重ねながら追体験されていました。多くの感想もお書き下さいました。

9月10日には佛教大学名誉教授の原田敬一先生に「歴史から考えるシベリア抑留」の演題で講演をしていただき、㈱ケーシーワークス様のご協力で映画『私はシベリヤの捕虜だった』(1952年、東宝配給、阿部豊・志村敏夫監督)を上映し、亀井励さんらが作った絵本『シベリア抑留って?』を中田達幸さんの朗読付きでご覧いただきました。この時の振り返りは、こちらで書いています。

この時に大変多くの方から聴講の申し込みがあったのですが、会場が狭いことからお断りせざるを得ませんでした。丁度その頃、12月9日から映画「ラーゲリから愛を込めて」が上映されることを知り、この映画が公開されるタイミングでPart2をしたいと考えました。

今、盛んにテレビでこの映画の宣伝が流れています。人気俳優が出演するこの映画が契機になって、一人でも多くの方にシベリア抑留問題のことを知っていただければと期待しています。

今回の展示では、3名の方によるシベリア抑留体験を描いた作品を展示しています。

最初のお一人は京都市左京区にお住まいだった石川俱恵(ともしげ)さん。1919年新潟県長岡市で生まれた石川さんは1943年に招集され、10月に「満洲」の虎林へ。1945年7月ムーリンへ移動して作業中に8月7日にロシアとの戦闘に入った報を受けます。9日早朝ロシア軍の大軍が攻めてきて、3時間ぐらいで日本は弾丸がなくなり砲を捨てて牡丹江まで後退。ここで敗戦を知ります。「ダモイ トウキョウ」の片言に帰国できると喜んだのも束の間、詰め込まれた貨車は西へ西へ。ハバロフスクから8時間ほど行ったオブルチエで降ろされ、そこで自分たちが入る宿舎を建設します。その時自分たちが冬を越すのだということを初めて悟ります。今年11月初旬に訪問した石川さんのアトリエには、ご自分で手作りされた大きな油彩画が沢山保存されていました。決して明るくは無い画ばかりでしたが、描きたい、描かねばならないという強い思いに駆られて絵筆をとられた気迫が感じられ、圧倒される思いでした。

2006年8月に作られた『満州 敗戦 シベリア抑留 石川俱恵作品集』の冒頭に次の一文が載っています。「想い出したくない、忘れたいと60年近く沈黙してきましたが、人の心、行動の変わり方に心が動き、死者への手向を兼ねて死ぬ迄に作品集を出版することにしました」。夏の展示期間中にも抑留経験者のご遺族から「ほとんど語らなかった」という声をよく聞きました。一方「何度も話してくれたのに、私に関心がなかったので聞き流していて、どこの収容所にいたのか、どんな毎日だったのかもわからず、今更ながら後悔している」という声も聞かれました。石川さんは晩年になって「生きているうちに事実を伝えたい」と思うようになって、辛い抑留生活の体験を絵画に遺されたのです。たくさんある中から会場の狭さも考慮して小品5作品をお借りして展示しています。お繋ぎ下さった京庫連平和文庫の後藤由美子さんに御礼を申し上げます。

お二人目は四國五郎さん。1944年9月20歳で徴兵され下級兵士だった五郎さんは、シベリア抑留中に小さな字で記録し続けた小さなメモ帳(クレジットカード大の大きさ)を靴の中に隠しながら、1948年11月に命がけで持ち帰り、1949年から50年にかけて憑かれたようにそれをもとに約千枚の絵と千ページの文章を書いて自らの記憶を再現しました。それは五郎さんが25、26歳のことで、書き上げたこの画文集に『わが青春の記録』のタイトルを付けています。抑留は3年半に及びました。『捕虜体験記』に「私は毎日、小さな手帳を取り出しては、日記をつける。それだけがただ私の楽しみであり、人間らしい気持ちの最後の拠点である」と記し、便所で隠れて書いたり、入院中に裸になって消毒される際も、褌の中に隠して没収を防ぐなど工夫して守り抜きました。そうして再現された千ページに及ぶ体験記『わが青春の記録』(2017年、三人社)の中からご子息の光さんに無理なお願いをして、見開き11枚を厳選して戴き、それにキャプションも添えて頂きました。初日の1日に来館された光さんによれば、五郎さんは裕福な家の出ではなく、絵は全くの独学だったそうですが、小さい頃から抜群に絵が上手な子どもとして有名だったそうです。しかも描くのも文章を書くのもとても速かったとか。有名な作品に原爆をテーマにした絵本『おこりじぞう』や峠三吉『原爆詩集』表紙画と挿絵があります。

三人目は絵本『シベリア抑留って?』で画を担当された木川かえるさん。従軍体験があり、終戦を中国で迎えています。2010年9月5~8日には、この絵本の原画展がロシアのクラスノヤルスクで開催されました。亀井励さんのお父さんがこの地で亡くなっていて、クラスノヤルスク地方が主催した「日本文化フェスティバル」の一環として開催されました。ロシア兵が銃を突き付ける中、豪雪の中で木の切り出し作業をさせられる様子や、収容所で病死した人もいた悲惨な状況を描いていて、現地の大学生らが熱心に鑑賞していたそうです。この様子を報じた同年9月27日付け京都新聞夕刊記事によれば、ロシアでは若い世代に抑留の史実が引き継がれていないそうです。この点は近隣諸国に対する近現代史を余り学校で教えない日本の状況と似ていますね。気まずいことも含めて何があったか事実を正確に知ることが、平和構築には欠かせないと思います。今回の資料展では、亀井励さんが出前授業などで読み聞かせるために作ったA3 版バージョン一式を額装して展示しています。

他にも舞鶴引揚記念館の語り部活動をされている方から寄贈頂いた同館発行『シベリア抑留画展』(1995年、佐藤清氏監修)や栗原俊雄『シベリア抑留―未完の悲劇』(2009年、岩波書店)、小柳ちひろ『女たちのシベリア抑留』(2022年、文芸春秋)、おざわゆき『シベリア抑留記 凍りの掌』など関連本も並べていますので、お声がけいただければご覧になれます。

四國五郎さんが1947年10月11日ナホトカの収容所で、鉛筆でスケッチした女性抑留者の絵も光さんからお送りいただきました。「シベリア抑留」というと、男性の過酷な森林伐採に従事させられた様子が目に浮かびますが、実は女性の抑留者も含まれていました。9月に上映した『私はシベリヤの捕虜だった』にも、一瞬ですが女性捕虜たちが通り過ぎる場面が映っていました。五郎さんがスケッチした女性は満洲の佳木斯斯(ジャムス)にあった第一陸軍病院の看護婦や電話交換手、タイピストなどのうちの一人でしょう。絵がうまいと評判の五郎さんに、自分がその時生きていた証をスケッチに残したいと思われたのではないかと勝手に想像しています。12月18日の催しでは、女性のシベリア抑留経験者の証言映像を関係者のご協力でご覧いただきます。

講師は同志社大学准教授の富樫耕介先生です(1984年生まれ)。どなたか相応しい先生をと探していたところ、毎日熱心に「ヒロシマ通信」を送って下さる竹内さんの文章に富樫先生のお名前を見つけ、18日に司会を引き受けて下さる同志社大学社会学研究科教授でジャーナリズム・メディアアーカイブス研究センター所長でもある小黒 純先生に「繋いで欲しい」と直ぐに依頼しました。「ヒロシマ通信」には11月から1月まで隔週日曜日に開催される「ウクライナ戦争下で考える“シベリア抑留”」講座の案内が載っていて、その5回目に富樫先生が講演をされることになっていました。「連続になり無理かも」と恐る恐るのオファーだったのですが、小黒先生のお力添えで引き受けて下さることに💗

職歴が素晴らしくて、外務省国際情報統括官組織CIS担当専門分析員、日本学術振興会特別研究員DC2・PD、在ウズベキスタン日本国大使館専門調査員、東海大学教養学部講師を経て、現在は同志社大学政策学准教授、地域紛争研究センター副センタ―長も務めておられます。そして、2019年にロシア・東欧学会研究奨励賞を、さらに今年第4回村山常雄記念シベリア抑留研究奨励賞も受賞されています。願ってもない方にご講演頂けることになり、大変嬉しく思っています。

著書には『チェチェン 平和定着の挫折と紛争再発の複合的メカニズム』(2015年、明石書店)▼『コーカサスの紛争:ゆれ動く国家と民族』(2021年、東洋書店新社)。

演題は「『記憶』としてのシベリア抑留-女性の抑留体験者のオーラル・ヒストリーが持つ意味-」です。当初の発表要旨として受け取っていたのは、

……シベリア抑留とは、北方領土とならび日ロ間の歴史における「負の遺産」である。だが、シベリア抑留は、日本国内においても多くの場合、顧みられることのない「マイノリティの歴史」でもある。このような歴史を個々人の体験、つまり「記憶」から理解することにどういった意味があるのか、そこから我々は何を学ぶことができるのだろうか。実は、シベリア抑留については、研究よりも個々人の自伝や回想録などが先行し、多数出版されてきた。しかし、個々人の「記憶」は感情から切り離せない上に、ある強く記憶に残った部分についての証言であるため、これらの資料をただ単に繋ぎ合わせるだけでは、シベリア抑留は十分に理解できない。いわば、ある場面の「記憶」という無数の点を相互に繋ぎ合わせ、同時代的に展開される「全体の歴史」と繋ぎ合わせる作業を我々がしていく必要がある。シベリア抑留の「全体の歴史」に目を向けつつ、個人の「記憶」から理解する方法を、シベリア抑留体験者の祖父を持つ紛争研究者の視点から考えたい。……

ここに、私のたっての願いで女性抑留者の証言も加えてお話ししていただくことにしました。先述した四國五郎さんが描かれたスケッチ画を2017年暮れに東京の抑留画展で目にした当時の読売新聞井手記者が、その描かれた女性を追って熱心に調査して書かれた特別面「平成最後の夏 戦後73年」(2018年8月25日付け)もご覧いただきます。スケッチに書き込まれていた「須藤嬢」の帰国後の消息の一部には触れることができましたが、もう一人の中村さんについては今もわかっていません。映画「ラーゲリから愛を込めて」公開や今回の展覧会と講演会で何らかの手がかりがつかめたら良いのにと願います。

今日は府立図書館へ行って、1991年4月20日付け読売新聞記事をコピーしてきました。朝刊一面に「シベリア抑留死亡者名簿 17,380人分を入手 本社、独自に」の見出しが載り、特集面にびっしりと12頁にわたって載っています。先ごろ亡くなったゴルバチョフさんがソ連大統領として初来日した4月16日に持参されたもの(厚労省によると約37,400人)で、これ以前にも全国抑留者補償協議会がソ連から入手し公表した名簿も1990年12月6日から始まって3月31日まで7回にわたって掲載していて、この時点での人数は合わせて25,325人。名簿の公開は、どこかで生きているーという望みが消えた瞬間でもありました。それぞれの人に大切な家族があり、叶えたい夢があったでしょうに。。。

18日催しの最後はミュージアムで知り合った91歳の眞野和雄さんとお仲間のお二人にハーモニカで「ふるさと」を演奏していただき、無念にも彼の地で亡くなった人々、辛うじて帰国した後も辛い思いを抱えて過ごさねばならなかった人々への手向けになればと思います。

場所は同志社大学良心館1階のRY107教室です(地下鉄烏丸線今出川駅1番出口すぐ)。参加は無料ですが、資料準備の都合上、事前に当館までご予約をお願いいたします。チラシに掲載しているQRコードからもお申し込みができます。貴重な機会ですので、お一人でも多くの方に聴講して頂きたいです。どうぞ、宜しくお願いいたします。

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