2019.08.09column
骨董市での掘り出し物
今朝の東寺五重塔は、屋根修理の足場が取り除かれ、いつもの美しい姿になっていました。写真は、まだ足場が組まれていた8月4日朝、毎月恒例のガラクタ市を覗いたときの様子。
写真は、そのガラクタ市で購入したモノたち。右上は、「明治34(1901)年2月11日紀元節写之 小川良二 四拾八日」と書いてあり、京都の河原町通二條にあった小泉写真館で撮影されたもの。きっと良家のお坊ちゃまなのでしょうが、表に「KIOTO JAPAN」と書いてあったので買いました。当館が所蔵する国産幻燈機に「KYOTO」と書いてあるのですが、そっくりな幻燈機をお持ちの草原真知子早稲田大学名誉教授のものには「KIYOTO」と書いてあり、同じような時代の「京都」の表示に複数あるのが面白くて。
その下の置き物は重いです。文鎮にでもしようと思って買いました。竹の節のような木にしがみついているセミをカマキリがしっかり押さえつけている一瞬の描写。今の季節にピッタリだと思い、展示物の押さえに早速用いています。骨董店主から「たまには餌やってな」と助言も。
パテ・ベビー3巻は、大変几帳面な人が撮影した記録映像で、撮影日とタイトルが記されています。昭和5(1930)年1月5日撮影の「祭」「播磨松めぐり」「比叡山」「雪のレール」「自転車」「三船祭り」「明石」「或る日曜日」「嵐山」「水泳」が1本に繋いであります。撮影日の日付がない一群には「雪」「濱の宮」「高野山」、昭和4年8月16日、17日撮影の支那みやげにはⅠ、汽船=「神戸港」「揚子江、崇明島」「黄浦江」「上海港」、Ⅱ、上海観光=「路上所見」「南京路を横から見施公司」「競馬場」「外人墓地」「静安寺」、Ⅲ、鎮江=「金山寺」「甘露寺から見た長江」「天下第一泉」「鎮江駅頭」「明の孝陵」「国民政府」「寒山寺」「虎丘」「旅の姿」「車中散見」、Ⅴ、杭州=「玉泉」「蘇提」「岳飛の廟と墓」「湖心亭」「落陽」「さようなら」「つれづれに」「神戸入港」。Ⅳがなかったり、番号が良くわからないものもありますが、フィルムをまずチェックした段階です。
左上の当用日記は、掌サイズの昭和20年のもので、イタリア文学の研究者黒田正利さん(明治23年12月28日生まれ。奥様と三人のご子息の生年月日も書いてあります。亡くなったのは1973年)直筆のもの。こうした手帳は展覧会で見ることはあっても、まさか自分が手にできるとは思ってもみなかったのですが、とにかく十五年戦争が終わった昭和20年への関心から入手しました。表紙をめくると、上の方に小さな文字で「日本が存亡ノ岐レル(わかれる)土壇場」と書いてあります。もう一枚めくると発行元の印刷で「銃後奉公の誓」の項があり、「皇室のもと、一億一家、心と戦力と力とをひとつにして、銃後を守りかためます。朝夕に皇軍の労苦をおもひ、戦線に送る銃後の真心として、慰問文と慰問袋とを絶やさぬやうに致します。遺族の家を護り合って、英霊の忠誠にお答へ申します。傷痍軍人にも心からの敬意を表しその再起奉公に力を添へませう。銃後も国防の第一戦元気にむつまじく将来の大きな希望に生き現在の苦難を戦ひぬきませう」とあります。
これを書き写しながら「あぁ、今日は74年前に長崎に原子力爆弾が投下された日だ」と思いました。沢山の方がお亡くなりになっただけでなく、その被爆後遺症が世代を超えて今に引き継がれている恐ろしさを思います。11日は「映像を通して平和を考える」をしますが、研究発表して下さる滋賀県長浜市で学芸員をされている西原雄大さんは、長崎原爆病院で生を受けました。周囲に今も病気に苦しんでおられる方がたくさんおられ、そうした経験から平和学習に取り組んでおられます。歴史に「たら、れば」は禁句だと言いますが、もう少し早く敗戦を受け入れてくれていたらと恨めしく思います。
日記帳の4ページ目には、同じく発行元の印刷で「われらは、今 これだけを敵に廻してゐる」とあり、数えると37か国名が掲載されています。何という無謀な戦争を押し進めていたものか。物資が不足し、日記も入手できなかったようで、1月1日~4日までは昭和21年のことが綴られています。昭和20年の記述は1月19日からですが、8月24日を最後に、あとは書き込みがありません。終りの方に、京都日伊協会の便箋に細かい文字でびっしり書かれた戦時中の手紙も挟んでありますが、これは下書きだったのかも。
よく「京都は戦争に遭っていないから」と言われますが、そんなことはなく、結構空襲警報の記述もあります。3月2日は赤字で家賃など家計費を掲載した後に「3月2日二十四時頃 利邦應召令状ノ電報」の記述。大正3年生まれのご長男利邦さんに対し、真夜中に召集令状の電報が届いたのです。ドラマで召集令状が日中に届けられる場面を良く見ますが、この電報が届けられるのは日中ばかりではなかったのですね。家族誰ひとり真夜中に届いた電報のことを知らずに寝ていて、翌日の朝ごはんの時に「8日に入隊する」と突然利邦さん本人が家族に告げたのだそうです。真夜中に受け取ってから、このことを家族に告げるまで、どのような心情だったのでしょう。黒田先生は先の記述に続けて「覚悟の上とは言へ、感慨無量」と綴っておられます。
8月6日広島、9日の長崎原子力爆弾投下については、当時は情報がコントロールされていて、大きく報道されることもなかったようで記述がありませんが、8月13日になって「広島空爆ハ爆薬に加フル二光線ト●●トノ由残酷サ思ヒヤラレ、来ルベキ京都惨状ヲ憂ウ」と書いておられます。
この日記を書かれた黒田先生は、1918年京都帝国大学大学院に入ってダンテを研究し、翌年12月に結成された「伊太利亜会」のメンバーの一人となりました。1921年ダンテ没後600年を記念して開催された同会主催イベントで講演し、1931(昭和6)年には京都大学文学部講師として就任。日本とイタリアの政治的接近の時代背景もあって1940(昭和15)年12月、日本で最初のイタリア語イタリア文学講座が京都大学に開講し、人類学者のイタリア人フォスコ・マライ―ニと共にその講師を務めました。日記にも、論文に関する記述が何か所にもみられます。
この方も几帳面な性格のようで、支払ったモノの値段も書いておられますので、そのことも含め、当時を知る手がかりとなる貴重な資料だと思われます。近く京都大学の先生とお会いするので、その時にお見せしようと思っています。どなたかの研究に役立ててもらえれば嬉しいです。
【後日追記】
黒澤明監督『羅生門』は1951年イタリアのヴェネチア国際映画祭でグランプリを獲得し、敗戦で打ちひしがれていた日本に一筋の希望をもたらしました。まだ、国際映画祭がどのようなものかわかっていなかった日本映画界において、大映が作ったこの作品を同映画祭に出品するのに尽力した一人の女性がいました。ジュリアナ・ストラミジョーリ。渡邉一弘氏の論考「日本イタリア文化交流のかけ橋として」も参照しながら書きますと、1914年8月8日ローマに生まれた彼女は、ローマ王立大学で東洋哲学と東洋美術を学び、1936年大学を卒業後、11月に日伊文化協定による日伊交換学生制度の第1回交換留学生として来日。1938(昭和13)年8月に帰国するまで、当時は京大講師だった黒田先生のところでイタリア代表の若者として原稿を書いたり、講演したりと大活躍します。
日本を愛した彼女は1939(昭和14)年12月26日に再来日、翌年3月頃から、イタリア大使館情報部の職員として勤務、その後イタリア文化会館職員も兼任します。この時イタリア映画の輸入公開や「ファシスタ伊太利亜大展覧会」巡回展にも携わりました。1940年5月1~5日札幌三越で開催されたこの巡回展で、彼女は第2回交換学生として来日し、北海道大学にいたフォスコ・マライ―ニと出合っています。この時の出合いが黒田先生にフォスコ・マライ―ニを繋いだのかもしれません。
イタリアが先に敗戦し、日独と離れるとジュリアナ・ストラミジョーリもフォスコ・マライ―ニも一転して困難な日々を迎えます。戦後彼女は語学教師として再出発し、1949(昭和24)年2月からイタリフィルム社を設立し、イタリアの質の高い映画を日本に紹介しました。ネオリアリズモの作品群は日本の映画人に大きな影響を与え、その一人に黒澤明監督もいました。
彼女は1950年8月26日に大映が公開した黒澤監督『羅生門』を観て「非情な驚異を感じ」、大映にヴェネチア国際映画祭出品を持ちかけ、その意義を説得します。国内での評判が決して良くなかったこともあり、大映側は非協力的でしたが、ようやくポジプリント1本を提供してもらって、手続き、翻訳費用全てイタリフィルム社負担で進められました。そうして迎えたヴェネチア国際映画祭で見事グランプリに輝いた夢のような話ですが、もしこの時栄冠に輝くことがなければ、「世界のクロサワ」は、ひょっとしたら誕生していなかったかもしれません。次回作の松竹映画『白痴』が当初4時間32分と長く、経営陣からの指示で3時間2分に短縮して公開したもののわずか3日で打ち切りに。最終的に公開されたのは2時間46分で、「どうしてもカットしたいのならフィルムを縦に切ればいい」とまで言い切ったエピソードが伝えられています。「このグランプリ受賞がなければ、その後の黒澤明監督はどうだったっかなぁ」と想像すれば、ジュリアナ・ストラミジョーリ、この日記帳を書いた黒田正利先生までさかのぼり、たまたま骨董市で手にした1冊の日記帳から様々な気付きを得て、私的には大変興味深く思われるのです。