おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2019.04.28column

ライオンのおもちゃ映写機を作っておられた「小池商店」ご家族との出会い

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4月26日東京から小池八郎さんが「ライオンの映写機を見に来ました」とご来館。一言、二言会話して直ぐに2017年12月21日にお姉様の光子様からお聞きした話を思い出しました。その時のことはこちらで書いています。「お姉様から『弟が一番良く知っている』とお聞きしましたので、この瞬間が来ることをずっと待っていました!」と興奮気味に私。八郎さんは、東京でおもちゃ映写機を作っていた「小池商店」のご家族です。実はお姉様が来館される以前から当館のことをネットで調べてご存知だったのだそうです。なるほど「ライオン家庭映写機」と検索すれば、当館がすぐ出てきます。

八郎さんが手にしておられるのは、2017年12月の記事にも掲載したライオン映写機が入っていた紙箱。ご覧になっている紙箱の面に下掲記載があり、これはこれで貴重な当時を知る資料になっています。

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いろんなおもちゃ映画フィルムが販売されていたことが値段と共にわかります。まだ右から左に文字を読む時代のライオン製品。

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八郎さんにお聞きしましたら、大好きなアニメーション『茶目子の一日』(1931年)に出てくる「ライオン歯磨きで歯を磨こう♪」のライオン㈱とは全く関係ないのだそうです。ライオンの銘柄を使えないので、現在は「RION」(リオン。フランス語でライオンの意味)という会社を経営されておられます。小池商店の玩具工場は日暮里の近くの三河島にあったこともあり、東京藝大に近いことから、この箱のライオンの絵は東京藝大生に描いてもらったそうです。

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これは『幼年倶楽部』(1930<昭和5>年2月1日号)の1頁。右頁の広告から勉強したくてもままならない環境下にあった向学心旺盛な子どもたちがたくさんいたことがうかがえますね。この号が発売された直後の2月6日傾向映画の代表作『何が彼女をそうさせたか』が封切られ、大人気に。浅草常盤館では5週連続のロングラン。京都で初の反戦アニメーション『煙突屋ペロー』が発表されたのもこの年6月。12月に発行された『少年倶楽部』1月号には「のらくろ二等兵」が初登場。経済恐慌の只中にあり、騒動やデモが各地で起こり、それを厳しく取り締まる一方で、ガス抜きとして、「エロ・グロ・ナンセンス」の言葉が巷に溢れた時代でもありました。

「ライオン製活動写真機」の7号は26円。ネットで検索すると1930年の民間企業大卒の平均賃金は69円45銭だそうですから、エリートサラリーマンの月給の37%というから高額玩具ですね。ここに写っている兄弟が、光子さんと八郎さんのお父さん、栄一さんの弟たちで、大きい坊やが喜八郎さん、小さい坊やが善四郎さん。八郎さんにお聞きしたところ、お二人ともご健在だそうですので、当館の玩具映写機がいくつも載っているカタログをお渡しして、お二人にご覧いただけるよう託けました。懐かしく思い出していただけると嬉しいです。もう一人のお姉さんのお子さんである「姪っ子と甥っ子」が表紙のものもあったそうです。当然といえば当然なのですが、八郎さん、この坊やたちとそっくりですね‼

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八郎さんによれば、1877(明治10)年8月、日本で初めての内国勧業博覧会が東京の上野の山であり、おじい様とお父様も見に行かれました。おじい様は浅草の映画館で映写技師をしておられたこともあり、博覧会で西洋モノの映写機を見て、最初は幻燈機を作り、それから「これからは、これだ!!」と思っておもちゃ映写機を作られました。手にしておられる幻灯機もライオン製で、八郎さんには、この機械の記憶があるそうです。国会図書館のサイトを読むと、第1回同博覧会は、約10万平方メートルの会場に、美術本館、農業館、機械館、園芸館、動物館が建てられました。欧米からの技術と在来技術の出会いの場となる産業奨励会としての面を全面に押し出し、日本の産業促進に大きな影響を与えたということですので、小池商店は、その一つの事例とも言えますね。

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参考までに、これは5月の「覗いて、写して、楽しむモノたち展」で展示するピープショーの一つ「美術組立目鏡 第5回内国勧業博覧会」。残念ながら中の絵が失われていますが覗き穴から博覧会の様子を垣間見ることができたのでしょう。お土産用に販売されていたのかも知れません。第5回内国勧業博覧会は1903(明治36)年大阪で、最後にして最大規模で開催されました。

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35ミリのおもちゃ映写機をご覧になっている様子。残念ながらライオン製かどうかわかりませんでしたが、「携帯用なので、おもちゃ映画の前に作っていたのかも」と八郎さん。他に、おもちゃの8ミリ映写機も作って海外へ輸出していたそうです。

とりわけ興味深く思ったのは「東京藝大生に『のらくろ』の絵をアルバイトで描かせて、フィルムにした。会社が上野なので、藝大に近いからね。評判になり三越が専属で販売させてくれと言ってきたが、明治35年生まれの親父が断った。工場ではブリキをカッチャン、カッチャンとプレスして、後は手作りをした。爺さんが新潟の新発田(しばた)出身ということもあり、職人は郷里から連れて来た。その後は、プラスチック玩具ができるようになるとブリキの映写機は廃れてしまった。」という話。横浜シネマ商会が村田安司に依頼して作った田河水泡の「のらくろ」は、同商会が一手に製作配給する契約になっていたようですが、当時は著作権もうるさく言わず、まだ無名の藝大生がアルバイトで描いた「のらくろ」の類があって、それが当館所蔵映像にも含まれている可能性が出て来ました。そういえば「『のらくら歓迎会』なんてものもあります(笑)。

「おもちゃ映写機は、工場長と相談しながら、他の国のを見て作っていた。設計図は書いていたのかなぁ?浅草寺の中店で幻燈機などのおもちゃを売っていた。自転車で上野から2キロの道のりを走って配達した」と八郎さんは昔のことを思い出しながら話して下さり、お見送りした時には「こうして大切に残しておいてくださってありがとう。ここにいると昔のことを思い出して泣けてきます。今度は兄を誘って来ます」と仰ってくださいました。「おもちゃ映画ミュージアム」を屋号に掲げる身としては、とても貴重な出会いとなり、忘れられない一日となりました。

 

 

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