おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2024.02.13infomation

3月6日から小展示「シナリオライター依田義賢生誕115年記念展」

京都生まれの依田義賢(よだよしかた)先生は、1909(明治42)年4月14日に生まれ、1991(平成3)年11月14日に、82歳で亡くなられました。昨秋三十三回忌を営まれ、この4月14日に生誕115年を迎えられます。5歳で父親と死別した連れ合いにとって、依田先生は父親代わりのような存在でした。仲人をして下さったのも先生ご夫妻でした。長男出産を控えて里帰りした富山から差し上げた手紙をとっても喜んで下さって、出産後借家住まいの長岡京市の家まで赤ん坊の顔を見に来てくださいました。上掲似顔絵のように奥様手編みの帽子を被って。私が知っている依田先生のお顔は、チラシ掲載の写真のまんま。いつもユーモアを交えながらひょうひょうとお話になっていました。公私にわたってお世話になった依田先生の功績を後世に伝える場になればと思い、この町家で3月6日~4月28日小展示「シナリオライター依田義賢生誕115年記念展」をします。

先日下鴨のお家にお邪魔して、ご子息の義右先生ご夫妻から幾冊かのシナリオやプライベート写真、絵付けされたお茶碗などをお借りしてきました。奥様を思い浮かべて描かれた湯呑み茶碗もあって、晩年まで仲睦まじかったのだなぁと思います。私は奥様からお聞きした国際映画祭に行かれた折の「洗濯物が乾かなくて」の対策を講じた話が面白くて、大らかな奥様の笑いながらお話になった表情まで何十年経っても覚えています。

以前お客様から、依田先生が銀行員時代に仲間から乞われて役者としてパテ・ベビーフィルムでの撮影に臨んだ思い出を雑誌『パテーシネ』(1935年10月号、全日本パテ―シネ協会)に書いておられるのを見せて貰いました。「ひょろひょろとした軆格がなんともいへぬおかしさを感ぜしめるのか、とにかく私はよく俳優になってはどうかと冗談ともなくよく云われた。撮影所に入ってからも何度となく」。“ひょうひょう”と“ひょろひょろ”はニュアンスが違うのかも知れませんが、先生のそうした味は若いうちから着目されていたのですね。今回の展示に間に合うように義右先生ご夫妻が依田先生の資料が入った箱を整理され、その中からパテのフィルムが見つかることを期待していたのですが…、空振りに終わったようで、何とも残念です。

依田先生の最初の師である村田実監督とは、このパテ・ベビーでの出演作を村田監督が審査されたご縁から始まります。また京都二商時代の恩師が日活の横田永之介家と繋がりがあって、思想活動集会に参加した関係で、勤めていた銀行を依願退職し、1930(昭和5)年に日活太秦撮影所脚本部に入社されます。村田監督作の坂根田鶴子さんの下でスクリプターを経験し、翌年9月16日に公開された村田実監督サイレント映画『海のない港』(1931年)で脚本家デビューします。22歳でした。

今回資料協力して下さった三品幸博さんは「『海のない港』はシナリオ執筆第1作で、雑誌『日活』では村田實だけ名前が出ていましたが、神田日活館の週報では共同脚色者として依田さんの名前が表記されていました」とそれらの画像をお送りくださいました。『白い姉』(1931年)も村田実監督と共同脚色で、公開当時の映画館週報と雑誌『日活』に写真付きで映画紹介されているものもお送りくださいました。厳しいお母様だったと聞いておりますが、こうした映画館週報で依田先生のお名前が書いてあるのをご覧になっていたのかしら?神田日活館週報だけってことはないでしょうから、関西バージョンが見つかれば良いですね。そういうのをコレクションされている方がおられたら、ぜひご連絡ください。

これまで公表されている依田義賢シナリオ・リストでは抜けている『僕らの弟』(春原政久監督デビュー作、1933年)は、1988年に向日市にある西山高等学校の旧校舎で16㎜フィルムが発見されました。この作品はサイレント時代唯一残った映画で、連れ合いが復元し、京都府に所蔵されることになりました。ただ、シナリオは残っていません。上掲チラシは当館開館を記念して2015年6月14日に「第1回無声映画の夕べ」と題して活弁と生演奏付きで上映した時のもの。

『愛怨峡』(あいえんきょう、1937年公開)はトルストイの『復活』を川口松太郎が翻案し、それを依田先生と溝口健二監督が脚色した作品で、山路ふみ子さんが村上ふみ役を演じています。このDVDは、中国で販売されたものがありますので、展示期間内に皆さんと鑑賞したいですね。期間中毎週金曜日(3月22日と4月26日除く)17時から、こうした依田先生の作品をテーマにした語らいの場を設けようと思います。入館料のみでどなたでもふらりとお越しくださいませ。持ち込み歓迎です‼

『残菊物語』(1939年)は2月16、21日に京都文化博物館で開催中の「松竹下加茂撮影所100年記念特集上映」で上映されます。原作が村松梢風、溝口健二監督、脚色は依田先生。監督助手に坂根田鶴子、美術考証に木村荘八、花柳章太郎が五代目菊五郎の養子尾上菊之助を演じ、「ワイドレンズ、ロングショット、クレーンによる三木滋人の移動撮影、広大な背景を支える水谷浩の美術、ワンシーンに情調を絞り込む依田義賢の脚本は、ワンシーン・ワンカット=“一つの情調に浸りきる映画”の新しい映像美を完成させた」と配布されている解説文にあります。依田先生からお聞きした話では、花柳章太郎が高齢で、若い時代を映すのに、カメラが寄れない事情もあったようですが、溝口健二の「1シーン1(カット)ショット」を完成させた作品でした。キネマ旬報賞第2位。この作品の未定稿を展示します。

他にも映画雑誌に載っていた『浪花女』(1940年9月公開)の広告や撮影中の写真や紹介記事。この作品は依田先生の原案、脚本で、溝口健二監督が田中絹代と組んだ最初の作品です。溝口監督の最高傑作と評されることも多いそうですが、ネガもプリントも残っていないとされています。この作品のシナリオを展示します。さらに『芸道一代男』(1941年公開)の映画広告やチラシ広告なども展示。川口松太郎の小説を依田先生が脚色し、溝口健二監督による『残菊物語』『浪花女』に続く初代中村雁治郎の伝記映画です。

もうお一人資料をお貸し下さる日本映画史家本地陽彦先生は、「依田先生のシナリオを語るには、詩作抜きには理解が及ばないはずだ」と仰います。当時、「シネポエム」というのが流行りで、映画的な描写を詩にしたり、シナリオの基礎として、参考にしたりして、映画の講座でも紹介しておられました。「依田というと溝口健二とのつながりが大きく、詩人としての依田を研究している人もあまりおられないように思われた」本地先生は、35年余り前から依田先生の仕事を調べ始めたのだそうです。とりわけ京都詩壇の臼井喜之助さんに注目をされたそうですが、仕事が多忙になって途絶えたままだそうです。

「黒澤も小津も、その評価はともかく、お二人ともシナリオを書ける監督でした。唯一人、溝口は、全面的に、シナリオはシナリオ作家の仕事である、と、そして依田氏はそれに応えるシナリオを書ける作家であると認めておりました。黒澤、小津の両監督と、その作品の完成度の決定的な差異はここにある、と私は考えます。 依田氏のシナリオの、他とは異なる優れた独創性、芸術性は、そこにある、というのが私の考えです。 シナリオは、それ自身が既に優れた芸術である。 それを、日本に於いて万人に証明した人が依田義賢氏です。 ちょっと飛躍しましたが、私が依田氏のお仕事に魅力を感じた最大の理由です」と、本地先生。

溝口健二監督も最初は自作シナリオを書いていたのですが、依田先生と組むようになってから、依田先生に一切任せます。新藤兼人監督の『愛妻物語』(1951年)には、何度も何度も書き直しを命じられる男が登場しますが、新藤監督は自分の下積み時代を描いたと仰っていますが、実際は依田先生がモデルです。結核を患い、日活を退社、闘病生活時代に、溝口監督からシナリオを頼まれ、死に物狂いで、創作活動を続けます。溝口監督から完璧な脚本を要求され、三十数回書き直しを要求されたこともありました。それが溝口監督にとって初めてとなったトーキー作品『浪華悲歌』(1936年)でした。気が休まる暇もなく、溝口監督と戦いました。詩作が気を紛らわせるのに丁度良かったのかもしれないと私などは思います。依田先生もそのように語っておられたそうです。クランクインした後も、リライト要求に備えて待機しておられました。今回の展示では『浪華悲歌』と『祇園の姉妹』(1936年)所収シナリオ集を展示します。

溝口監督が逝去され、「依田も終わった」と呟く声があったようですが、溝口監督を見送った後も、山本薩夫監督の『武器なき斗い』(1960年、大東映画)や『荷車の歌』(1959年、全国農村映画協会)、家城巳代治監督『異母兄弟』(1957年、独立映画)などで優れたシナリオを担当し、溝口作品の思想的な背景やドラマツルギーの構成力には依田先生の存在が大きかったことが再評価されました。娯楽作品としても勝新太郎主演『悪名』シリーズは大ヒットしました。特に今東光の原作では、第1・2作で終わるのですが、勝と田宮二郎の軽妙なコンビで続けてほしいという観客からの要望が多く寄せられたことから、依田先生は、“モートルの貞(田宮二郎)”が殺された後、貞にそっくりな弟がいるという設定を生み出し、今東光から「依田さんなら好きにしたらええ」と一任され、戦中の堅物な朝吉と片言英語と河内弁を話すいい加減な戦後世代の田宮のコンビが誕生しました。『新悪名』以降ほとんどが依田先生のオリジナルシナリオで、あの痛快な勝新・田宮のコンビが生まれたのです。

熊井啓監督では『お吟さま』(1978年、今東光原作)や最晩年の作となった『千利休 本覚坊遺文』(1989年、井上靖原作)と名作の数々を世に送り出し続けました。

EXPO’70は映像時代到来を印象付け、大阪芸術大学に映像計画学科(後に映像学科)が開設されました。その初代学科長に依田先生が就かれたことで、大阪芸大の映像は万博映像ではなく、劇映画を中心とした学科となります。その年惜しくも倒産した大映の優れた映画技術者たち、例えば名キャメラマンの宮川一夫先生、映画美術の内藤昭先生、評論家の滝沢一先生らの指導を受けた学生たちが育ち、彼らは今日の日本映画界を牽引しています。京都市立芸大時代に知り合った連れ合いは1972年から依田先生の補佐役に尽力し、その間いろんな話を間近で聞くことが出来た果報者です。今回の展覧会は、その小さな恩返しになれば良いなぁと思って取り組みます。

2月に依田先生宅を訪問してから具体的作業に取り掛かったのですが、当初は会場が埋まるか心配したのですが、その後、チラシにお名前を載せさせていただいた公益財団法人川喜多記念映画文化財団様、本地陽彦先生、三品幸博様、岩本浩明様、それにご本人が信じておられた『スターウォーズ』のヨーダのモデル説、そのヨーダを巧みな技で造形された松尾貴史さんの『折顔』、それをお借りするのに尽力して下さった活動写真弁士の坂本頼光さん、とたくさんの方々のご協力を得ることが出来ました。ポスター、シナリオ、パンフレット、雑誌『シナリオ』他、『雨月物語』(1953年)、『山椒大夫』(1954年)、『近松物語』(1954年)、『新平家物語』(1955年)など名作のレーザーディスクとビデオテープ、依田先生著作物、伊藤大輔監督からのハガキ、プライベート写真、手描き陶器類など沢山の資料が集まりました。開始まで余り時間がない中での日々ですが、頑張って展示しますので、日本映画黄金時代の一翼を担って大活躍された依田義賢先生の世界をぜひご覧ください‼

再度のご案内になりますが、3月8、15、29日、4月5、12、19日17時から、依田先生の人と作品をテーマにした語らいの場を設けます。皆で思い出話などをしながら、春の夜を楽しみましょう‼

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