おもちゃ映画ミュージアム
おもちゃ映画ミュージアム
Toy Film Museum

2024.04.09infomation

第9回活弁と演奏(収録版)無声映画上映会『僕らの弟』

毎月第4金曜日に開催している無声映画上映会ですが、今回は『僕らの弟』(1933年、日活京都太秦撮影所)を上映します。

今、当館では「シナリオライター依田義賢生誕115年記念展」を開催中で、その関連企画として選びました。依田先生が手掛けられた作品のうちで唯一残っている無声映画で、以前井上陽一さん(故人)に活弁をして頂いた折りの収録版でお楽しみいただきます。

この作品については、太田米男が大阪芸術大学の研究費を得て復元しており、

非常時の少年たち(1)-映画『僕らの弟』をめぐって-

非常時の少年たち(2)-映画『僕らの弟』をめぐって-

で、映画の背景について調査したことを書いています。「幻のフィルム発見」と報道されたこのフィルムとの関りから、1992年にロシアで発見された傾向映画の代表作『何が彼女をそうさせたか』(1930年、鈴木重吉監督)の復元に携わるようになり、ライフワークになった映像アーカイブに取り組むようになったので、『僕らの弟』は今日の活動の原点になった作品です。

1987年、京都にある西山高等学校が創立記念の新館建設のため旧館を整理していて、倉庫から16㎜のフィルム4巻を発見。それがこの作品でした。西山高等学校は、元はお坊さんを養成する学校で、伝道活動や布教のために映画を活用していたそうです。点検すると貴重な映画で、しかも完全な形で見つかったことから、同年9月16日夕方のNHK京都放送局の「ニュース630」で「幻のフィルム発見」と題して報道されました。

その『僕らの弟』のクレジット・タイトルに依田先生の名前があったことから、番組のディレクターが先生に取材しましたが、製作から54年も経っていて依田先生の記憶にはなく、それ以上にタイトルにあった副題の「非常時涙の少年」に不快感を露わにされたのだそうです。若い頃の依田先生は、左翼的なビラを配っていて憲兵に逮捕され、拷問を受けたこともありましたから、軍国時代に迎合したような副題が受け入れがたかったのでしょう。終いには「これは私の作品ではありません」とまで言われたそうです。

フィルム発見当時、映画評論家荻昌弘さんは「この春原(すのはら)政久監督の処女作は、封切当時一ヵ月も続映され、大変好評だった」と書いておられるそうですが、それまでは日本映画史には登場することもない「名もない映画」でした。

太田が調査を重ねた結果、原作になったのは、1933(昭和8)年7月11日付け、大阪毎日新聞夕刊に掲載された記事とわかり、その見出しに「非常時、涙の少年」の文字があります。さらに分かったことは、日活がこの記事をもとに『僕らの弟』を作るのと同時に、大阪毎日新聞社自身がドキュメンタリー映画『非常時涙の少年』(当時の人々の記憶には『母なき家の母』として刻まれているようです)を作っていました。

『非常時涙の少年』は、この記事を書いた記者自身が構成を行い、映画検閲時報によれば1933年9月11日に申請しています。この映画には、四貫島に住む本人たちが出演していました。このフィルムも『僕らの弟』が見つかって10年ほど経ったころに、映画のモデルとなった紀先生宅の倉庫から16㎜フィルム4巻を発見することが出来ました。幸いにも検閲台本が一緒に保管されていたことで、いろんな事情が分かってきました。

この感心な少年に世間の同情が集まり、周辺の人々によって「人の情けに報ゆる会」が催されたりしています。同年7月12日の大阪毎日新聞7月21日付けに「非常時・涙の少年…映画になる。『僕らの弟』本紙記事に日活も感動」の見出し記事が載っています。

「…24日頃同(四貫島)小学校のロケを皮切りにして、依田義賢氏脚色の『僕らの弟』は、春原監督指揮で太秦撮影所のスター南部章三氏の訓導(教諭)、中村英雄君(13)の高瀬少年など、六巻約五千尺となって、8月10日で完成、新秋9月封切りされることになっている…」

その4日後の7月25日付け大阪毎日新聞には「母なき家の〈母〉、涙の少年のロケーション」の見出しで、

「…本社活映部では、『母なき家の〈母〉』と題し、これを映画化すべく、何処までも写実本位で、24日同校で高瀬君兄弟を主役として、同校職員、全生徒が、これに参加し、ロケーションを行った、実写を劇構成として映画化するのは、これが最初の試みであること…」

とあります。1つの新聞記事が大きな感動を呼び、依田先生脚本の劇映画と本人たちが出演したドキュメンター映画の2つの作品が作られました。さらにこの感動はレコード発売にまで及んだと論考を読んで知ったので、今ネットで検索しましたら、西宮にあった太平レコードから「涙の非常時 母なき家の母 房一少年(三)と(四)」が「大井新太郎、伏見政光 其他大勢」の出演で、1933年に「大阪毎日新聞社涙の報道特盤」として発売されていました。このタイトルでさらに検索しましたら、国際日本文化研究センター(日文研)のサイトでSPレコードのデジタルアーカイブされた京山若丸さんの浪曲「(涙の非常時)母なき家の母 房一少年」を無料で聴くことが出来ました。できることなら特盤も聴いてみたいものです。

太田に確認しますと、未だこの2作品を同日に上映することはなかったそうですが、ぜひ実現したいものです。比較してみた本人は「『僕らの弟』の方が劇的で感動的な構成になっている。やはり、実際の人々の出演する映画では、様々な支障が出て来たのではなかったか」と書いています。劇映画『僕らの弟』に「非常時涙の少年」の副題が付けられて、この映画は各方面から申請されて、プリントを重ねていきました。そのことに対して太田は「ドラマという抽象性によって、普遍的な広がりを見せていったからであろう」と書いています。

これまで、この作品のシナリオは無いものと思っていましたが、神戸映画資料館の安井館長から「持っている」と連絡があり、展示に間に合うようにお貸しくださいました。安井さんのところには本当に何でもあって、凄いです‼

入手の経緯については、残念ながらお話頂けませんでしたが、元の持ち主の方の筆跡でしょうか?綴じた表紙に朱筆でメモ書きがあります。当初は何て書いてあるのだろう?と思っていましたが、2行目は「孤児院」だろうと思います。Tに〇は台詞のところに付してありますので、1行目は「おったんでや」かしら?このシナリオを読むと、3人の子どもたちは母を病気で亡くし、四国へ出稼ぎに行った父親からお金の仕送りもないことから、方面委員(今の民生委員)の人が家主のおばさんに「孤児院へでもやったらどうなんでせう」というセリフがシーン81にあります。でも実際の映画にはこのセリフの場面はありません。安井館長からお借りしたシナリオはまだ最初の頃のものなのでしょう。

今回ご覧頂くのは、関西に於ける活動写真弁士の重鎮井上陽一さんに登壇して頂いた折の収録版です。1999年8月14日復刻版を京都文化博物館映像ホールでお披露目した折のものかもしれませんし、その後にも井上さん活弁で上映したことがあるので、そのいずれかの収録版です。在りし日の大ベテラン井上陽一さんのお声を思い出しながらお聞きいただければ幸いに存じます。

なお、4月26日の上映の定員は12名で予約優先です。終了時間はいつもより少し遅い21時。受付は19時から、カンデオホテルズ京都烏丸六角レセプション棟1階で、現金にてお支払いください。一般1500円、学生・同ホテル宿泊所は1000円です。日本が軍国主義の道を進もうとする時代の状況を映す貴重な映画です。57分。皆様のお越しを心よりお待ちしております。どうぞ、宜しくお願いいたします。

【4月11日追記】

上記文中で、「できることなら特盤も聴いてみたいものです」と書きましたが、その後、音楽評論家の毛利眞人さんに、この特盤をお持ちではないかと尋ねましたら、ドイツのボン大学に活動写真弁士片岡一郎さんのレコードコレクションが所蔵されていて、その中に件の特盤2枚が含まれていることがわかりました。早速「片岡一郎コレクション研究会」を主宰されている湯川史郎さんにお繋ぎ頂き、直接大学に利用申請をして、『母なき家の母 房一少年』(一)(二)(三)(四)の音源をお送りいただきました。せっかくの機会ですから、26日はその音源も皆さんと聴いてみようと思っています。どうぞ、お楽しみになさってください。

 

記事検索

最新記事

年別一覧

カテゴリー