おもちゃ映画ミュージアム
おもちゃ映画ミュージアム
Toy Film Museum

2022.04.08infomation

5月22日開館7周年記念トークイベント「日本に映画を持ち込んだ男たち~荒木和一、稲畑勝太郎、河浦謙一~」

 

2015年5月18日に当館が開館して、満7年の歳月が経ちます。どうにかこうにかコロナ禍の中を生き延びています。これもひとえに皆様方のご支援とご協力のおかげと心より御礼を申し上げます。【映画】という“文化”が日本に入ってきたからこそ、日本での【映画】一般初上映から125年経った2022年に、小さな私設博物館【おもちゃ映画ミュージアム】は7回目の誕生日を迎えることができます。

その【映画】を日本に持ち込んだ熱き男たち3人に照明をあてた催しを5月22日(日)に、開館7周年記念として開催します。新型コロナ感染予防のため定員(予約優先)をやや少なく設定しています。皆様からのお申し込みを心よりお待ち申し上げます‼荒木和一(1872<明治5>年2月3日~1957<昭和32>年9月20日、85歳で没)▼稲畑勝太郎(1862<文久2>年12月21日~1949<昭和24>年3月30日、86歳で没)▼河浦 謙一(1868<慶応4>年2月15日~1957<昭和32>年10月16日、89歳で没)。

なにしろ資料が少ない時代のことですので、わからないことも多いのですが、それでも懸命に上記3人について研究されている現代の熱き男たち3人が登壇して語ります。▼武部好伸さんは、荒木和一について研究され、ついに東 龍造のペンネームで小説『フェイドアウト 日本に映画を持ち込んだ男、荒木和一』(2021年12月20日、幻戯書房)を出版されました。今回の催しは、その出版をお祝いしての意味もございます▼長谷憲一郎さんは、稲畑勝太郎とリュミエール兄弟についてお話しくださいます。2019年、稲畑勝太郎がリュミエール兄弟宛てに出した書簡4通の写しを発見されたことは世界発信のニュースになり、早速その年6月に当館で2回にわたって講演をしていただきました。その時のご案内はこちらで書いています▼入江良郎さんは、吉澤商店店主河浦謙一について発表されます。論文で「映画の輸入・製作から興行にいたるサイクルをいち早く完成し、20世紀的な映画産業のモデルを先取りしたのが吉澤商店であった。あるいは、我が国に『映像の世紀』をもたらしたのが河浦謙一であった、といっても過言ではない」と述べておられます。とはいっても、河浦謙一のことをご存じの方は意外と少ないように思われます。今回のトークイベントが河浦謙一のことを、広く知ってもらえる機会になれば良いなぁと思っています。というのも河浦謙一は、私の故郷の隣町富山県小矢部市の、当時の町名でいえば津沢町の出身だったからです。

もちろん「広く知ってもらいたい」という思いは河浦謙一に対してだけでなく、荒木和一、稲畑勝太郎にも共通で、今回の取り組みが「日本に映画を持ち込んだ3人の男たち」に再び注目が集まることに繋がれば何よりの喜びです。

◎登壇者3名の長めの要旨を以下に綴ります(発表順)。

【武部さん】大阪・心斎橋の舶来品雑貨商、荒木和一は明治29(1896)年夏、2回目の渡米中にシカゴで初めて観たエジソン社の映写機ヴァイタスコープの映像に感動し、装置を購入すべく、ニューヨークで発明王エジソンに直談判。そして代理店を介し、売買契約を結び、(おそらく)同年暮れ、装置が日本に到着しました。

難波の福岡鉄工所で実験試写をし、一般公開(興行)に向けて準備を進めるも、想定外の事案が起き、フランスから映写機兼撮影機のシネマトグラフを持ち込んだ京都の実業家、稲畑勝太郎に先を越されてしまいます。その後、同年暮れに映画の世界から身を引くまで、がむしゃらに興行バトルに挑みました。

短期間とはいえ、荒木和一は日本の映画黎明期を語る上でパイオニア的な人物ですが、なぜか映画史では日陰的な存在。未公開資料を披露し、本人のプロフィールをはじめ、ヴァイタスコープを入手した経緯と興行の活動について説明したいと思っています。

当日は荒木和一のひ孫にあたる井上聡一様のご協力で、動いている荒木和一さんの映像をご覧に入れます。

【長谷さん】明治30(1897)年に大阪・難波の南地演舞場にて、日本初となる投影式フィルムを公開した関西の大物実業家稲畑勝太郎。彼は映画の発明者であるフランスのリュミエール兄弟に日本での映画製作および映画興行を任された代理人でした。2017年に稲畑の調査の過程で稲畑産業の協力もあり、彼がリュミエール兄弟に宛てた書簡4通(写し)が京都国立近代美術館に大切に保管されていたことが判明しました。

稲畑自筆のフランス語で書かれたその書簡には、契約満了後に映画装置シネマトグラフ4台と大量のフィルムの購入と金額、これまで3台とされていたシネマトグラフの輸入台数が合計5台であったこと、さらには横浜から輸入されたシネマトグラフに対しリュミエール兄弟に不信感を抱く様子などに加えて、日本初となる映画興行および映画製作がいかに大変で苦労の連続であったか詳細に書かれています。その興味深い内容について貴重なフィルムを観ながら解説をします。

【入江さん】明治30年、横浜にお目見えした吉澤商店の「電気作用活動大写真(原名シネマトグラフ)」は、大阪で公開された稲畑系のシネマトグラフ、荒木系のヴァイタスコープ、東京で公開された新居系のヴァイタスコープと並び、ほぼ同時期に我が国に渡来した活動写真の一つとして知られています。

また、これら4系統の事業者の中で、唯一本格的な映画商社へと成長を遂げたのが吉澤商店です。海外の発明品だった映写機の国産化、映画館や撮影所の建設、映画雑誌の発刊にも先鞭をつけた吉澤商店の足取りは、そのまま日本の映画産業が確立するまでの歩みとも重なります。

日活(日本活動写真株式会社)の前身ともなった吉澤商店はどこから現れ、どこへ消えたのか―。この最古の映画会社を経営し、我が国に「映像の世紀」をもたらした河浦謙一とは何者なのか―。謎に包まれた日本映画史の《起源》をめぐり、今現在も続く研究・調査・発掘の現状を報告します。

当日は吉澤商店製作の映画で現存する数少ない例として、早稲田大学演劇博物館のご協力を賜り『櫻田血染ノ雪』(1909年)をご覧いただきます。

 

発表後に鼎談を行います。【映画】という新しい“文化”に目を見開き心をつかまれた日本映画のパイオニアたちが、それを日本に導入し創意工夫を重ね、映画初公開競争にしのぎを削り合い絡み合いながら、時代を切り開いていった明治男のダンディズム(男気)と前向きなパワーを感じ取っていただければ嬉しいです‼

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