おもちゃ映画ミュージアム
おもちゃ映画ミュージアム
Toy Film Museum

2019.08.19column

町内の地蔵盆で、地縁が広まりました!

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昨日18日はミュージアムが位置する壬生中部自治会の地蔵盆。子どもたちが描いた燈籠がミュージアム前と北側の2か所に吊り下げられています。絵がまぁまぁ上手だった連れ合いが子どもの頃は、毎年町内から頼まれて描いていたようですが、子どもたちが主役のお祭りの雰囲気が伝わってきますね。開館以来、地域の人とも仲良くしたいと思って、地蔵盆の協力を微力ながら続けて来ましたが、昨年は子ども会行事スケジュールが詰まっているとのことで見送り、2年ぶりの地域貢献となりました。今年の地域役員の松本さんがとても良い方で、熱心に取り次いでくださったおかげです。

前日からその準備をして、子どもたちが来てくれるのをワクワクソワソワしながら待ちました。お坊さんの読経が聞こえて来て、10時20分過ぎに、子どもたちが大人たちと一緒に来館。挨拶をして、上映作業の段取りもあり、早速アニメーションワークショップで取り組んで貰うマジックロールの説明DVDをご覧いただきました。続けて、前回ブログでご紹介した1936(昭和36)年8月26~27日、京都市内の二条通川東の路地にある大日如来のお地蔵さんを囲んでの「大日地蔵盆」の記録映像をご覧いただきました。撮影された竹田耕作さんは、京都の新京極や河原町通りにあった松竹系映画館の看板を手掛けていたタケマツ画房の二代目。いち早くカメラを購入して、人目を惹く工夫を凝らした映画看板を撮影されていたので、その様子が今でも冊子『映画看板』で振り返ることができます。

同じように早くに8㎜カメラと映写機も購入されたので、この1936年記録映像の数年前から行事の様子を撮影して、1日目の夜に早速上映して皆さんに披露され、大いに喜ばれたようです。動画がまだ珍しかった時代、スクリーンに自分が映しだされた時の様子は、どれほど嬉しく、楽しく、面白かったことでしょう。

プライベート映像ではありますが、年月が経てば、映っているものは、着ているモノ、街並み、車や電車、習慣・風習など過ぎ去った各時代を伺い知ることができる貴重な資料になることをお話させていただきました。また、8㎜のざらざらとした映像が回想法として認知症に効果があることもお話ししました。自分が若い頃夢中だったことに関連する映像を見ると、急に脳が活性化して記憶が戻ってくることがあると言います。毎年10月に国内外で「ホームムービーの日」という取り組みがされていることも紹介しました。

2年前、当時の自治会長さんに相談をして、町内会の回覧板で「昔の記録映像がありませんか?あれば皆さんで地蔵盆の日に観ましょう!」と提供を呼びかけたのですが、その時は残念ながら1本も出て来ませんでした。今回竹田章作先生から提供いただいた8㎜映像が呼び水になって、他にも見つかれば良いなぁと思います。

続いて、16㎜映写機でアニメーション5作品をフィルム上映しました。最後の1本を除き全て無声映画ですが、子どもたちにも内容はわかったと思います。昔の映画は音が付いていなかったことを説明し、西洋ではこれに演奏を付けて観ていたのに対し、話芸が発達していた日本では、音楽だけではなく活弁士さんが声色も用いながら説明していたことも話しました。

続けて、マジックロールのワークショップ。大人たちは、ほとんどが地蔵盆の世話に行かれましたが、子どもたちは色鉛筆で塗り絵をしながら、2枚の紙でアニメーションが楽しめる玩具作り。時間さえたっぷりあれば、自分で絵を考えて、それに色を塗って作って貰うのですが、そうではないので前もって用意したものを幾種類か各テーブルに置いて選んで貰いました。実は、京都芸術デザイン専門学校の熊谷さんと宮井さんが、14日間のインターンシップに来てくれて、この日が初日。二人は下絵を用意してくれていたので、それも仲間入り。

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朝から、朝日新聞の小原記者さんとカメラマンさんが取材に来て下さいました。毎週木曜日夕刊に掲載「まだまだ勝手に関西遺産」で取り上げてくださるようです。世の中が平穏無事なら9月12日付けとサイトで動画も紹介して下さるそうです。今から、とっても楽しみです!!!

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早く終わった子どもたちは、手回し映写機、覗いて立体写真を楽しむ19世紀の玩具、ソーマトロープやプラキシノスコープなどの光学玩具も体験。

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一番年長の女子中学生さんは、35㎜フィルムを手にして、じっと見入っています。きっと彼女にとって初めて見知った素材。どうして、絵が動いて見えるのか、その仕組みがわかったことでしょう。

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 11時半頃、ミュージアムでのイベントを無事終了し、子どもたちはミュージアム東にあるお地蔵さまのところに戻っていきました。

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ヨーヨー釣り、スーパーボール掬い、風船、水鉄砲と楽しい遊びが繰り広げられていました。京都市は2014年11月に「京の地蔵盆」を京都をつなぐ無形文化遺産に選定しました。ざっと近所を見回しても、そこここに地蔵盆の燈籠や提灯が下がっているのが見えます。

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町内毎に子どもたちの無事な成長を願ってお地蔵さまが安置されています。新しい住宅地にはお地蔵さまがおられないので、壬生寺などからお借りして地蔵盆をされているところもあります。たまたま写真を撮った時間がお昼時でしたので、役員さんが当番をされているだけですが、この後のビンゴゲームの時はたくさんの人が集まり、子どもが数字を読み上げるたびに、「うわー」「あ~あ」と大人からも子どもからも声が上がり賑やかでした。松本さんのお声掛けで、インターンシップ生二人と私もビンゴゲームに参加させてもらい、私も景品をGETできました。そのあと、西瓜を食べて、福引(子ども用と各家庭用と別々に)と賑やかなお祭りは16時頃まで続きました。お世話をされた役員さんは大変でしたが、子どもたちにとっては夏休み終了前の楽しい出来事。16㎜映写機でアニメーションを観た経験は、今はさほどでなくても、きっと記憶に刻まれて後で思い出すこともあるでしょう。

「大日会地蔵盆」の映像をご覧いただいた細川ミホ子さん(80歳)とは、2015年5月大森一樹監督をお招きして開館第1回目の催しをした時以来の再会。「手伝うよ」と仰っていただいていたのに、私が無精をしてそれっきりになっていましたが、お元気でいて下さったことが何より嬉しかったです。細川さんは、宮崎県の高岡町(たかおかちょう)出身で、映像をご覧になって「とても懐かしく思った。子どもの頃は公民館や小学校の中庭に台を置いて、旅芝居を見たり、無声映画の上映を見たりした。弁士さんは一人だった。一番印象深く忘れられないのは藤原ていが書いた小説をもとに作られた『流れる星は生きている』だ」とお話くださいました。ネット検索すると、藤原ていさんが満州からの引き揚げの実体験を綴った小説を1949(昭和24)年に発表し、同年9月に映画が公開されています。12月8日に満蒙開拓団の話をするので、それまでにこの作品の下調べもできたらと思います。主人公の藤村けい子役を三益愛子さんが演じています。70年前にご覧になった映画を今も良く覚えておられることに、優れた映画の力を思いました。

この日何かと親切にして下さった松本さんは、京都北部の綾部市で生まれたので、地蔵盆のことは京都にきて初めて知ったそうです。でも、「9月1日に八朔祭があり、その時のことを思い出して、涙が出た。今日来て本当に良かった、懐かしかった」とお話くださいました。

岐阜県出身の女性は「岐阜県にも地蔵盆はある。終戦後小学生だった頃を思い出して懐かしかった。昭和39年生まれの長男を育てた長岡京市では、近くのお地蔵さんを借りて来て土曜、日曜と二日間行われた。大人は夜通しで、花火もした」と話してくださいました。

私の記憶では、故郷富山県砺波市に地蔵盆はなく、京都に来て初めて知りました。でも、寺院に隣接している神社の境内で映画を見た記憶があります。家々から御座や筵、座布団を持参して、白い布をスクリーンに見立てて暗闇に映し出される映画をみました。その記憶もあって、毎年7月の祇園天幕映画祭に協力できることをとても嬉しく思っています。夢は小学校校庭での野外上映で、以前近所の朱雀第一小学校PTA役員さんに持ちかけたことがあるのですが、なかなか実現に至らず仕舞いで。。。

こうした話をお聞きしながら、夏休みラジオ体操最終日の朝、神社の境内で宝探しをしたことや学年を超えて鬼ごっこをしたことなども連なって思い出されました。8㎜映像が回想法として有効だというのを、居合わせた大人の皆さんも実感されたことでしょう。

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私が砺波市出身だと知った細川さんは、砺波(となみ)の有名な大門(おおかど)そうめん、近くの福野町のそば、これも名の知れた氷見(ひみ)うどん、それに細川さんの故郷のミカン、そしてきっと細川さん大好物のお漬物を、さっと持って来てくださいました。みんなでいただいたミカンはとても良い香りがして、さわやかな味、美味しかったです。漬物は早速夕ごはんの時にいただきました。親切が身に染みた味がしました。

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その細川さんが「是非紹介してあげる」と連れて行ってくださったのが、壬生北部自治会のご長寿伊藤さん(97歳)。亡くなったご主人様が撮影されたおそらく大正末期の写真をスキャンさせてもらいました。細川さんが、とても印象に残った1枚だということで見せて貰いましたが、産めよ増やせよの時代でしょうか、たくさんの子どもたちで、狭い通りに人が溢れています。「防水張 萬(よろず)はりもの」という看板も目に入ります。こうした商売もあったのですね。

壬生北部にお地蔵さんをお祀りすることを祝ってのお祭りを撮影したもので、正確にいつのことか知りたいと思う私の為に、細川さんは長年このお地蔵さまを世話し続けて来られた青山染工さんにも案内して下さいました。そのおばあさまは既にお亡くなりになっていたので、お嫁さんは「いつのことか」ご存知ではなかったのですが、「こうした古い地域の写真が他にも出てきたら、来年の地蔵盆にみんなで見ましょう」と会長さんはじめ皆さんにもお話をして、写真や映像発掘のお願いをしました。

ちなみに青山染工さんは引き染め友禅のお仕事をされていて、私共が借りている町家は型染友禅の家でした。染めにもいろいろあるので、「昔の作業風景の写真はないですか?」と厚かましいついでに尋ねましたが、「自分たちの仕事を記録して残そうなんて全く考えることもなかった」とのこと。かつて「京都は日本のハリウッド」と呼ばれていても、映画製作者たちが、映画に関する資料を残して来なかったのは、同じ理由からなのだろうと思いました。

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写真を撮影されたのが、この位置かどうかはわかりませんが、壬生北部のお地蔵さまがお祀りされているのは、右の家の西奥。97歳の伊藤さんは、かつて千本三条や四条大宮周辺にいくつもあった映画館のことなども良く覚えておられるので、日を改めて細川さんと一緒に話を伺いに行くことにしました。

お地蔵さまが、良い地縁を次々と繋いでくれて、実にありがたい「地蔵盆」でした。「感謝」の言葉しかありません。

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