おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2020.05.05column

2019年12月8日開催「ブラジル移民と満州移民送出の背景を探る」の振り返り③-2

かつて長野県に幻燈機を用い、後には映画も用いてブラジル移民や満州移民を促す活動を盛んにしていた人物がいて、その幻燈機とガラス種板が長野県の宮田村教育委員会(長野県上伊那郡宮田村7021)に保存されていることを知りました。それがどのようなものか12月8日研究発表前にできることなら実見したいと思い、急遽予約をして、昨年11月22日午後に生涯学習係の小池勝典さんを訪ねました。なお、今では使われない「満州」という言葉がありますが、歴史的資料に基づくものなので、そのまま使用することをお断りしておきます。

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幻燈・映画で社会教育活動をしていた岸本 與(あたえ、1873年11月11日-1954年5月29日)の等身大写真パネルが、出迎えてくれました。宮田村大田切で6人兄弟の末っ子として生まれました。本人の記録には身長が4尺4寸、あるいは4尺2寸5分ともありますが、いずれにしても小柄な人物でした。写真後方にある机の上に、岸本が大切にしていた「社会教育講演幻燈會開催芳名録」第壱号から「社会教育賛成芳名録」第二十号まで5冊と岸本について書かれた本などが並べられていて、自由に見せて頂くことができました。

その中の1冊桐山實夫著『幻灯・映画 岸本與物語 至誠を貫いた誇り高き社会教育家』(1991年、信濃教育会出版部)によれば、体がとても小さかったことで馬鹿にされ、死のうと思い刃を喉にあてたこともあったそうです。徴兵検査に不合格になり落胆も味わいました。代々の家憲は「この家に生まれた者は、公益の為に盡力すること」でした。幼い頃に人形芝居、浄瑠璃にふれた経験があったことも影響したかもしれませんが、25歳の時に幻燈師になって社会教育家として生きることを決意します。

幻燈機のことを知ったのは、高遠にあった高遠藩士族真壁貞義家に遊学中のことのようです。高遠は東京の様子がいち早く伝わる伊那谷文化中心地でした。この遊学中に元高遠藩主内藤頼直の家族と顔見知りになったこともあり、1898(明治31)年春、東京へ出かけて幻燈機を購入した折には、父や兄が工面してくれた200円では足りず、不足分を内藤家から借りました。そのお礼もあるのか、幻燈活動を始めるに際し、いの一番に内藤家で披露しています。それは1899(明治32)年12月27日のことで、翌28日に宮田村出身で東京に住む歩兵大尉小田切政純宅でも披露しています。余談ですが、当日の参加者から、新宿御苑は、元は内藤家の江戸屋敷だったと教えて貰いました。明治維新になって新政府に敷地の大部分と屋敷を返上し、新宿御苑の直ぐ東隣に新たな屋敷を建てたのだそうです。岸本與が訪ねていったのは、この広大な屋敷だったのですね。

そして1900(明治33)年1月1日山梨県北都留郡大目村東大野の上條由郎家で第一声をあげました。1月6日の参加者の感想は「身体のはなはだ短小なるに似ず、意外に音吐朗々、能弁玉を盤上に転がす如し」と書いています。この後、3月末に帰宅するまで約55回に亘って各地で幻燈会をしています。幻燈会の内容は、人の一生、勧善懲悪、生活向上に関するスライド上映で、大人数のところでは講演形式で行われたようです。

岸本は「幻燈機を携えて県下各地を巡回し、皇室、偉人伝、戦争物語などのスライドを映し、独特な調子で解説した。明治30(1897)年頃から、信濃教育会から通俗教育普及の嘱託を受け、南米移民の勧誘も行った」(『下伊那のなかの満州聞き書き報告集9』、飯田市歴史研究所、2011年、24頁より引用)。

岸本の教化活動は多くの人に認められ、1914(大正3)年3月31日長野県知事依田銈次郎から社会教育に功労があったと30円が授与されます(この30円は、後掲載写真の幻燈機購入資金の一部に充てられました)。1916(大正5)年信濃教育会社会教育部嘱託になり、海外発展宣伝幻燈活動を始めます。1917年、18年東京で開催された文部省主催移植民夏期講習会にも参加しています。この活動は3年間に亘り、岸本の勧めでブラジルに渡った人は800人を超えたそうです(前掲桐山、83頁)。

孫引きになって恐縮ですが、和田敦彦「幻燈画像史料の保存と活用について 日本力行会所蔵史料を中心として」(『内陸文化研究』2号、2002年3月)によると、岸本が海外発展宣伝幻燈活動を始めたのと同じ1916年に、日本力行会会長の永田稠(しげし)が40日間にわたって関西から九州方面で講演活動をしていて、そのことを記した『日本力行会創立五十年史』には、「長野県下で250回以上の講演をして、その聴衆は15万人に達した」とし、また別の書で「海外発展の講演会、幻燈会、活動写真会、印刷物、出版物等が限りなく当時の信州に活動した」と述べて「1回の聴講者は少ない時で200人、多いときには3000人を越へた」「平均500人とすれば信州180万の人口の内、約12万5千が私の講演を聴いた筈」と書いているそうです。岸本と永田の接点がどうだったのか気になります。

桐山實夫が岸本について最初に書いた『幻灯師 岸本與伝 幻灯の炎よ永遠に』(1989年、信濃教育会出版部)によれば、岸本は幻燈会を開催する度に芳名録にサインや感想を書いて貰っていて、それを大切にしていましたが、なぜか1919(大正8)年から1924(大正13)年まで記録を残していませんでした。信濃教育会社会教育部嘱託だった当時の副会長で、後に信濃教育会会長を務めた佐藤寅太郎に依頼して、1925(大正14)年3月、記録が残っていない間も活動を続けていたことを証明する紹介状を書いて貰っています。1922(大正11)年1月信濃海外協会が長野市で設立されますが、その前年12月に東京で設立準備会が開かれ、永田稠と信濃教育会会長の佐藤寅太郎が顔を合わせています。永田は信濃海外協会の理事兼監事に就任。芳名録がない時期に、何らかの形で、佐藤を介して永田と岸本に接点があったのではないかと想像しています。

「文芸春秋」第32巻19号「臨時増刊漫画読本」(1954年12月付録)に、近藤日出造さんが幼い頃の郷里での想い出「昔の人や今いずこ-想い出は涙ぐましき哉-」を綴っておられます。IMG_20200503_0001 - コピー

…県内に名の轟いていたのが、移民事業にその四尺六寸の短軀を捧げた岸本與氏だった。ダブダブのツメエリ服におむすびみたいな顔を乗っけた、中学一年生たるかっこうの岸本老人は、ブラジル移民奨励のため、一箇の幻燈機を携え、よく徹るのどと断乎たる熱情を武器とし、不トウ不屈の敢闘をつづけていた。恐らく、長野県内の小学校で、この人の幻燈機を講堂に据えなかった所は一つもないにちがいない。しかし、この老人の熱血的努力が、何人の長野県人に「ブラジル行くベェ」と決意実行させたかというキキメの點を考えると、甚だ懐疑的ならざるを得ないのである。なぜならば、この老人の宣傳方式がまったく退くつ極まるものだったからだ。…

近藤日出造はもう一つの原因について、当時の人々がコーヒーというものを殆ど誰も知らなかったことをあげています。幻燈機でコーヒー栽培だのコーヒー園だと言ってもピンと来なかったらしいと。永田稠のように実際に現地を視察して解説しながら促したのとは、説得力が違って当然ですし、コーヒー自体を見たことも飲んだこともない人々にイメージしろと言っても無理ですよね。それでも岸本の勧めで800人が長野県からブラジルへ移ったのは、それだけ地元で生きていくのが大変で、新しい世界に人生を掛けて見ようと思ったからでしょう。

活動を始めた当初は幻燈機を用いていましたが、やがて映画に切換えます。1921(大正10)年9月に半年間の外遊を終えて帰国する皇太子(後の昭和天皇)を出迎えに東京へ行き、その折りに1000円で自動回転式映写機を購入して持ち帰ります(桐山、14頁)。当時の銀行員の初任給が50円で、今が20万円とすると400万円もします。自己資金だけで賄えたのでしょうか?

図1

岸本は四十数年間(前述のように途中抜けていますが)、幻燈会を開催する度に芳名録にサインや感想を書いて貰っていました。その第1号は、最初の幻燈機を買う折りにお金を貸して貰った新宿の内藤家で、1899(明治32)年12月27日付け同家家扶三好泰喬が署名した「君が志を賞賛す」でした(桐山實夫『幻灯師岸本與伝 幻灯の炎よ永遠に』、1989年、信濃教育出版部)。上掲は桐山の本口絵にも載っているひとつで、大野青年会の人によって1938(昭和13)年に描かれた16㎜映写機を用いて映写している岸本與。この頃上映していた映画のタイトルが133~135頁に載っていて、戦争に関するものが多いですが、『南米ブラジル実況』という作品も含まれています。

 上映するだけでなく、映画の製作もしていたようです。

図1

芳名録にあった1929(昭和4)年7月31日付け宮田村役場の署名。「岸本君 愛郷御心溢て 駒ヶ嶺の撮影と化す 宮田村之を後援す」とあり、7月15日地元で結成した10名の撮影隊で早朝出発し、翌日下山。文部省嘱託の白井氏が撮影技師として参加し、岸本は白井氏と木曽の御嶽山も撮影しています。「宮田村は、駒ヶ岳伝説の巻を撮影するために200円補助した」と新聞記事にあります。地元からの信頼が篤かったことがうかがわれます。

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おそらく1939(昭和14)年の新聞記事と思われ、2月から5月に亘る映画会開催の日程が載っています。殆ど休みなく、北信地方を上映機材を持って巡回している様子がうかがえ、芳名録に書き込まれた関係者のサインと感想からも、行く先々で大歓迎された様子がうかがえます。芳名録には、岸本が講演したそれぞれの地域の要人の署名があり、中には1937(昭和12)年内閣総理大臣に任命された直後の近衛文麿からの葉書、文部大臣荒木貞雄男爵、第29代長野県知事冨田健治の名刺なども貼ってありました。

岸本は、幻燈や映画を手段とする視覚教育は、大人も子どもも喜び、社会教化の実績が上がると考えていました。巡講活動も終わりに近付いた1940(昭和15)年9月30日にエルモの16㎜映写機2台を購入しています。しかし、その年暮れから神経痛に苦しみ始め、翌年5月に足かけ44年に及ぶ活動を終えます。「巡講日数1万3千余日、開会数1万2千余回、会場を訪れた人約960余万人」(桐山1989年本、187頁)。

図5

 岸本與が使用した幻燈種板(ガラス製のスライド)752枚が、1990(平成2)年に岸本家より教育委員会に寄贈されました。大きさは、82㎜四方のものと、縦120㎜×横82㎜の2種類ありました。「幻燈画種類別目録」はリスト化されて、その項目は、

▼タイトル▼社会教育(社会教育、風刺画、衛生教育、赤十字、児童教育、農業教育、立身出世、勤倹教育、国勢調査、移植民教育、中江藤樹)▼皇室関係画(東宮渡欧、人物、戦争、記録画、大喪の礼、その他)▼歴史画(忠臣蔵、元寇、その他)▼戦争画(日清戦争、日露戦争、欧州戦争、人物画、記録画、その他)▼人物画▼風景画(日本の近代建築、日本の風景、長野県内の風景、外国の風景)▼記録写真(肖像写真、記念写真、戦争記録画、東宮渡欧実録、片桐村水害記録、製糸工場、風景写真、その他)

日露戦争や、伊勢神宮や摂津湊川神社などの日本の風景、お得意の社会教育関係、皇室関係が多かったです。分類されるのは、かなり大変な作業だったと思います。時間が限られていたので全てを見ることはとてもできませんでしたが、「移植民教育」「外国の風景」「記念写真」などの項目に、ブラジル移民を促す目的で使用されたであろうスライドがありました。

満州移民よりも先に進められたブラジル移民の国策です。1908(明治41)年に始まり、1962(昭和37)年までに44万720人が出国しました。そのうち、長野県人は1446家族、単身388人でした。長野県人の移住熱が盛んになったのは、1917(大正6)年以後で、大正7、8年頃が最も盛んでした。これは岸本與の活躍時期と一致しています(前掲の桐山、16頁。この本には永田稠のことが一切触れられていません)。

拓務省嘱託として、満州の開拓地を撮影した熊谷元一は、「満蒙開拓を語り継ぐ会」のインタビューに「岸本さん、ええ、あれ南米のブラジルやったんだ。私が子ども時分に幻燈を持って来てねぇ。話をしてね、幻燈か何かを写してねぇ。確か、私が小学校の子どもの時分ですよ。背の小さい人でねぇ、声が大きくて。ブラジル移民でねぇ」と答えておられます(『下伊那のなかの満州-聞き書き報告集9』、2011年、飯田市歴史研究所)。先の近藤日出造や熊谷元一のように、岸本の幻燈会の様子は、何十年経っても思い出されるほど強い印象を与えたのでしょう。

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写真は、岸本與が使用した幻燈機で、1914(大正3)年に購入したもの。最初に購入した幻灯機は、1898(明治31)年春、東京で購入しています。桐山の本には、鶴淵初蔵のことしか書いていないので、東京市浅草区並木町四番地の鶴淵幻燈鋪で購入したのではないかと思います。2番目に買った上掲幻燈機には「東京市浅草区並木町 鶴渕製」と書いたプレートがあります。元々写真業者だった鶴淵初蔵は、写真家の中島待父(まつち)と共に、明治10年代の初めに文部省の依頼を受け、西洋幻燈を製作・納品し、その後の幻燈の普及に多大な影響を与えました。

画像を拡大投射するために、レンズ部分は、鶴淵が依頼に応じて写真機か焼き付け機の蛇腹を利用して取り付けたのではないかと推察します。

図2図1

 プレートの「鶴渕製」の「渕」の漢字が気になり、幻燈機に詳しい早稲田大学名誉教授の草原真知子先生にお尋ねしたところ、「手持ちのカタログの範囲では、1894(明治27)年あたりから『鶴渕』 になったり『鶴淵』だったりと混在し、末尾の発行元の記載はずっと『鶴淵』のようです」とのことでした。「プレートが四角なのは、胴の形状が四角だからか、上部が丸い幻燈機だと、プレートは楕円形です」とも。デザインを考慮したプレートになっているのですね。因みに、草原先生も、日本映画史研究家の本地陽彦先生も、初めてご覧になる幻燈機でした。光源は、当初アルコールランプを用いていたものから、石油バーナーに、そして白熱灯へと、画面を明るくするために改造していきました。おもちゃ映写機でも同じことが言えます。

図3

本地陽彦先生提供の鶴淵幻燈鋪(舗)の「幻燈図解」。後に教育博物館長となった手島精一(1849-1918)が幻燈の製作を鶴淵初蔵と中島待父に依頼したのは、写真家である彼らは化学と光学の近代的な知識を有していたからでしょう。「第六號」は年度の記載がありませんが、「第参拾貳號」は1900(明治33)年の再版(初版は32年)で、幻燈種板セットの解説書です。幻燈を扱う者が、この解説書を読みながら幻燈を写すという、いわば「台本」のようなものです。「家庭教育」「國民衛生」の文字が見えますが、「移植民教育」もこのような感じだったのかも知れません。

図1

岩本憲児『幻燈の世紀-映画前夜の視覚文化史』(2002年、森話社)127頁には、森銑三の『明治東京逸聞史』1896(明治29)年9月記「幻燈」の箇所に「三月より五月まで、上野公園に於て東京府工芸品共進会が催された。その中に、三原親輔出品の幻燈があって、『衛生的の図を描きたるは、新案にして、意匠頗る可なりとす』と褒められている。幻燈というものが、一般の注目を惹こうとしている」と記されていることが載っています。。

森が日記で幻燈の評判を書いた2年後に、岸本は東京へ出かけて、借金をしてまで幻燈機を買っています。興味深く思ったのは、当時幻燈用スライドのことを「映画」と表記していたこと。後で紹介する年賀葉書で岸本は「幻燈映画説明」と表現しています。「映画」には、「手描き」の下図を基にしたものや、「写真」を複製して製作されたもの、「石版画」のものがありました。上掲写真は「石版画」のスライドではないでしょうか。朝鮮半島や満州が描かれた地図です。後に岸本は、1938(昭和13)年7月8日から3ヵ月に亘り朝鮮、満州を巡講し、帰りに九州、山陰、山陽、四国を巡講しています。

図1図2

岸本が使っていた幻燈機収納箱。正面には「貴重品 運搬注意」と書いた小さな木札が貼り付けてあり、蓋部分には「コワレモノ御注意」と貼ってあります。「どの作品をご覧に入れようか」と考えを巡らせながら、旅から旅へ小さな体で、この重い道具一式を運びながら幻燈会を開いていたのでしょう。恐らく1917(大正6)年に差出したと思われる年賀状に「これまでの20年間、四千回にわたり200万人の人々の前で演じたのは、御大典講演、国体講演、胎内家庭学校社会教育、衛生講演、日露戦役後援講演、戦後国民覚悟、東北飢饉救済、明治天皇御聖徳、昭憲皇太后御聖徳、欧州戦乱、日独交戦、海外発展移植民講演、幻燈映画説明使用約二千枚」と書いています。

図3

移民に関する種板の中から。中島待乳は工部美術学校出身の妻・秋尾園(その)の手を借り、手描きの幻燈画を作るとともに、写真師の腕を活かし、海外向けの横浜写真風幻燈の製作も手掛けたそうなので、この幻燈画は秋尾の筆によるものかと草原先生に尋ねましたら、「鶴淵の種板には、中島の写真や秋尾の絵は使っていないだろう。それぞれ別の店で、プライドもあり、競争相手でもあったはず。種板の製作や彩色には画家や画家の卵が関わっていたと言われている。東京だと、浅草と上野は近いから、画学校の学生がバイトをしていたようだ」と教えてくださいました。画学生の話は「おもちゃ映画」のアニメーション製作の状況と似ていて、大変興味深いです。

図6

田中先生の話にも出てきたリベイラ河流域の種板。ブラジル移民は1908(明治41)年に始まりました。細川周平『シネマ屋、ブラジルを行く』(1999年、新潮選書)によれば、1923(大正11)年8月、移民斡旋会社の海外興行会社が日本向けに作ったブラジル宣伝映画とブラジル向けに作った日本宣伝映画が、サンパウロのレププリカ館で試写されていて、1929(昭和4)年には、内海貞雄と斎藤政一が設立した日伯シネマ社が『ノロエスタ線一周』を製作しています。新住民が次々入植し、コーヒーブームで日系農園が潤っている様子を記録した作品のようです。

岸本が使用していた種板には、家族で移住した記念写真も含まれていました。例えば長野県東北部で現在は長野市出身の一家6人「上水内古里村 柄沢幸之助 ブラジルコーヒー園 コーヒー1万本、鶏二百羽、豚百頭、馬牛数頭アリ 明治43年渡航時の写真 今ハ7人トナル」と手書きされた種板など。家族から提供された写真をガラスの種板に複写するときに、あらかじめ白い余白を作り、後から説明文を加えたものと推察します。現地で成功した移植民を幻燈や映画で紹介して、なお一層の入植を促そうとした一端がうかがえます。

図2図1

今回『長野県社会教育史』(1982年、長野県教育委員会)を読んでいて、岸本與の前に長野県南佐久郡北牧村の「篠原国三郎」という幻燈師の存在を知りました。1887(明治20)年代から教育、衛生、軍事思想、工場法の普及のため、県内から群馬・山梨・静岡県に亘って巡回上映しました。彼の『教育幻燈日誌』には、その状況が記されていますが、例えば1900(明治33)年2月19日には、諏訪郡落合小学校を会場として、一千人の観衆を集めている等とあります。岸本が幻燈師を始めたばかりの頃、北信の篠原と南信の岸本の少なくとも二人の幻燈師が活躍していたことになります。

図3図4

写真左は、昨春問い合わせを受けた南信州地域資料センター(長野県飯田市)に寄贈された「池田都楽」の幻燈機と種板約100枚。下伊那郡喬木村氏乗の某家にあったそうです。桐箱に「衛生狂画」「當世善悪鏡」「家庭教育」などのタイトルが書かれ、それぞれ10枚前後の種板が入っていて、蓋裏に明治32(1899)年、明治34年などと種板を購入したと思われる年号が書き込まれています。映写機には「東京浅草區御蔵前 池田都楽 片町幻燈製造舗」のプレートが埋め込まれています(小田正勝氏Facebook2019年4月18日記事から)。なぜ、この家にあったのか迄は分かっていないようです。

右写真は当館所蔵の「池田都楽」の幻燈機。本地陽彦先生所蔵カタログと照合すると、明治40年の「壱号型特別製」で「箱入り一臺金参拾五圓」とあります。同年の銀行の初任給と同じ額でした。江戸時代、長崎に伝来した西洋幻燈は日本化し、「写し絵」「錦影絵」と呼ばれる演芸になりました。池田都楽は、江戸時代後期から始まった写し絵師で五代まで続きます。

草原先生に「なぜ、手島精一は、幻燈機の製造を池田都楽ではなく、鶴淵初蔵に依頼したのか?」と尋ねたところ、「池田都楽は、演芸としての写し絵から幻燈に移行した人。種板の基本は和風の絵で、後に多くの写真を用いた種板を製作しているが、手島がアメリカから戻った時点では、まだ写し絵の系統だったのだろう。当時の写真は、ガラス板に画像を焼き付けるもので、ガラス板の上の図版を別のガラス板に複写することも写真のプロセスだった。鶴淵と中島はその知識があった。それで手島は彼らに依頼したのだろう」ということでした。

図5

本地陽彦先生提供「池田都楽」の明治30年頃の広告です。小林源次郎著『うつし絵』 (初版は昭和41年)11頁掲載だそうです。岸本與が最初に幻燈機を買ったのは明治31年春のこと。それが鶴淵製か池田製か分かりませんが、価格の参考にはなるでしょう。当初は石油ランプを光源にしていましたので、真っ暗な中での投影でした。岸本の巡講の時も、一日一回夜に開会し、星空の下でも行われたそうです。ハーモニカを吹いたり、太鼓も叩いたりしながらの上演は、見た人の心に強く印象に残ったようです。

図1

宮田村教育委員会生涯学習係の小池さんが、岸本が使用していた幻燈機と種板を用いて、実演してくださいました。映し出されているのはブラジルに移民された一家の記念写真です。小池さんが、等身大の岸本の写真パネルを置いてくださったこともありますが、なんだか「遠いところ、よく私の幻燈を見に来てくれたなぁ」と喜んでいる声が聞こえるようでした。最初の幻燈機や、1921年、1940年に買った映写機は何処へ行ったのでしょう。ひょっとしたら戦時下の金属供出で姿を消したのかもしれませんが、1945年5月29日老衰で82歳で死去するまで、自分が一生を掛けて社会教育に尽力した同志として、この幻燈機とガラス種板を手元に残したのではないかと思うのです。

図1

ふと思い立ち実行した1泊2日の長野県フィールドワークでした。目的の一つは『三江省樺川県千振』の映像を誰が撮ったか手がかりを探すことでしたが、結局この旅では見つかりませんでした。けれども川路村のように、まだ高価だったカメラを持って満州へ行き、撮影したものを持ち帰って移民勧誘に歩いた人々がいたことが分かりました。岸本與の幻燈道具一式がきちんと整理され、保存されているだけでなく、巡講芳名録も残されていたことで、一地方の事例ではありますが、当時の幻燈活動の様子が分かります。今後は岸本が歩いた国内外の地点を地図に落とし込んでいけば、より実態が分かると思います。

岸本だけでなく、篠原国三郎、発表を機会に知った永田稠など、幻燈を用いた人々の存在や、南信州地域資料センターに寄贈された資料など、丁寧に調べれば往時の日本中の幻燈に関する様子が分かるでしょう。俄興味で訪問した私を、快く受け入れて貴重な資料を見せてくださった宮田村教育委員会の小池学芸員に心から感謝申し上げます。

 

 

 

 

 

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