おもちゃ映画ミュージアム
おもちゃ映画ミュージアム
Toy Film Museum

2023.07.02column

七夕の夜、市登録有形文化財「旧伴家住宅」で戦前おもちゃ映画を体験‼

早いもので、もう7月。

6月30日は近くの元祇園椥神社境内に今年も大きな茅の輪が設置され、朝から善男善女が茅の輪くぐりをして今年前半の穢れを祓い、後半の無病息災を祈りました。

見よう見まねで毎年作っている小さな茅の輪。今年も町家の玄関先に飾りました。

さて、JR二条駅構内などには、子どもたちが七夕の飾り付けをした可愛らしい笹が微風にそよいでいます。琴座のベガと呼ばれる織女星(裁縫の仕事を司る星)、鷲座のアルタイルと呼ばれる牽牛星(農業の仕事を司る星)が旧暦7月7日に天の川をはさんで最も光り輝いているように見えることから、中国で、この日を一年に一度巡り会いの日と考える七夕伝説が生まれました。そのお話が日本にも伝わり、平安時代には宮中行事として七夕行事が行われるようになりました。京都にある冷泉家では、今も伝統行事を大切に継承されていて、以前「乞巧奠」を見学したことを思い出しました。今年の7月7日どうぞ夜空が晴れて、カップルの願いが叶いますように。

その7月7日19:30~20:30、京都市有形文化財「旧伴家住宅」二階の和室をお借りして、無声映画上映会を初開催します。

写真に見えているのが、旧伴家住宅です。この背後に全106室からなる客室棟が聳えています。正式名称は「カンデオホテルズ京都烏丸六角」で、2021年6月6日にオープンしました。手前の京町家がレセプション棟で、会場はこの2階です。当館が所蔵する戦前の無声映画の中から「おもちゃ映画de玉手箱 そっくりさん篇」、「ブッシュ家のポンコツ自動車」、「大河内傳次郎剣戟集」「ラリーシモンの気弱なドライバー」を上映します。初めての開催なので、様子見ということで、今回は大森くみこさんの活弁と天宮遥さんのピアノ演奏を録音したバージョン版でお届けします。

戦前の日本映画の残存率は極めて低いのですが、辛うじて「おもちゃ映画」として、家庭用に販売されていた短い断片が時々みつかることがあります。15~100秒程度の極短いものですが、それでも貴重な映像だということで、それらの発掘と保存、そして今回の上映会のように活かすことを目的に活動しています。当日は、手回し映写機も持ち込んで、映写の体験もしていただきます。

年々消え去る京町家を惜しんで、私どもも築100年を超える織屋建ての京町家を改修して使っているのですが、比較にならない圧倒的な資金力で、旧伴家住宅のリデザインはため息が出る素晴らしさです。この町家を見学するだけでも価値があります。6日夜に、いつものようにテルテル坊主さんを下げて、天の川が見られるように祈ります。

どうぞ、皆様、コンチキチンの音色に誘われてお越しくださいませ。

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歴史好きなので、この旧伴家を少しばかり調べて見ました。

滋賀県の近江八幡市にある公益財団法人八幡(まちまん)教育会館(近江八幡市指定文化財)も凄く立派な建物ですが、もとは、江戸時代初期の豪商「伴庄右衛門」が本家として建てた商家です。伴家が出している資料によれば、屋号は扇屋といい、商号として「地紙一(じがみいち)」を使用していました。畳表、蚊帳、扇子、麻織物を主力に商売に励み、大阪や京都にも出店を持ち、やがて江戸日本橋にも大店を構えるようになり、為替業務や大名貸しもしていました。質素倹約勤勉を旨として商売をする一方で、文化芸術にも深い造詣を持ち、五代目資芳(すけよし)は、伴蒿蹊(ばんこうけい)と称し若くして隠居し、江戸中期を代表する歌人・国学者として道を究め、当時のベストセラーとなった『近世畸人伝』の編集で名を馳せました。

この「京都にも」というのが、この伴家住宅か否か迄はわかりませんが、京都市資料には以下の記述が載っています。

……伴家は近江八幡町の出身で、明治33(1900)年の「備忘録」から同29(1896)年現位置に屋敷を購入し、また当時敷地には13棟の建物が建っていたことが判明するが、その内訳は不明である。主屋は表屋造りの形式で、玄関棟の裏(西側)には坪庭がつくられ、さらに居室棟の奥には座敷庭をはさんで土蔵と離れが配されており、典型的な京町家の構成となっている。内部はとくに、主室と次の間とからなる座敷が注目される。ともに面皮柱・面皮長押を用いて数寄屋風に仕上げ、主室には床・棚・平書院を構えて棚の天袋・地袋の襖は池大雅の墨絵を張る。また次の間は本来茶室で隅寄りに炉を切り、西面の押入は釣床に復原されて掛込み天井が張られている。細部にわたって凝ったところがみられ、意匠的にも優れたものである。

建築年代については詳細は不明であるが、同時期に建てられたものではない。まず居室棟の座敷を除く東寄り部分が最も古く、これは明治29年の購入時にすでに建っていた可能性がある。ついで玄関棟と店舗棟が、そして最後に建てられたのが座敷で、敷地間口や痕跡からみると居室棟はもと居室が2列に並び、その2列目を改築して現在の座敷とされたものと思われる。この座敷の西側にはさらに後の増築と考えられる2階建てが続くが、その鬼瓦には明治44年の銘が入っていることから、座敷はこの頃には建てられていたようである。……

先の伴家が出している資料によれば、「隆盛を誇った伴家でしたが、江戸時代の末期から急速に家運が衰え、明治期には商家をたたみ、現在は子孫も途絶えています」と書いてあるのが気になります。江南良三著『近江商人列伝』によれば、屋号「扇屋」と名乗ったのが伴荘右衛門の弟の資則。彼は刀を捨てて商いをするようになり、伴庄兵衛と名乗ります。その子伴荘兵衛資明の代になって一家の基礎が確立しましたが、資明の孫にあたる宗悦の時代に京都三条烏丸東に移住した(28頁)そうですが、宗悦の子、道寿が奢侈豪奢で財産を消滅し、伴荘兵衛家は滅亡したということです。名前がややこしいですね。近江八幡の知人にお聞きしたところ、「近江八幡で伴家は有名です。多く伴さんは近江八幡におられますよ」とのことですので、いつか伴家ゆかりの人にもっと話をお聞きしたいものです。

近江八幡市内の正福寺境内にある伴家の巨大なお墓。今も別家で9代目「扇四呉服店」が商いをされています。そこに伝わる家訓が「なるほど」思わせてくれます。参考にしたのは、このページ。https://kakunist.jimdo.com/2016/06/03/%E6%89%87%E5%9B%9B%E5%91%89%E6%9C%8D%E5%BA%97-%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%B1%8B-%E5%AE%B6%E8%A8%93/

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