2025.07.31information
小冊子10「 “参加する”映画『祇園祭』の記録(2)インタビュー集」

ご案内が遅れましたが、6月14日に小冊子10「 “参加する”映画『祇園祭』の記録(2)インタビュー編」を発行しました。

内容は上掲の通りで、1968年に公開された映画『祇園祭』に何らかの形で関わりがあった皆様に2021年3月から9月にかけてお話を伺った内容をまとめたものです。
①川塚錦造さんは大学3年生の時に、映画に実際“出演”した菊水鉾に乗って囃子方をされていました。記録によれば、30名の囃子方が撮影に参加されたということです。
②放下鉾囃子方の梅原良紀さん、冨田育夫さん、堀 真也さんとお母様、武村敏弘さんには、映画に実際“出演”した放下鉾の思い出を映像を見ながら語っていただきました。冨田さんは「今日、コマ送りで見せて貰って、やっと自分が映っているのが分かりました」と喜んでくださいました。放下鉾からは59名が参加と大がかり。
③大映スチールカメラマンだった都筑輝孝さんは進行係として参加。伊藤大輔監督、後を引き継いだ山内鉄也監督も互いに遠慮していたと印象を語り、「絵合成は東映ではできませんので、大映の技術でしょう。西田シンさんじゃないかな」と推測。「おおっぴらに参加してたんはハッちゃん(助監督だった宮嶋八蔵さん)と私だけ」と都筑さん。五社協定下、京都府政100年を記念して作られた作品。
④1917年創業の竹田工務店は戦後にできた祇園祭の山鉾全てに関わっている工務店ですが、竹田茂夫取締役会長さん、元従業員の佐藤勇さん、若林道夫さんにお話を伺ったところ、1968年当時の日誌は残っておらず、映画撮影用に長刀鉾を新しく作る作業に参加した記録もないそうですが、「あの長刀鉾を見ると、実際のものとは作りが違うなぁ、と思います」と仰って、作事方と映画美術とでは技術が異なる一面もうかがえました。
⑤元高校の国語教師で京都勤労者映画協議会会員だった藤村尚美先生は「映画の教師や」といわれるほど映画の話をいつもされていて、その影響で連れ合いは映画好きになりました。後に触れますが、藤村先生が堀昭三さんから依頼されて書いた公式宣伝パンフレット(1968年2月21日完成)の「あらすじ」を書かれたのは、「映画の脚本や台本を読んでいない」と証言された通り、最終完成稿が出来上がる半年も前でした。11月21日の試写会で「見てすぐに、僕が書いた『あらすじ』とは全く違うな、と気付きました」と語っています。
⑥山下晃正さん(当時京都府副知事)は、高校2年生の時に嵯峨野高校映画研究会顧問だった藤村先生の声掛けで、2~3回映画のエキストラを経験。そのうちの1作品が映画『祇園祭』の町衆役でした。実際に映画をご覧になったのは、京都文化博物館でのリメイク版で、京都府で企業誘致の担当をしていた頃のことだそうです。
⑦映画監督中島貞夫さんは、同い年だけど入社が2年早い山内鉄也監督を「割と律儀な人で、一旦引き受けるときちっとやんなきゃ気が済まん人」と評し、さらに伊藤監督と違って脚本を書かなかったことによる違いや、役者を集めすぎたことが混乱の原因だったとみています。「文学と映画は違うんだよね。映画化する瞬間から、映画の専門家に任せないと。原作者が『原作とは違うんだ』ってことを理解しないといけない。一番根本的なテーマだけ合っていれば、表現はお任せしますという形にしないとね」とも。頭には原作者で共産党の市議だった西口克巳が浮かびます。
本当は聞き手を務めてくださった京樂真帆子・滋賀県立大学教授がテキパキと原稿整理をしてくださっていたのですが、私の方が、もっと時間を割いて調べたいという思いがあり、それらをまとめてからと先延ばししていたからこんなに遅くなってしまいました。結局、日々の忙しさと、思った資料がご遺族宅からまだ見つかっていないこともあって、恐縮ですが今回の小冊子には反映していません。思いはまだキープしていますので、いずれまとめたいと焦りながら、思っています。
ノロノロしている間に、③都筑輝孝さんが2024年3月17日に、⑤藤村尚美さんが2025年5月12日に、⑦中島貞夫監督が2023年6月11日に鬼籍に入られました。藤村さんには、レイアウトした原稿を読んでもらえたと思いますが、あとのお二人には間に合わず、本当に申し訳ないことでした。
7月初め、1通のメールが届きました。差出人のお父様(関東在住)が映画『祇園祭』に出演されていて、「撮影時の中村錦之助(主人公)さんや美空ひばりさんらとの思い出があるので、当時の状況や体験談について話をしたい」と仰ってくださっているそうです。高齢でもありますし、ことのほか厳しい暑さが続く京都にお越しいただくのも心配なので、少し涼しくなった頃にお話を伺うことにしました。

上掲は2021年5月4日に発行した小冊子5「 “参加する”映画『祇園祭』の記録―映画『祇園祭』製作上映協力会資料集―」です。この冊子を編集・解説してくださったのも京樂真帆子先生です。この2冊をお読みになって、先ほどの男性のように、この映画について思い出があるという方はお知らせください。小冊子5「おわりに」で京樂先生がお書きになったように、資料集に載せきれなかった歴史資料がまだありますし、掲載に間に合わなかったことにも触れた「記録3」ができないものかと思っています。
今回の小冊子10は、映画『祇園祭』の中で山鉾が巡行するシーンから撮って表紙を作り印刷に回しましたが、鮮明な画像ではなかったので、カバーを別に作りました。最初に載せた写真です。この絵については、2枚目の写真に縦に3行書いた文章の通りです。再掲しますと、
……カバー絵は、幻のパンフレット『祇園祭』挿画として、当初のプロデューサーだった竹中労の父、英太郎画伯が描いた作品です。湯村の杜 竹中英太郎記念館館長 竹中紫様のご厚意で飾ることができました。ご協力に心より御礼を申し上げます。……
小冊子5に掲載した資料のほとんどを所蔵されている堀 昭三さん(当時、映画『祇園祭』製作上映協力会事務局長)宅で、 “幻のパンフレット”を見た記憶があるのですが、後に堀さんに確認したところ「ない」との返事。とてもがっかりしたのですが、谷川建司編『映画産業史の転換点』(森話社、2020年)の中に、この挿絵が載っているのを見て、心が強く惹かれました。
映画『祇園祭』のパンフレットにこの挿絵はぴったりだったのに、と思ったのですが、実際に発行されたのは、下掲パンフレットでした。

⑤藤村先生のところで触れた公式宣伝パンフレットです。堀さんを中心とした京都府文化事業室が制作しました。
竹中労さんが降板されたのだから致し方ないと思いつつ、何とかこの絵を見たいと思っていたところに、2022年11月24日に来られたお客様から「湯村の杜竹中英太郎記念館にあるのではないか」と教えてもらいました。早速問い合わせのメールを竹中紫様宛にお送りしたのですが、返事が貰えないままに、年月だけが過ぎていきました。
そんな折、知り合いが同記念館を訪問したとXで呟いていたのを見て、竹中紫さんに繋いでもらえないかと依頼しました。そのことが道を切り拓き、こうして小冊子表紙カバー用に絵をお借りすることができました。 “幻のパンフレット”の表紙絵ではありませんが、同じ時に英太郎画伯がご子息、竹中労さんの依頼を受けて描かれたうちの一枚です。

今、「竹中英太郎記念館館長日記」(2020年7月31日付け)を読んで、カラフルな色彩に驚くとともに、この幻のパンフレット表紙絵が行方不明なのだということを知りました。何とも惜しい!この絵には、きちんと訴えたい文言、主役の錦之助さんのセリフ「神事無之共山鉾渡」が書き込まれ、躍動感に溢れています。両者の違いの大きさに愕然とします。
竹中紫様に、絵をお借りしたお礼に上掲小冊子5と10をお送りしましたところ、「竹中英太郎記念館館長日記」(2025年7月20日付け)で小冊子について書いてくださいました。
……昭和42年竹中労のプロデュースによる"京都府制百年"記念事業として、伊藤大輔監督・萬屋(中村)錦之助主演時代劇映画「祇園祭」が制作される運びとなり、労は、桜咲く湯村山に、父・英太郎を訪ねて、宣伝パンフレットの挿絵&カット、レイアウトを依頼しました。英太郎はこれを快諾、かくて32年ぶりに画筆は蘇りました。しかし、革新府制下の党派的対立が現在(ママ)で、シノプシスは大幅に書き換えられ、伊藤監督と共に労はプロジューサーを辞任、「祇園祭」の構想はまぼろしと消え、原画は日の目を見る事はありませんでした。数点の原画は労の著作本により紹介されましたが、今回、おもちゃ映画ミュージアム様より、小冊子作成にあたり、ぜひとのご依頼があり1点お貸し致しました。小冊子をお送り下さいました。……
「32年ぶりに画筆は蘇りました」に興味を持ち、履歴を読みました。「この父にして、この子息あり」の印象を濃くし、町衆が自分たちのために立ち上がって自治体制をつくりあげ、応仁の乱のために途切れていた山鉾を渡そうとした民衆の歴史を描いたこの映画に、英太郎画伯の絵が本当にぴったりだと改めて思いました。

上掲は1988年平凡社から発行された『太陽』に掲載された竹中英太郎画伯の写真。記念館サイトの年譜にも載っています。それを読むと、1932年には、社会主義運動への積極的参加を模索し、1935年29歳の時に、江戸川乱歩『陰獣』『大江春泥作品画譜』などの挿絵を最後に、それまでの挿絵画家としての生活と決別。翌年、二・二六事件関係者として拘置され、まもなく釈放されて満洲へ。1939年、33歳で帰国後は様々な労働運動にかかわっておられます。そして、紫さんがお書きになった通り、1967年、竹中労さんの求めに応じて32年ぶりに映画『祇園祭』宣伝パンフレット用に画筆を執られたのでした。息子の依頼に応えた英太郎画伯でしたが、1967年10月半ばに、竹中労さんは日本共産党京都府委員会と対立し、共産党も除名されて、31日に映画『祇園祭』製作上映協力会を離脱します。こうして、竹中英太郎画伯が描いた絵は“幻の”と付くようになったのです。
実際に映画『祇園祭』がクランクインしたのは1968年8月12日でした。その年10月1日に発行された『話の特集』10月号に掲載された竹中労さんの文章「週刊誌の害について」のタイトル画に、未使用となった竹中英太郎画伯の挿絵が用いられています。

「竹中英太郎年譜」の表現によれば「約30年ぶりに全国誌の誌面に挿絵が飾られることになる」。私どもの小冊子はそれには比べものにはなりませんが、58年ぶり英太郎画伯の絵を飾ることができました。恩讐を超えて、皆さんの心に残る1枚の挿絵となればと願います。


