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2025.05.26information

6月28日に講演会 西陣空襲から80年~戦争を繰り返さないために~

「せっかく西陣に引っ越しをするのだから、 “西陣空襲”をテーマに催しをしたい」と転居を決めた時から思っていました。正会員として応援してくださっていた方がお元気だった頃、私が青春の一時期を猪熊通下立売、次に千本出水のあたりで一人暮らしをしていたことがあると言ったら、「敗戦間際、その近くに爆弾が落ちたことがある。あまり知られていないが、大きな被害が京都でもあったんや」と教えてくださったことがありました。

住んでいたころに“西陣空襲”という言葉を一度も聞いたことがなかったのですが、10年前にその話を聞いてから「京都でも戦争の被害があった」ということは常に頭にありました。先日美容院へ行ってこの話をしたら、京都市内生まれで、お孫さんがおられるその美容師さんでさえも「初めて聞きました」と言われて、逆に驚きました。空襲被害の記憶が継承されていないのじゃないかと思いました。それで、チラシの一番上に《西陣空襲から80年~戦争を繰り返さぬために~》と書きました。

京都での空爆被害は西陣が最初ではありません。講師をお願いした軍事史に詳しい佛教大学名誉教授原田敬一先生から講演「京都の空襲-都市伝説と事実-」のもう少し長い要旨が届いています。

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京都に空襲はなかった、という都市伝説がある。しかし、京都府下で言えば軍港都市舞鶴、宮津湾の宮津市、伊根湾の伊根町は、軍艦や軍工廠を主目標にした空襲を受けている。文化都市京都でも、東山区馬町、右京区太秦、上京区西陣など5回も空襲を受けた。舞鶴は、模擬原子爆弾のパンプキンも投下された。パンプキンは日本各地30都市に投下された。大津と舞鶴に落とされたのは、京都市が原爆投下対象都市の一つだったからである。1945年4月の投下候補地リストは17カ所で、5月には京都・広島・新潟の3カ所に絞られている。原爆が古都京都を一掃する可能性もあった。

空襲は第一次世界大戦から始まり、軍隊や軍需工場などへの細密爆撃だけでなく、戦略爆撃の名で民間人や住居、病院などを襲うにいたる。現代のウクライナ戦争やガザ戦争でも、戦略爆撃の思想の下に、過酷な現実を見せられている。爆撃機や戦闘機だけでなく、遠隔操縦のドローンが多用される現代の戦争を考えるためにも、京都の空襲の事実を知ってほしい。

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1945年1月16日23時20分過ぎ、京都市東山区馬町付近にB29 一機から爆弾が投下され、『京都の「戦争遺跡」をめぐる』(機関紙共同出版)によれば、死者41人、傷者56人、家屋損壊300戸以上と記録されています。続いて、4月16日昼頃、京都市右京区太秦巽町、唐渡町付近にB29が投弾し、死者2人、負傷者48人がでています。そして、6月26日9時40分頃、一機のB29から爆弾が投下され、京都市上京区智恵光院通下長者町上ルほかに着弾。西陣警察署記録によると、死者43人、重軽傷者66人、家屋全壊・半壊・一部損壊併せて292戸と記録される被害が出ています。

 

初夏を思わせる陽気の今年4月27日、京都歴史教育者協議会の西陣空襲の痕跡を訪ねるウォーキングに参加させてもらいました。ガイドは「戦争遺跡に平和を学ぶ京都の会」代表の奥村英継さん。この時撮った写真を上掲チラシに用いました。「大銀杏や電線に、爆弾で吹き飛ばされた遺体がぶら下がっていた」というその銀杏の木が、みずみずしい若葉を陽光に輝かせていたのが印象的でした。戦争さえなかったならどのような人生を送られたのでしょうか。胸ふさがれる思いで見ました。もっと生々しい話もお聞きしました。

京都新聞1月30日付け新聞で、西陣空襲で姉を亡くした男性が近くの二条中学で戦争体験を語ったという記事を読みました。連絡を取って連休明けの5月8日その男性、水口章さん(90歳)宅を訪問し、体験談をお聞きしました。本当は6月28日13時半からの講演会に来ていただいて、直接参加者の皆さんと一緒にお話を伺いたかったのですが、足の具合が悪く出歩くのを控えておられるので、お宅にお邪魔させていただきました。下手な記録動画も撮りましたので、当日はそれもご覧いただこうと思っています。

チラシに「辰巳公園の石碑」の写真を載せています。市の許可を得て建碑された石碑「空爆被災を記録する碑」は出水学区の磯崎幸典さんが私財を投じて建碑され、それをサポートされたのが松本三郎さんと水口さんでした。松本さんは直接被災はしておられませんが、出水学区の役員をされていて、水口さんと同級生でした。磯崎さんも松本さんも泉下の人となり、お二人の思いも背負って水口さんが西陣空襲について機会があれば、こうして「何があったのか」を語ってくださっています。それはひとえに、戦争の被害があったことが「忘れられていく」危機感からです。

ウォーキングで訪ねた磯崎瓦店玄関先に置かれている爆弾の破片の写真もチラシに載せました。磯崎さん宅は空襲警報が出た直後に防空壕に避難して助かりましたが、隣家の4人全員が亡くなった体験をお持ちでした。磯崎さんが仕事で訪れた旅先で「京都で戦争があった」と話すと、決まって「噓でしょ」と言われて、「ずっともやもやを抱えておられた」そうです。それで記憶を継承するために記念碑を造ろうといういうことになって、そのために奔走されたのだそうです。水口さんご自身は、空襲で2歳上のお姉さんを亡くし、5歳下の弟さん(当時、まだ6歳ぐらい)も頭が陥没するという障害を負われました。お母さんもガラスの破片が体の中に入っていたようです。水口さんご自身は出征兵士の見送りに行っていて無事でしたが、家は爆風で飛んでしまいました。年々戦争体験者が少なくなっていく中で、体験をお聞きする貴重な場となれば幸いです。

講演会実施に先立つ6月26日11時から、「西陣空襲被災80年」として辰巳公園に献花処を設けるそうです。どなたでも献花できますので、私も行ってこようと思っています。雨天決行です。

講演会は6月28日(土)13時半、当館で行います。古い建物ですので安全のため先着25名に設定しています。参加費1500円。入館料込みですので、展示もゆっくりとご覧ください。

お一人でも多くの方に“西陣空襲”のことを知っていただきたいと願っています。皆様からのお申込みをお待ちしております。

 

 

 

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