おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2020.08.21column

映画『祇園祭』研究者と製作上映協力会メンバーとのトークイベント(1)

7月24日、本来なら祇園祭後祭の日。当初の計画では、映画『祇園祭』についてのトークイベントをした後で、夕刻、ミュージアムの直ぐ近くで繰り広げられる神事『神輿渡御』を希望者と一緒に見学しようと、イベント開催日をこの日に設定しました。

しかし、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、今年は山鉾巡行はなくなり、淋しい祇園祭となりました。6月27日付け京都新聞で、今年は神輿渡御に代えて「御神霊渡御祭」が行われることになり、神幸祭にあたる17日は祭神の分霊を乗せた榊を八坂神社から四条御旅所に運び、還幸祭にあたる24日は3基ある神輿のうちのひとつ「中御座」が四条御旅所から神社に戻ることになったと書いてありました。早合点した私は、四条御旅所からそのまま八坂神社に戻られるのだろうと考えていました。

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ところが翌日の新聞を読んだら、「御神霊渡御祭」の行列は、御池通に面した神泉苑にも立ち寄っていました。後で太田記者さんに確認したところ、ミュージアム直ぐ傍の武信神社はコース外なので、立ち寄りはなかったようですが、京都三条会商店街にある御供神社(又旅社)にも立ち寄られ、結構しっかり時間をとってお参りされたそうです。

丁度その頃、私どもは、同商店街のお店で楽しい反省会をしていた時分かも。「う~む、一目見学したかった」と下調べ不足を後悔。榊に神霊(白馬の背に乗っている3本の榊)を乗せて運ぶ儀式は、祇園祭史上初めてのことだそうです。他にも新型コロナウィルス感染拡大が収まらない今こそ疫病退散を願って、近くでお参りしたいという氏子地域の人々の要望に応え、18~23日に初めてこの榊が氏子地域を回ったのだそうです。形を変えても、主になる思いと伝統を継承しようと努力される関係者の皆さんの姿勢が素晴らしい。

さて、この日13時半から始まった映画『祇園祭』研究者と製作上映協力会メンバーとのトークイベントは、申し込みが相次ぎ、幾人もの方にお断りせざるを得ませんでした。とにもかくにも、多くの人が関心を寄せて下さったことが嬉しいです。

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最初に京樂真帆子・滋賀県立大学教授の発表から。演題は「映画『祇園祭』とその時代~伊藤大輔の幻の『祇園祭』~」。先生の専門は平安時代の貴族社会なのだそうですが、なぜか『祇園祭』の素材の面白さに嵌まって研究を続けておられます。24日を挟んで7月16日、7月27日にも、新しい資料をお借りすることができ、京樂先生の目はいよいよ爛々と輝きを増して。これまで所蔵者宅で52年間も眠っていた資料達も、研究者の手によって目覚め、活かされることを、さぞかし喜んでいるでしょう。

歴史研究者の目から見る映画『祇園祭』ということで、3つの項目でお話しして頂きました。

1.映画の背景・構造

2.祇園会(神事山鉾巡行)から祇園祭(山鉾巡行)へ

町衆の自治、権力との対抗、自立の象徴。「祇園会じゃない、祇園祭をやろうじゃないか」の決め台詞にしびれた。歴史研究者として、その台詞をどう解釈できるか。

3.町衆(まちしゅう)の子孫達へのエールが込められている

伊藤大輔監督による幻のラストシーンについて。伊藤さんは途中で降板し監督ではないが、伊藤さんの意図はかなり入っている。後を引き継いだ山内監督のおかげだ。だが、伊藤さんの思いが全く入っていないことが一つある。それはラストシーンで、その話をする。

1.について

映画『祇園祭』の“おことわりチラシ”(映画村・映画図書室所蔵)は、映画「祇園祭」製作上映協力会により、1968(昭和43)年11月25日協力団体に向けて2万枚発行された。映画完成直後に準備されたもの。文面に「(おことわり)この映画の府下上映については、一月下旬より宇治、綾部、福知山、舞鶴(東西)、宮津(以上確定)はじめ、峰山、加悦、網野、久美浜、亀岡、園部の各地で順次上映の予定をいたしておりますので、ご期待ご協力のほどお願いします。」

展示資料に府内上映に何月何日どこでどれだけの人が観たかを書き込んだ集計表があり、それと“おことわりチラシ”の会場が一致する。チラシは続けて「この映画は単なる娯楽映画でないし、もちろん観光映画でもない。構想8年、伊藤大輔監督と俳優中村錦之助が持ち続けた一大時代劇巨編、四百五十年前の京都が応仁の乱によって、あたかも戦後にも似た様相にあったとき、焦土の中から立ち上がった町衆(大衆)たちが、無謀な権力に打ち勝ち、あらゆる困難を克服して祇園祭を復興させ、市民的団結としての自治を打立てる物語である。住民の自治を暮らしを守ることを第一義としている蜷川知事が百年記念事業の一つとして取り上げる理由もむべなるかな。」とある。

1968年当時、先の戦争を知っている人がたくさんいた。応仁の乱の荒廃と戦争での荒廃を重ねてみる人が多かった時代。そこから立ち上がる民衆を自分たちと重ねてみていたことが分かる。京都府政百年の映画、京都が100年間民主主義をやり遂げた、そのお祝いの映画にもなった。このことが伊藤監督が後々まで拘る1つのポイントになっていく。

さらにチラシは「近年日本映画がエログロヤクザと頽廃を売り物にし、それがゆえに不振を極めているとき、日本映画発祥の地、京都において映画五社の力をもっても果たし得なかった一大巨編が成し遂げられるということは、京都府市民のみならず、日本の映画愛好者の全てにとっても痛快この上ないことではないか」と続く。

映画『祇園祭』の構造について

町衆(民衆) 対  室町幕府(権力)/独立プロ(時代劇) 対  映画五社(任侠もの)/町衆(錦之助) 対  月行事(がちぎょうじ。例えば今の町内会長のような存在)/町衆+室町幕府  対  山門(延暦寺)と、対立をきちんと描いていて面白い。歴史研究者は、当時室町幕府は支配層ではあったが、町衆の敵ではなかったことを明らかにしている。本当は山門が徹底的に室町幕府や町衆と対立し、祇園会復興の邪魔をした。町衆が祇園祭復興を希望したとき、協力してくれたのが室町幕府だったというのが史実である。現代の町衆(製作上映協力会)+京都府・京都市   対  何かと闘う(70年安保の直前)という比喩を持たせた映画になっている。

延暦寺の僧兵が出てくる部分は撮っている。撮る計画の日付まで分かっている。だが、映画には一切出てこない。絶対にこの部分のフィルムがあると思っている。映画が公開されたときに僧兵部分がカットされているのは、何かがあったのかもしれない。延暦寺が何か言ってきたのか、延暦寺に忖度したのか?実態とはそもそも違う映画になっているけれども、民衆が闘い自治を勝ち取る場面が感動を呼ぶ部分であろう。

2.祇園会(神事山鉾巡行)から祇園祭(山鉾巡行)へ  映画『祇園祭』の重要ポイント

主人公新吉(錦之助)の決め台詞。幕府による妨害、祭りを強行する論理は?

「お上のための祭りじゃない。わしら京町衆、みんなのための祭りじゃないか。それなら神事停止のお触れの通り神主様の神事を抜きにした祭、祇園祭で結構じゃないか。祇園会でのうて祇園祭。わしらの祇園さんのお祭りだけなら一向に差し支えなかろう。おい、みんな、神事は無くとも山鉾渡そう。」この台詞を受けて、実際祇園祭を強行しようとするので、重要な台詞。歴史研究者は、現在でも本当は祇園会と言う。

この台詞の資料が、八坂神社の業務日誌『祇園執行(しぎょう)日記』天文2(1533)年6月7日条に残っている。「七日、山鉾ノ義二付、朝山本大蔵ガ所へ、下京ノ六十六町ノクワチキヤチ共、フレ口、雑色ナド皆々来候テ、神事無之共、山ボコ渡シ度事ヂヤゲニ候。此方ハシラズ。今日又帖シタヽメホシ、山本二郎四郎近江ノ公方へ下候也」。この意味は「延暦寺が圧力をかけたがために、幕府は祇園会にかかる神事はやってはいけないと命令を出す。だが納得いかない町衆は神事はなくとも山鉾は渡したいと言ってきた。うちは知らん。今この時期幕府の将軍さんは近江におられるので、手紙を書いて知らしとくわ」。

伊藤監督は林屋辰三郎『町衆』に載っているこの史料を理解して、おそらく錦之助さんも山内監督も『赤本』(伊藤監督の構想を書いた小冊子「映画『祇園祭』物語の輪郭」)を通じて知っていた。

この映画は脚本家の清水邦夫と鈴木尚之と伊藤監督が対立をして、問題を起こした。西口克巳の原作と原脚本では、錦之助の台詞ではなく、月行事の辰右衛門の台詞「そうじゃ、いいか。将軍様の命令は神事停止じゃ。社殿での祈祷や神輿のお渡りなど、つまり神官たちの執り行なう儀式は取り止めよというのじゃ。祇園社がどうしても命令に背けぬというなら、一切の神事は取り止めて貰おう。但し、但しじゃ、たとえ神事これなくとも、山鉾渡しだけなら良い筈じゃ。」となっていて、撮影台本になると、この台詞は新吉の台詞になっている。清水、鈴木は当初原案の脚本から、撮影台本の段階で変えている。これは伊藤さんの意図を汲んで変えた。

撮影台本では

徳大夫:しかし、祇園社の神事抜きで、祇園会を行う事は出来ぬぞ。

新 吉:それなら、祇園会はなくとも良い。

徳太夫:なんじゃと?

新 吉:これはわしらのお祭りなんだ。神事など一切無用にして、ただ山鉾だけを渡しましょう。

徳太夫:山鉾だけを?

新 吉:そうです。侍も幕府も関係ない、わしらだけのお祭、わしらだけの賑やかし。

これでも映画と異なっていて、更に映画の段階で、もうワンランク変更している。伊藤監督が原脚本から撮影台本でいろいろ意見を言っているが、伊藤監督は赤本の中で町衆の自治をより明確にして、原作小説との違いが認められる。それは蜷川知事の意思でもあった(※京都文化博物館の伊藤大輔文庫に2種類の自筆原稿があり、京都府立京都学・歴彩館にも「赤本」が1冊保管されていて、閲覧可。伊藤大輔文庫所蔵の台本には、伊藤監督の自筆メモが散見される)。

伊藤監督は祇園祭と祇園会の違いをよく分かっていて、京都文化博物館にある原脚本への伊藤さんの書き込みは「わしら京町衆のお祭りだから神事を抜きの祇園祭で結構ぢゃないか。祇園会では無うて、わしらの祇園さんのお祭だけなら差支へあるまい」とある。映画の錦之助さんの台詞に近い。あの決め台詞を作ったのは、伊藤大輔さんだと言うことが明々白々で、それを山内監督が受け継いで、映画にした。

DSC03760 (2)3.伊藤大輔監督 幻の映画『祇園祭』

(京樂先生は)ラストシーンを大変残念に思っている。伊藤監督が考えた幻の『祇園祭』ラストシーンについて、赤本に次のように構想が書いてある。「あやめは戸板にぴたりと寄り添い、死せる新吉に話しかけた。『私はあなたのものなのよ。生きて命のある限り、誰の女にもなりはしませぬ。私はあなたのもの。あなたは私のものですよ』。ゆらめき進む鉾頭の長刀。その同じ鉾頭の長刀が今、大京都市現代風景の中を東山に向かって林立するビルの空を駆って進む」。四百余年前の昔ながらの姿で、昔ながらの勝利の喜びを込めて進む現代の山鉾シーンで終わるのが伊藤監督の構想だった。市民革命と府政100年を寿ぐお祭りの映画にするには、この方を支持する。

このラストシーンは、本当に揉めて、京都新聞1968年3月28日付けに「映画『祇園祭』を語る中村錦之助」の記事が載っていて、7月に撮影を開始、今夏の巡行シーンを画面に取入れ、出演者は全国公募で、例えば冒頭シーンに1968年の「現代の祇園祭」場面を登場させる」などと話していて、中村錦之助さんも伊藤監督案に賛成していたことが分かる。

「赤本」のプロローグは、現代の山鉾巡行の実況。その描写の上に、次々とクレジット・タイトルを重ねる。重ね終わって表題「祇園祭」となっている。伊藤監督の思いは、プロローグとラストを現代の山鉾巡行の映像にすることで、中世の自治→現代の京都府政100年、中世の町衆→現代の京都府民・市民、わたしたち。自治を獲得した、民主主義へのエールであった‼

これから映画『祇園祭』を見る時は、①新吉の決め台詞を味わおう!②新吉が倒れて、カメラが上を映し始めて、長刀鉾の切っ先が青空の中に映ったら、画面で何が起ころうとも、現代の山鉾巡行シーンを頭の中で描こう!映画製作から52年後、伊藤大輔監督の幻を(私達の頭の中で)現実に‼

と資料をたくさん読み込まれた知識と、元気で溌剌とした楽しいお話に時間を忘れて聞き惚れました。この日のトークイベントは16時15分頃に終了しましたので、幾人かの人が京都文化博物館での今年最後の映画『祇園祭』(17時開始)をご覧に向かわれました。きっと京樂先生のお話を思い出しながら、新吉の決め台詞を味わい、ラストには現代の山鉾巡行を思い描きながらご覧になったことでしょう。

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