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2020.08.20column

8月20日京都新聞朝刊と23日付け京都民報に「『満州国』って、知っていますか?」の紹介記事掲載

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今朝の京都新聞市民版に開催中の資料展「『満州国』って、知っていますか?」について、紹介記事を掲載していただきました。16日付け読売新聞でも掲載していただき、それらの記事を読まれた方からの問い合わせ電話が次々かかってきます。思っていた以上に、多くの人が「満州」について関心をお持ちなのだと実感しています。昨日も夕刻まで途切れることなく、見学に来ていただきました。

今日の昼頃ご覧いただいた方は、1930(昭和5)年生まれの90歳。小学校6年生の時、「満州へ行って開拓したら、全部自分のものになると言われて、行きたくて、たまらず義勇軍に応募した」そうですが、その頃はとても痩せていて不合格だったそうです。10人くらいの子ども達が合格して渡満しましたが、誰一人帰ってこなかったそうです。痩せていたがために不合格になって幸いでした。「当時は、たくさん生徒を送り出すと、国に貢献して格が上がったので、学校も一生懸命だった。誰も皆、お国の為にと、戦争一色だった」と思い出しながら、お話し下さいました。

今朝問い合わせの電話を下さった方も「満州での話をしたい」とおっしゃっていました。そういう思いの人がたくさんおられるのでしょう。なるべくお話をお聞きして残したいと思います。

先の男性には、先ず第二次試験移民として渡った千振開拓団の映像をご覧頂きました。この映像には「大陸の花嫁」一行が映っていますが、ふと、大陸の花嫁はいつ頃まであったのだろうかとネットで検索していて、「大陸の花嫁」ならぬ「国策の花嫁」の道を歩んだ滋賀県大津市出身の女性の手記「生き地獄から戻った私!」が目にとまりました。良ければお客様にも読んで貰いたいと思い、プリントアウトしました。「大陸の花嫁」も応募者の中から選考があったのですね。8月9日朝、ソ連軍侵攻から悲惨な逃亡が続き、途中で3人の子どもを亡くし、大変な苦労の末、1946年6月1日に滋賀県の実家に戻られるまでの思い出が綴られています。「今の人にあの時代に私たちが経験した苦しみなどを、絶対に経験させてはならない」と書いておられます。

この千振開拓団の映像はタイトルも欠落した8分程度の部分映像ですが、大変うまく行っている様子の人々の暮らしが映っていて、昭和の大恐慌、冷害続きの天災でとりわけ「農村では食べるものもない」という悲惨な状況下にあった地域では、このような映像を見て、「満州へ行って夢を掴もう」と思う人が続いたのも無理はないと思いながら、いつも観ています。

ほかに大連にあった沖田スタジオの沖田 博という人物が、1930年、1931年に撮影・編集した9.5ミリフィルム(パテ・ベビー)の映像も見て貰っています。大変に凝った映像でお洒落な印象です。パテ・ベビーを研究している森末典子さんに尋ねましたところ、『パテーシネ』1931年1月号に「第9回パテベビー撮影大競技会成績表」の5等14席に名前が載っていると教えて貰いました。全国各地からの入選者の他に奉天の人が2席に入っています。残念ながら、今のところ、沖田博さんの名前は、これ以外に見つかっていないそうです。

満州は早くから、フランスのパテ社によるパテ・ベビー向けのフィルムを販売していた伴野商店の支店ができ、9.5ミリのクラブが発足したりして、9.5ミリの活動はかなり盛んだったそうです。でも『パテーシネ』誌を見る限り、満州パテベビー連盟やパテーシネ協会満州支部などで役職についていた形跡はなさそうだということです。いずれにしても、ご覧頂く1930年の作品『満州旅行』『夏家河子の思い出-大連』『楽しき夏の一日―大連・星ヶ浦』、1931年の『満州牧場』などを見ていると、裕福な家族ののどかで平和な日常が映し出されています。この年9月18日、関東軍は奉天郊外の柳条湖付近で満鉄線路を爆破する事件を起し、満州事変が起こります。

このあたりのことにも触れた京都民報の記事が23日付けで掲載されます。一足早く今日来館いただいたお客様から紙面を譲っていただきましたので掲載します。

 京都民報2020年8月23日付け - コピー

この紙面を譲って下さったのは、「平和を願い戦争に反対する京都戦没者遺族の会」(略称:京都平和遺族会)の方で、京都から満州に渡った「廟嶺京都開拓団」の団長だった村田さんのご子息や23日お越しになる黒田雅夫さんとも繋がりが有ると聞いて、びっくりしました。昨年12月8日に安岡先生のご講演を聴いて以来関心を持っていた開拓団でも有り、その上、黒田さんも廟嶺京都開拓団員だったと分かって、23日は、そのお話が聞ける貴重な機会になると楽しみにしています。

「2歳の頃、大連の大江町に住んでいた」という男性も来館いただきました。早速、沖田スタジオの映像を見て貰い「映像をご覧になって、何か大連について、思い出されることがありましたか?」とお聞きしましたが、余りに小さい頃のことで、それはなかったようです。薬剤師をされていたお母様は4人の子どもと親戚の子ども1人の5人を連れて無事帰国されました。引き揚げ者の過酷な逃避行を思うとき、様々な局面でお母様の好判断があったのでしょう。今105歳でお元気だそうです。帰りに「元気なのは、お袋のおかげです」とノートに書いて下さいました。

明日もまた、どのようなお話が聞けるのでしょうか。23日はできるだけ事前予約いただけるとありがたいです。猛暑が続く中、来ていただくのも恐縮ですが、30日までの期間中にお越しいただければ、企画した甲斐があります。

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