おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2021.08.15column

映画『祇園祭』に何らかの形で関わった方への取材

昨日8月14日(土)は、先日来停滞している前線の影響で、西日本から東日本にかけて広範囲に及ぶ大雨。河川の氾濫や土砂崩れなど大変な被害がでました。生憎な天候ではありましたが、予定通り大阪のフェスティバルホールへ。

7月10日シンデレラコレクターの川田雅直さんが松山バレエ団の「新『白鳥の湖』全幕」を観てきて、素敵だったとSNSで呟いておられたので、人生二度目のバレエ見学をしたいと急遽無理を言ってチケットを取ってもらいました。チケットはほぼ完売状態だったのですが、幸いにも3階席で1枚取れました。

公演中の撮影は禁止でしたので、始まる前の様子を1枚だけ。遠視なので、遠い席でも大丈夫。全体が見渡せて、河合尚一さん指揮、大阪交響楽団によるフルオーケストラ演奏も丁度良い具合。開始時には、こんなにたくさんの席がお客様で埋まって、最後に幾度も繰り返されたアンコールの拍手では、この大きなホールが割れんばかり。今更ながら、バレエ芸術を愛する人々がこんなにもおられるのかと知って感動すら覚えました。

ロビーに、今年5月22日に98歳でお亡くなりになった松山樹子さんの遺影が飾られていました。実は、この様子を自分の目で見て、合掌したいばかりに深刻なコロナ禍、悪天候の中を出掛けたのです。

松山バレエ団の創設者、松山樹子さんです。衣装は『祇園祭』のヒロインを演じられたときのもの。各メディアで訃報を報じる写真としても載りました。

今、私どもは、映画『祇園祭』(1968年11月公開)に何らかの形で関わったことがある人々にお話を伺い、それを記録して残す取組みをしています。

映画にばかり注目していましたが、それよりも早くバレエ『祇園祭』が1963年10月に札幌で上演され(台本監修は木下順二さん、演出は宇野重吉さん)、大阪労音創立15周年記念としてミュージカル『祇園祭』が1966年2月に大阪で上演(脚本・歌詞は恩師依田義賢先生)されていました。さらに、映画がつくられた後に田島征彦さんが絵本『火の笛 祇園祭絵巻』(1980年)を発行されていたことも知りました。

それぞれの大元になったのは、紙芝居『祇園祭』(1952年、民科京都支部歴史部会製作)ですが、紙芝居に着想を得た一番早い表現は、私が把握しているところでは、1958年頃に加藤泰さんが大島渚さんに代わって台本を書き直し京都の円山公園で上演した演劇のようです(大島渚「主体者の責任を問う」『キネマ旬報』1969年4月1日第492号春の特別号41頁参照。今、この演劇に関する情報を求めています‼)。西口克己さんによって小説『祇園祭』が書かれたのは、その後の1961年。

戦乱によって疲弊した京の町衆が、あらゆる妨害を克服して自分たちの祇園祭を再興した物語は様々な媒体によって表現され、それが当時だけでなく今もなお、人々の関心を集めていることは素晴らしいです。

松山バレエ団で『祇園祭』が上演されたことを知って、いても立ってもいられず何か手がかりがないかと川田さんを介して松山バレエ団に問い合わせメールを差出したのが5月9日。そして11日にチケットを手配してくださった凌淑英先生から嬉しいメールを受け取りました。この先生ご自身が子どもの頃バレエ『祇園祭』に出演された経験をお持ちでした。

松山先生がご主人の清水正夫さんとバレエ団を創立されたのは1948年1月。頂いたメールには「当時松山バレエ団は、車の両輪のように、伝統的な西洋の古典バレエと、バレエ団独自の創作バレエをというモットーで、いろいろと日本の文化人の方々との交流も深めながら、松山樹子を中心に活発な公演活動を繰り広げておりました」と教えて下さいました。凌先生のお口添えで広報の方が資料を探して下さり、5月11日に『祇園祭』の衣装を召した松山先生の写真を送っていただきました。まさか、その直ぐ後に樹子先生が黄泉国に旅立たれるとは誰一人想像しなかったことで、結局数多くの代表作がある中から、この時用意された『祇園祭』の写真が配信されることになりました。

「本当に『祇園祭』の写真で良かったのでしょうか?」と心配になり凌先生に尋ねましたら、「これで良かったのです」と言っていただき安堵しました。

凌先生のご紹介でバレエ『祇園祭』に馬借人頭、熊左役などで出演された田中俊行先生にも7月6日にお会いしてお話を聞かせていただきました。公演前には、皆さんで八坂神社にお参りに行かれ「その時大きな虹が架かったので、これは上手くいくと思った」と懐かしそうにお話し下さいました。進歩的な考えの持ち主だった清水団長が西口さんの小説を読んで「これはバレエになる」と決められたのだそうです。1966年までの間に全国30箇所ぐらいで上演されただけでなく、松山バレエ団は日中友好にも尽力され、中国でも上演されました。

田中先生のお話では、4幕目の舞台に神輿が登場するそうです。言葉を介しないバレエだけの表現で、「神事これなくとも山鉾渡し度」と中世の文書『祇園執行日記』(天文2〈1533〉年6月7日条)にも記されたことをどのように表現されたのかと、目の前で繰り広げられているバレエを観ながら、尚更知りたくなりました。

清水正夫・松山樹子夫妻のご長男哲太郎さんによる新『白鳥の湖』はとても美しかったです。主役の公女オデットと黒鳥オディールを演じた奥様の森下洋子さんは、手足が長く、しなやかで気品に満ち、その美しさは際だっていました。凌先生は「清水・森下は松山バレエ団創立のころ生まれましたので、3歳でバレエを始めた森下洋子の舞踊歴と松山バレエ団やひいては日本バレエ界の歴史とほぼ重なっているわけなのです」と教えて下さいました。70歳を超えて、休憩時間も含め3時間もの長時間をオデットとオディールの二役で踊り続けられているのが、唯々素晴らしく、日本の至宝だと思いました。

さて、こちらは、8月2日にお話を聞きに行った中島貞夫監督。背後に「おもちゃ映写機」が飾ってあるのが嬉しくて💖伊藤大輔監督降板の後、映画『祇園祭』の監督を務めることになった山内鉄也監督は、東映の2年先輩に当たるのだそうです。田坂具隆監督『親鸞』(1960年、中村錦之助主演)撮影時に、一緒に助監督をされたそうで、まだこの頃は絢爛豪華な時代劇でした。そういった繋がりがあるので、山内監督からよく相談を受けたそうです。

山内監督を「律儀な人」と評し、「自分では本を書かなかった。作家性が高かったら、この映画はやっていなかっただろう。徹底的に職人を貫いた。相談を受けたとき、えらいもん引き受けたなぁと思った。企画として新鮮味がなかった。180度転換したものでないとダメだと思った。錦ちゃん(中村錦之助)が出てくれと言うから出た人が多いけど、主役じゃないからねぇ。役者を出し過ぎて収拾が付かなくなったね。錦ちゃんは『祇園祭』をやったことが得になっていないが、鉄ちゃん(山内監督)にとっては、この仕事をして良かった」と話して下さいました。時代劇の世界は映画からテレビに移り、山内監督は1000回以上の最長寿番組「水戸黄門」のメイン監督として、実に250本以上の作品を演出されました。

さらに続けて「映画『祇園祭』の第一案は首脳部まで上がっていなかったのではないか。今井正ならOKだったかもしれないが、伊藤大輔の名前では東映ではできなかった。伊藤監督は東映での興行的評価は高くなかった。スタッフ人選で、新しい要素を見つけることができないと東映は考えた」と中島監督なりの分析。ここでいう第一案というのは、1961年伊藤大輔監督が、中村錦之助主演で東映に提出した企画。翌年夏から撮影に入る予定でしたが、莫大な製作費が見込まれたことから中止になりました。

私としては、一緒に仕事をされたこともあるプロデューサーだった竹中労氏への厳しいコメントが印象に残りました。「京都に来て映画界に入り込んできた竹中労の存在をどうみるか。名誉欲があり、組合などを作ろうとし、自分が思うように人が動いてくれると甘い幻想を抱いていると思った。とにかく映画製作予算が大きく、竹中が取る分が多くを占めていた。『かき回す名人』だと知られていて、ある意味、映画作りの素人だった」と手厳しいです。

最初の脚本執筆者だった八尋不二さんは『キネマ旬報』1969年3月15日第491号の中で、「原作者には、原作を壊しますよ、と言いました」という伊藤大輔さんと「細部にわたってまで、原作尊重を強調し、一晩中食い下がった」西口克己さんの間にあって「両者の意見を調整すべきプロデューサーと称する人物は(そういう人物がいたとして)全く自己の任務を遂行しないのである」と板挟みになった苦労を吐露されています。この竹中労氏が降板した後、引き継いだ久保圭之助氏も謎が多い印象で、こういった映画製作の不透明性、責任感の欠如が映画の位置をいつまでも低くしているのではないかと思って残念に思います。中島監督には、今月末に再度お話を伺う予定です。

来月早々には、菊水鉾作事方の竹田工務店さんにもお話を伺う予定です。その竹田茂夫会長様に教えて貰って読んだ『ザ・フォト祇園祭』(1986年、京都書院)に萬屋錦之介(中村錦之助)さんが「映画『祇園祭』の想い出」を書いておられます。「西口克己さんの原作をシナリオ鈴木尚之、清水邦夫さん、監督伊藤大輔先生で」とあって、山内鉄也監督のお名前を書いておられないのが残念です。

その文章によれば、太秦中辻町付近の新丸太町通りで10月2日から6日まで撮影が行われ、室町時代の四条通りを再現するために、約80人の大工さんが1ヶ月がかりで東西600㍍の通りに民家や、商店を多数作り上げるという大がかりなもので、さらに「長刀鉾は当時のお金で500万円をかけて作った実物大」とも書いておられます。菊水鉾の作事方として、映画の鉾建てに関わった大工さんが今もお一人おられるそうで、そのお話しをお聞きするのが楽しみです。

まだまだ活動は継続しますので、皆様のお知り合いに、映画『祇園祭』に関わったことがある人がおられましたら、ぜひご連絡を賜りたいです。お聞きした内容は、いずれ纏めて記録集第2段として発行します。ご協力をよろしくお願いいたします。

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