おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2022.06.04column

5月22日開催トークイベント「日本に映画を持ち込んだ男たち~荒木和一、稲畑勝太郎、河浦謙一~」の振り返り~Part3

5月22日に開催した『日本に映画を持ち込んだ男たち~荒木和一、稲畑勝太郎、河浦謙一~』の振り返り~Part3は、日本映画史家本地陽彦先生です。今開催中の「『川喜多長政と中国』展 映画の国際交流を求めて」でも、たくさんの貴重な資料をお貸しくださいました。(文中、故人への敬称は略させていただきます)

そのうちの1枚がこの写真。1935(昭和10)年8月、日活多摩川撮影所にて、映画『人生劇場』のための打ち合わせの時のもの。左から監督の内田吐夢、撮影所長の根岸寛一、藤田次長、原作の尾崎士郎、そして右端が脚本の亀屋原 徳(かめやばら とく)で、この“亀屋原 徳”が本地先生のおじいさまだそうです。本地先生の資料の豊富さにいつも驚いてばかりなので、我慢できずに「どうしてこんなに資料がたくさんあるのですか?」と尋ねました。

その答えがこうでした。本地先生は高校時代に映画に夢中になって、学校の映画研究部に入り、映画雑誌の購読も始めたりしていたそうです。映画監督を夢見て入った多摩芸術学園の「映画史」の授業で浅沼圭司さんから「新しい表現を目指すには、古い表現を知らなければならない」と教えられたそうです。この言葉は宮川一夫先生が大阪芸大映像学科の学生さんたちに言っておられたことと同じですね。今はスマホでも映画が撮れる時代ですが、“温故知新”は今でも有効だと思います。3年前に参加したアジア国際青少年映画祭で、中国では日本が映画全盛だった1950年代の日本映画シナリオもよく読んで学んでいると聞きました。翻って今の日本の若者で、映画を作ろうとしている人々のどれぐらいの人が、名作と呼ばれた過去の作品を学んでおられるでしょうか。

話が脇に逸れたので、本地先生の話に戻しますと、当時はビデオが登場する前ですし、東京の名画座でもせいぜい数年前の作品を上映という時代。古い映像を観ることは困難だったことから、「それならば」と、古い映画文献にあたって勉強を続けられました。やがて古本の世界に引き込まれていくうちに、映画の世界ではなく映画史研究の道へ。途中何度も挫折があったそうですが、「ずっと続けてきたのは映画の勉強だ」と思い直して、今日に至っておられます。その研究の積み重ねの恩恵に私どもはあやかっています。

今思い出しただけでも「生誕110年 山中貞雄」展(2019年9月25日~11月10日)、「第四の巨匠 映画監督成瀬巳喜男資料展」(2020年6月3日~28日)、そして今回の「川喜多長政と中国」展で、貴重なコレクションをお貸しくださって充実した展示にすることができました。5月22日の催しに参加いただいた明治大学のローランド・ドメ―ニグ先生が「とてもいい展示だ」と褒めてくださったのも、ひとえに本地先生と公益財団法人川喜多記念映画文化財団様のおかげです。改めて御礼を申し上げます。本地先生には、他にも折々に知恵袋として助言を頂いたり、貴重な資料をお貸しくださったりと助けて頂き、本当にありがたい存在です。

もう一つ、おじいさまのペンネーム“亀屋原 徳”に興味があったので、その由来も尋ねてみました。本名は本地正輝(まさてる)で、1898 (明治31)年6月生まれ。母方の祖父亀谷(かめや)徳蔵に因んだものだそうです。1932(昭和7)年劇作をされるようになってからのペンネームですが、それまでは濵丘浪三(はまおかなみぞう)のペンネームで、少年少女小説を多く著し、人気作家でした。7歳で母を亡くされたこともあり、生涯母への憧憬を抱きながら“文筆渡世”を続け、晩年はラジオ・ドラマも多数手がけられましたが、晩年というにはあまりに早く1942(昭和17)年に43歳で病死されました。

さて、本地先生のお父様についても教えて頂きました。“本地盈輝(えいき)”は、昭和30年代から十数年にわたって朝日新聞の演劇記者を務めますが、飲酒が過ぎて脳卒中で倒れてからは、左手で字を書く練習を重ね、フリーの劇評家“ほんち えいき”ととして活躍されました。このお父様もまだまだお若い64歳でお亡くなりになりました。

眼鏡でくわえ煙草姿がお父様の“本地盈輝”。その右に宮城まり子、肩を組んで笑っておられるのが越路吹雪、その左が水谷良枝さん(現・八重子)。特に仲が良かった女優さんたちだそうです。

左端の立膝姿が“本地盈輝”。左奥が森繁久彌で、おじいさまのお芝居に何度も出演されました。向かいの奥が作家の有吉佐和子、右端は劇作家の菊田一夫。いずれの写真も凄い顔ぶれですね‼そういったご家庭(入江さん曰く“サラブレッド”)で育った本地先生が5月22日「日本に映画を持ち込んだ男たち」のトークイベントをどのようにご覧になったのか、早速その振り返り記事をご紹介します‼

………………

「おもちゃ映画ミュージアム」のいち日が、やがて歴史となる…

本地陽彦(日本映画史研究家)

 日本映画史研究の歩みを振り返ってみると、それは決して「豊かな流れ」として歩んで来た訳ではないことを、恐らくはこの「流れ」に身を投じた誰もが感ずることだろう。映画というものが、大衆芸術、大衆文化、と言われながらも、実は「大衆」という存在そのものが何とも頼りないものであり、自らの文化、芸術に対しては、同時代にひたすら身をゆだねるに任せて、その出自、否、少し前のことでさえ、振り返ることもせずに、ただそこにあるものとして受け止めて来た。それでこその「大衆芸術」、「大衆文化」である、とも言い逃れることは簡単ではあろうが、しかしまた、やがては過去を振り返ろうとする時代が来たときに、その足跡を記録に留めようとすれば、人々の記憶だけに頼る訳には行かない。ひとりの記憶は、ひとりの歴史ではあっても、それが大衆の誰もが認める公的な記録、事実として説得し得るもの、とは残念ながらなり得ないだろう。だからと言って、個々の記憶の全てを排除してしまうことも、記録に確実性の保証されない時代であってみれば、それもまた危険な判断でもある。

 幸いにも、日本の映画史を追求する歩みもまた、ひとりの記憶には頼れないことに気付いた研究者、即ち公的な事実を明らかにしようとする少数の人物によって、それは「歴史」としての確立、或いは確立への試みとして歩んで来た。個々の当事者の記憶を手掛かりにして始まったその研究も、その裏付けをどこに求めるのかという挑戦に始まったものの、しかし冒頭に述べた通り、着実に歩みを積み重ねて来た、とまでは言い切れない。この分野の優れた研究者のひとりである吉田智恵男氏は、「日本映画史の研究は、映画ジャーナリズムの脚光を浴びることのない地点で、少しづつ進められている。いわば地下水のようなものである。この流れは、時たま、地上に現われ、人々の関心を引く。しかし、すぐまた地下に入ってしまう。地表に出ても、気まぐれに出来た水たまりぐらいにしか見られない。しかし、耳をすますならば、遂には大河にそそがれる運命をになった小流が、いくつか合流し、小川となって流れ続ける、せんかんとした水音を聞きとることは出来るであろう。」と、その歩みをこのように書いた。つまりは、悔しさ、歯痒さの中にも、一縷の望みを書き留めたのである。

 その吉田氏の文章から半世紀を過ぎる2022年5月のいち日、おもちゃ映画ミュージアムに、日本に映画、否、活動写真をもたらした、荒木和一、稲畑勝太郎、河浦謙一という3人それぞれの研究に取り組む、武部好伸、長谷憲一郎、入江良郎の各氏が一堂に会して、その研究成果を披露した。そして、この企画の着眼点の素晴らしさを証明するかのように、荒木、稲畑、河浦それぞれの親族や深く関わる方々までが会場に駆け付けた。

 加えて、研究者たちの発表する内容もまた、地下水の流れの如くに受け継がれて来たその成果を、更に大きな流れへと「合流」させるに充分な水量を蓄えたものであった。遂に、再び地下へと隠れ入る恐れもない水量の流れが、小さなミュージアムから溢れんばかりに眼前に広がったのである。

 個人的なことを記すことが許されるなら、初期映画史研究の第一人者であった塚田嘉信氏に出会って親しく指導を仰いだ日からも、半世紀に近い日が過ぎようというそのいち日に、私もまた、歴史研究の小流がみるみると大きな流れに広がってゆくのを、この会場の片隅で目の当たりにして、驚きと同時に、歴史が動くその瞬間のときに参加したことを喜ばずにはいられなかった。ようやくにして、大衆芸術、大衆文化である映画の歴史研究は、正しく歴史対象として捉えられ、語られる時代が来た、まさにその「いち日」だった、と言っても過言ではないだろう。

 紹介した吉田智恵男氏は、その文章を次のように結んだ。「いつの時代でも、映画ジャーナリズムは、こういう類の仕事に、本気になって手をつけたことがない。映画が斜陽産業である時にも、殷賑(いんしん)産業であった時にも・・・。」と。だがしかし、今、この仕事は映画ジャーナリズムと関りがあろうが、なかろうが、そして映画産業の斜陽や殷賑にも左右されることなく、それはひとつの歴史研究として独立した歩みを確実に進み出したのである。

 いずれは、今日のおもちゃ映画ミュージアムのこのイベントが、「あの日から、日本の映画史研究も、誰もが認める更なるステージへと大きく踏み出した」と、語り継がれることになるだろう。付け加えれば、それは、「おもちゃ映画ミュージアム、畏るべし」という形容詞と共に…。

 

 ※吉田智恵男氏の文章は、塚田嘉信氏編著『映画雑誌創刊号目録(昭和篇)』(昭和40年10月刊)収録の、「「映画雑誌創刊号目録」によせて」から引用しました。

遠くからお越しいただいて恐縮でしたが、本地先生から素晴らしいお言葉を頂戴出来て本当に良かったと思います。何だかもったいないような面はゆいような気がしますが、とっても嬉しいですし、やって良かったと心底思います。それもこれも登壇して下さった皆様、お忙しい中集まってくださった皆様方のおかげです。ありがとうございました!!!!!

先生から翌日頂いたメールに「師の塚田嘉信さんにも、『着実に初期映画研究は進んでいますからご安心ください』と我がことのように報告できます。」と綴られていたことを最後にご紹介してPart3を終えます。

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