おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2022.06.05column

5月22日開催トークイベント「日本に映画を持ち込んだ男たち~荒木和一、稲畑勝太郎、河浦謙一~」の振り返り~Part4

5月22日に開催した「日本に映画を持ち込んだ男たち~荒木和一、稲畑勝太郎、河浦謙一~」の振り返り~Part4 は、お客様としてご参加いただきました毎日放送元プロデューサー大牟田聡さんです。

私自身は開館してから知り合いましたが、連れ合いは毎日放送テレビ番組で古川ロッパ遺作となった『ロッパの水戸黄門』シリーズ作品を発見したことから、大牟田さんの取材を受けて知り合いました。大牟田さんは、当時同局ニュース番組のプロデューサーでした。ロイド眼鏡で有名な古川ロッパは、このシリーズ撮影中は闘病中で、結局、最終回が放送される11日前の1961(昭和36)年1月16日に57歳で亡くなっています。

古川ロッパ『水戸黄門』シリーズ全13話の16ミリフィルム発見の話題は各紙で大きく報道されました。参考に2011年5月26日付け読売新聞夕刊記事を貼ります。

今、ネット検索していたら、当団体正会員でもある羽鳥隆英・熊本県立大学准教授(当時は早稲田大学坪内博士記念演劇博物館助手)の記事が目に留まりました。羽鳥さんは連れ合いが長く牽引していた「映画の復元と保存に関するワークショップ」に幾度も参加されていたこともあり、連れ合いとは顔なじみ。その彼に「古川ロッパの資料を多く集めている早稲田大学演劇博物館で一括して保存すべき」と持ち掛け、劣化が進行しているこの全13話を修復保存することを勧めました。結果的に「美術館・歴史博物館重点分野推進支援事業」に採択された同演劇博物館によってデジタル保存されました。草創期のテレビ映像の残存率は皆無に近いそうで、この取り組みは大変意義あることでした。

大牟田さんは、これまで幾度も当館の催しに来てくださりFacebookで素早くその日の振り返りを書いてくださるので、私は大いに助かっています。今回もたくさんの写真を添えて22日のうちに公開してくださいました。武部さんも仕事が早いですが、大牟田さんもしかり。お二人とも報道畑で培った腕は確かです。

それでは、大牟田さんの振り返り記事を、ご紹介します。

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大牟田 聡(毎日放送元プロデューサー)

お互い映画好きだったことから親しくなった武部好伸氏は、知り合った頃は読売新聞の科学部記者だった。その後、映画やケルト文化について健筆をふるう彼が調べ上げたのが“日本映画事始め”。映画史から忘れられかけていた荒木和一という明治の若者を掘り起こし、日本の映画の起点は、神戸でも京都でもなく大阪・難波だったのではないかと指摘した。さらに武部氏は事実に基づいて想像力を膨らませ、荒木和一の活躍は小説『フェイドアウト』として上梓される。エジソンと直談判し、ヴァイタスコープ輸入を成功させた若者の冒険譚だ。

そして『フェイドアウト』内で、荒木と並ぶ存在として描かれたのが、ほぼ同時期にフランス・リュミエール兄弟の映写機を輸入した京都の実業家、稲畑勝太郎だ。現在駿河台大教授を務める長谷憲一郎氏は、稲畑が残したリュミエール兄弟への手紙の写しを発見した。それは間違いなく彼がリュミエール兄弟と独占契約を結んでいたことを証明する手紙だった。

さらに国立映画アーカイブ主任研究員の入江良郎氏は、その後日活の前身となる映画会社を立ち上げた河浦謙一について研究を続けている。

興味深かったのは、「1897(明治30)年」という同時代性。長谷教授が、「興行」という視点から時系列で並べてくれたが、この年の2月15日に大阪南地演舞場で稲畑勝一郎輸入のシネマトグラフが使われ、2月22日には大阪新町演舞場で荒木和一輸入のヴァイタスコープが、3月6日には神田錦輝館で新居商会輸入のヴァイタスコープが使われ、3月9日には横浜湊座で吉澤商店(河浦謙一)が輸入したシネマトグラフが使われスクリーン上映されたというのだ。

わずかひと月足らずの間に、まるでシンクロニシティのように各地で映像が幕に映し出されたのだ。世界に追いつかんとする、明治の若者の意気込みがそこからだけでも感じとれるではないか。

この日は、報告者3人がそれぞれ調査過程で見つけた戦前のホームムービーなども紹介され、荒木和一や稲畑勝太郎の動く映像や、日本映画草創期の無声映画も上映された。長く忘れられていた「荒木和一」「稲畑勝太郎」の活き活きとした姿が再現されたのだ。

もちろん誰が最初に「映画」を日本で上映したかという映画史的な興味は尽きないが、ほぼ同時期に海外に目を向け、映写機を相次いで輸入して上映しようとした男たちの熱い思いが、壇上の武部氏、長谷氏、入江氏に乗り移ったかのようだった。

そして会場には荒木和一の曾孫や稲畑産業の関係者、河浦謙一の係累の方もお出でになっていたのだ……!奇跡のようなこのシンポジウムに、東京から駆けつけた映画史研究の第一人者のひとり本地陽彦氏の言葉が忘れられない。

――「日本映画史研究の画期的な瞬間の、私たちは目撃者だ!」。
映画史の先行研究を踏まえた上でそう語った本地氏の言葉に、私も深くうなずいた。

おもちゃ映画ミュージアムの太田米男館長、文代さんが取り組んでこられた映画草創期研究のひとつの成果が、その時間違いなく大きく花開いていた……と思う。

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以上大牟田さんがFacebookで用いられた写真とともに紹介しました。大牟田さんがメモしてくださった本地先生の最後の言葉「日本映画史研究の画期的な瞬間の、私たちは目撃者だ!」は、22日一番の言葉だったのではないかと私は思います。そして、その言葉を受けた大牟田さんの最後の言葉「映画草創期研究のひとつの成果が、その時間違いなく大きく花開いていた」も素敵です。心に残る名セリフを聞かせてくださったお二人に感謝申し上げます。

言葉に酔いしれているうちに、大牟田さんのアップの写真を撮り忘れ。中央の黄色のシャツを召しておられるのが大牟田さん。

打ち上げ会場の「あみたつ」での様子。こちらの写真の方が大牟田さんの優しい人柄が伝わるでしょう💗大牟田さん、いつも本当にありがとうございます!!!!!

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