おもちゃ映画ミュージアム
おもちゃ映画ミュージアム
Toy Film Museum

2022.06.23column

“川喜多長政”が繋いだ国際的な交流

6月9日付けブログで、今現在、国内で研究しておられる海外出身研究者の皆さんとの出会いを書きました。そのうちのお一人、韓燕麗・東京大学大学院教授から届いた著書を遅まきながらご紹介します。『ナショナル・シネマの彼方にて―中国系移民の映画とナショナル・アイデンティティ』(2014年、晃洋書房)で、関西学院大学経済学部准教授時代の出版です。

韓先生との久しぶりの再会から、一気にその間の空白を埋めるかのように交流が続き、8月には川喜多長政率いる東和商事映画部が1938年に作った『東洋平和への道』を東京の国立映画アーカイブで一緒に観る計画です。監督は鈴木重吉なので、監督次女の志村章子さんにもお声がけして一緒に拝見します。

最近志村さんはFacebookを始められましたので、私がアップする記事に、壁に飾っている『何が彼女をそうさせたか』(1930年、帝キネ)のポスターが写り込むのを楽しみになさっています。鈴木監督は傾向映画の代表作と評されるこの作品の監督なのです。

アメリカで『新しき土』(1937年、監督:アーノルド・ファンクと伊丹万作)の宣伝を終えて帰国の途中で、7月7日盧溝橋事件が起こったことを知った川喜多は日本に帰ってすぐ、日本と中国に関する映画製作を模索します。中国のことをよく知っているだけに、日本が広大な中国に侵攻したなら終わりのない道に向かうことを作品で示唆したいと考えたのです。物語は戦争で家を失った農家の中国人若夫婦と農村出身の日本兵との間に友情が芽生えるというもので、川喜多の思いを引き受けた形での内容ではないかと思うのですが、興行成績は振るわなかったようです。日本側にとっては当時求めていた日本兵の勇敢な姿が描かれていなかったこと、一方の中国側にとっても侵略した日本兵を敵ではなく友人として描いていることが侵略戦争を賛美していると解釈されたことによります。

今展示してしている『東洋平和への道』(1938年)のポスターは、とても美しいです。そこには「日華協同製作 東和商事映画部第1回作品」とあり、出演はほぼ無名の徐聰、白光、仲秋芳ほか。志村さんがご家族からこの作品について何か聞いておられたら良いのですけれど、もう84年前のことですから難しいかもしれませんね。ともあれ、志村さんとお会いするのを今から楽しみにしています。韓先生ともですが、川喜多長政が繋いでくれた再会の場になります。

さて、最初に載せた韓先生の本は、中国本土以外の場所に居住する中国系移民によって製作された“中国語映画”を研究対象としています。1930年代初頭から海外で生活する中国系移民が比較的安定したアイデンティティを構築できた1970年代初頭までを考察の対象期間とし、その間には、19日にご覧いただいた『おもちゃ映画で見た日中戦争』で描かれた時代と、それに続く太平洋戦争、第二次世界大戦直後の中国の内戦や朝鮮戦争もありました。研究の主眼は、中国系移民が製作した映画を作家の芸術作品として検討することにではなく、映画を歴史的なコンテキストの中に位置付けることで、その一つに川喜多長政の「中華電影」で最初の配給作品となった『木蘭従軍』(1939年)や『萬世流芳』(1942年)などのプロデューサーを務めた張善琨を取り上げています。詳しくは「第2部終戦篇―動揺するアイデンティティ」の「第2章香港製の『国産映画』と二種の『中国国民』」の「第2節上海から香港へ、そして東京へ」と「第3節『蝶々夫人』-蝶々夫人と中国人の恋」(80-92頁)に書いてあります。いわば今回の展示の続編のような位置付けになりますね。

1944年の終わり、張善琨は日本の憲兵隊によって逮捕され、川喜多は彼の救出に尽力します。張善琨は中国側に漢奸と見做されないよう重慶政府とも密かに連絡を取っていたのが発覚したからです。29日間の投獄後釈放された張善琨は川喜多に手紙を残して家族とともに上海から香港に逃亡します(国民党政府のスパイ説もあるそうです)。川喜多は反対する声もあった中、張善琨が上海からいなくなった後も残された張の老母のために給料を送り続けていました。

1951年張善琨は「香港新華影業公司」(新華)を設立し、北京語映画を製作する右派の中堅として活躍しますが、国民党政府の歓心を買うことができる抗日をテーマにした映画は1本も作らなかったそうです。逆に1955年4月からの2年間、「新華」のスタッフを率いて来日して10本の映画を製作しています。そこには1955年カンヌ国際映画祭で再会を果たした川喜多長政の姿がありました。

敗戦後、川喜多長政は山口淑子が日本人であることを証明するのに尽力した話は前回書きましたが、川喜多自身も、身の潔白を明らかにする証明書を張善琨が提出したことで命が救われました。川喜多長政と張善琨の二人は、まさしく刎頸(ふんけい)の交わり(中国の戦国時代に趙で活躍した、藺相如と廉頗が残した故事にちなみ、 たとえ首を斬られても悔いないほどの深い友情で結ばれた交際のこと)を結んでいたのです。

この10作品などについては、ぜひ韓先生の本をお読みください。当館で見本を展示していますし、販売もしていますのでお気軽にお声がけください。

もう1冊展示と販売をしている本のご紹介です。山口淑子が1987年に書いた『李香蘭 私の半生』(新潮社)を金若静さんが繁体字で訳した香港版『在中國的日子 李香蘭‥我的半生』。出版したのは香港の百姓文化事業有限公司で1988年12月のこと。19日の参加者の中に中国語が得意な方がおられて、早速勉強用にと買い求めてくださいました。

5日には韓先生の教え子の中国と台湾出身の東京大学大学院生二人が来館して下さいましたが、10日にも韓先生と知り合いの陳智廷さんが来館。台北出身で香港浸會大学の先生です。戦前の上海映画を研究されていて、今は大学の資金を獲得して名古屋大学を拠点に数か月日本で調査をされています。当館には、東京の川喜多記念映画文化財団和地由紀子さんの紹介で来館。展示には同財団から借用している資料が多くあることから関心を持たれたようです。6月14日~7月1日まで川喜多記念映画文化財団で「異文化コラボレーションとアジア間アイデンティティ:戦時上海と戦後香港の歌舞映画、1931年~1972年」をテーマにアーカイブ調査を実施されます。その中には、1955年張善琨がプロデューサーを務めた香港製映画『蝶々夫人』のことも含まれているのかなぁと思ったりして。

左端が陳智廷さん。右端が通訳で一緒に来てくださった大連出身の京都精華大学メディア表現学部助手の朱芸然さん。朱さんはアニメーション作家です。陳さんから丁寧な英語のメールが届きました。

…………It was such a pleasure to visit Omocha eiga Museum and meet you. I think our meeting and all the connections truly embody the spirit of international exchange in the Kawakita Nagamasa and China exhibition.…………

「『川喜多長政と中国展―映画の交際交流を求めて』のタイトルの通り、私たちの繋がりが、国際交流の精神をまさに体現していると思います」と書いてくださったのがとても嬉しいです。私どももお会いできたことを嬉しく思っています。川喜多記念映画文化財団の和地さんにもご紹介いただいたことに御礼を申し上げます。この度の展示では和地さんに本当にお世話になりっぱなしです。

そして、こちらは京都芸術大学大学院生の仲良し3人。左から湖北省出身の李韻秋さん。とても美しい方で、毎年夏に富山県の利賀村で開催される演劇祭の「世界の果てからこんにちは」に今年も出演されるのだそうです。真ん中は奥田知叡さん。今回の展示の契機となった小冊子7『川喜多長政と中国-映画の国際交流を求めて』を執筆して下さった高橋伸彰さんが卒業された中国戯劇学院の後輩。右は北京出身の田詩陽さん。時間の経つのも忘れてたくさんのお話をしました。楽しい出会いでしたので、再会できると嬉しいです。「コロナ後の日中関係と自分の立ち位置について考える良い機会になりました」「学んだことをこれから友達に伝えていきます」と感想を貰いました。

最後に韓先生から頂いたメールをご紹介して締めくくります。

「おもちゃ映画ミュージアムの今回の展示は日本とは限らず、数多くの日中映画関係の研究をしている人々を惹きつけましたね!やはり素晴らしい企画です!」

展示は26日(日)までです。ロシアによるウクライナ軍事侵攻が長引き、余りの戦争のむごたらしさを前に、一日も早く平和が戻ることを願うと同時に、「相互理解が何より大切だ」と気付かされている今、川喜多長政の生き方を一人でも多くの方に知って頂きたいです。ご来場をお待ちしております‼

記事検索

最新記事

年別一覧

カテゴリー