おもちゃ映画ミュージアム
おもちゃ映画ミュージアム
Toy Film Museum

2022.06.22column

6月19日特別上映『おもちゃ映画で見た日中戦争』の振り返り

5月4日から始まった「川喜多長政と中国-映画の国際交流を求めて―」もいよいよ次の日曜日までです。今回の展示には、オーストリア、中国、韓国、台湾、香港など海外から日本にきて研究しておられる幾人もの方が足を運んでくださり、「いい展示だ」と褒めて頂きました。展示のサブタイトルに「映画の国際交流を求めて」と付けましたが、この展示が小さくても、そのひとつの実践の場になったように感じられて嬉しく思っています。

一方、日本の方は「川喜多かしこの名前は聞いたことがある」という印象ですが、ご主人の“川喜多長政”については余りご存じじゃないようです。国際映画事業の経験が豊富で、内外の映画事情に精通し、中国語、英語、ドイツ語、フランス語に堪能なインターナショナルな映画人です。『映画百年 映画はこうしてはじまった』(読売新聞文化部編、キネマ旬報社、1997年)の「『羅生門』のグランプリで脚光」の項目には「川喜多氏が先駆的役割 国際映画祭」と小見出しが付いています。この項を執筆された土屋好生さんの文章を参考にすれば、1951年黒澤明監督の『羅生門』がベネチア国際映画祭でグランプリを受賞して以来、日本でも国際映画祭がにわかに脚光を浴びます。が、それより先の1938年川喜多長政によって田坂具隆監督『五人の斥候兵』と清水宏監督『風の中の子供』がベネチア国際映画祭に出品されています。国際賞に関しても、この「五人の斥候兵」がベネチア国際映画祭において「イタリア民衆文化大臣賞」を受賞。これが国際賞の最初でした。

遡って言えば、1928年25歳で東和商事を設立した翌年に川喜多は溝口健二監督『狂恋の女師匠』を欧州各国に売り込んでいます。「映画を通して日本を理解してもらいたいとかしこさんと共に常日頃から映画祭の重要性を繰り返し話していた」と身近でご覧になっていた方の証言も土屋さんの文章に載っています。

今回展示している日経新聞連載『私の履歴書』⑥(1980年4月8日付け)に、20歳で留学先のドイツで『マダム・バタフライ』を観たときに、日本に対する理解のなさがとても辛く感じられ、「映画が最も効果的に、お互いの人情、風俗、習慣、一般文化を紹介するのに適している」と悟り、「自分は映画の仕事を通じ、東西間の文化交流、理解の助長に尽くしたいと考えた」と綴っておられます。

これら良く知られた名画のポスターは野口久光が描いています。東和商事(後に東和映画、東和、現在の東宝東和)の社員として活躍していた時代の作品です。

『肉体の悪魔』、原節子が出演した『新しき土』も野口久光が描いています。『新しき土』はドイツのアーノルド・ファンクと伊丹万作との合作でスタートしましたが、意見が対立し2本のフィルムができて膨大な費用が掛かったそうです。他にも美しいポスターの数々を川喜多記念映画文化財団様からお借りして展示していますので、ぜひ間近でご覧になってください。中でも伊藤達雄が描いた『木蘭従軍』や画家の名前はわかりませんが、鈴木重吉監督『東洋平和の道』のポスターはとても美しいです。

このように優れた外国映画を輸入して、日本に紹介した川喜多の業績は多大です。かしこ夫人も夫とともに日本の優れた映画を海外に積極的に紹介したり、世界の映画祭の審査員もされるなど“マダム・カワキタ”は世界の映画人から尊敬されました。また、映画文化を振興する専門機関の必要性を説き、それが現在の国立映画アーカイブや川喜多記念映画文化財団に繋がります。

多くの業績を残した川喜多ですが、今回はテーマを「川喜多長政と中国」に絞りましたので、1939年3月に中支派遣軍参謀高橋大佐の要請を受けて、6月27日“中華電影”を設立して以降の彼が関わった資料を展示しています。就任に対し川喜多が軍に出した条件は「軍がやたら口を出さず、ある程度思うまま運営を任せて欲しい」というもので、実際、国策の映画会社“満映”とは正反対に、中国人スタッフによる中国人のための映画製作を太平洋戦争に突入した後も可能な限り貫きました。

とは言え“満映”のトップ女優“李香蘭”を出演させて、国策に照らした内容の映画共同製作を“満映”から持ち掛けられ、検討せざるを得なくなって作ったのが『萬世流芳』(1942年、南京条約100周年記念作品)です。“中聯”(中国映画会社の統合組織)の会長は汪兆銘、副会長は川喜多長政で、三社合弁での製作。このポスターも野口久光が手掛けています。

中華電影と川喜多が中国映画人社会で絶大な信用を獲得した『木蘭従軍』(1939年)同様に、“借古諷今”(過去を借りて、現在を批判する)の手法で描いた作品で、日本人から見れば阿片戦争で中国の植民地化を狙う英国に抵抗する“鬼畜米英”の話になりますが、中国人からみれば日本の侵略と闘うレジスタンス映画として受け止めることができました。川喜多と製作総指揮を執った中国映画界の大御所張善琨が練りに練ったアイデアでした。映画は大ヒットし、彼女が歌った「売糖歌」のレコードも大ヒットしたそうです。

彼女が綴った『李香蘭 私の半生』(1987年、新潮社)によれば「上海映画界で最も親日的といわれた張氏ですら抗日映画人だった。彼は、自分が関与した作品すべてについて密かに重慶政府の事前検閲を受けていた。そのことを川喜多さんは知っていたらしい。また川喜多さんが知っていることを張氏も知っていたらしい。この二人がいたからこそ、戦時下の日本軍占領地域で中国映画の火をともしつづけることができたのである。もちろん、現在の中国政府は『萬世流芳』をはじめ日本の息のかかった当時の映画を認めていない。けれど極限状況のなかで、良心ある人間が精一杯の努力を傾けた事実を知る人は多い」(264-265頁)

ビデオメッセージを送ってくださった蔡剣平さんによれば「川喜多は中国では批判の対象だったが、佐藤忠男が『キネマと砲聲-日中映画前史―』を書いて以降少しずつ変わっていている」と仰っていましたが、展覧会期間中、中国をはじめとする若い研究者が熱心に見に来てくださったのが、何よりもその変化を示していると思います。

李香蘭は佐賀県生まれの山口文雄、福岡県出身アイの長女として1920年2月12日に旧満州の旧奉天近郊で出生。漢学者だった祖父の薫陶を受けて文雄は中国語を学び、1906年大陸に憧れて中国に渡っています。“李香蘭”こと山口淑子が中国の標準語・北京官話を話せるようになった基礎教育は父親から受けたものでした。アイの一家も撫順にいる叔父を頼って中国へ渡り、そこで両親が出会って結婚します。母親の教育方針は厳しく、行儀作法だけでなく、撫順にあった東本願寺撫順別院に下宿している学生のところへ勉強に通わされたそうです。

『李香蘭 私の半生』を読みながら、何か東本願寺について書いてないだろうかと探しましたが、見落としの可能性もありますが、見つかったのは上記の部分(25頁)だけ。けれども、東本願寺大谷光暢法主(1903-1993)と智子夫人(お裏方。1906-1989)の写真が2枚載っていました。

大谷光暢法主(後列左二人目)と智子夫人(前列左三人目)。なお、法主の右隣は華北地方政界の大物藩毓桂氏、その前に座っておられるのが東娘夫人。中国では家族同士が親しくなると義理の血縁関係を結ぶ風習があるそうで、14歳の山口淑子は父の親友の藩氏の養女となり、藩淑華と名乗ってこの家から翊教女学校に入学します。何年に撮影されたかはわかりませんが、おそらく北京の藩氏邸での記念写真。

これもいつ撮影かはわかりませんが、前列が大谷光暢法主と智子夫人。後列左が父の山口文雄、山口淑子と妹の清子さん。大谷法主家と山口家が親しい間柄だったことがこの写真から伺えます。なぜ、私がこの2枚の写真に拘ったかというと、19日は特別に、真宗東派本願寺(京都市右京区嵯峨鳥居本)大谷光道法主のご協力で、現在の真宗本廟(京都市下京区常葉町)境内で“李香蘭”が『荒城の月』と『何日君再来』(ホウルウテュンツァイライ)を綺麗な声で歌っている映像を初公開していただいたからです。

きっかけは2017年4月20日の京都新聞夕刊記事です。朝日新聞も同年5月18日付け大阪夕刊11面で報道しています。日本の敗戦が決まった後、“李香蘭”は漢奸としてリストアップされ、「文化漢奸、李香蘭は、来る12月8日午後3時、上海国際競馬場で銃殺刑に処せられることになった」との新聞報道もあり、大きな注目を集めていました。しかし、川喜多長政の機転で、彼女の幼友達で白系ロシア人リューバを通じて、北京にいる山口の両親から戸籍謄本を取り寄せることに成功。上海での軍事裁判で日本人であることが証明され、無罪になります。川喜多長政とともに26歳の山口淑子は3月末に上海から引揚げ船“雲仙丸”に乗船し、1946年4月1日、九州の博多港に上陸することができました。川喜多長政は山口にとって命の恩人の一人だったことから、今回のテーマにもつながると思って、ダメもとで上映許可の手紙を書いてお願いしましたところ、1回限定で許可をいただいたという次第です。

「歌もうまいね」と言った人がおられましたが、当然のことで、最初は歌手からスタートしているのです。1932年に奉天放送局が開局し、同局の東敬三はラジオ放送「満洲新歌曲」(教宣文化活動の一環)に中国人歌手として山口淑子に出演依頼をします。北京官話が話せ、有名なオペラ歌手に指導を受けていた山口は“満洲国”同様、日本人の手によって1933年“李香蘭”としてデビューします。13歳の時のことでした。この中国名の由来は、父親と親交があった東北地方の軍事上の重要人物李蔡春氏の別邸に一家が住まいしたことから始まります。藩毓桂氏の場合と同様に、家族ぐるみの交際をする契りを固めるために名目上の養子縁組をして、李家の姓と父親の俳号“香蘭”を合わせて中国名“李香蘭”が誕生しました。なお、この有名なオペラ歌手に指導してもらえるよう尽力したのも小学6年の時たまたま出会って親しくなったリューバでした。

ご挨拶頂いた大谷光道様です。お父様の大谷光暢様は映画が大好きで、映画鑑賞サークル「真美会」を催され、一般公開されている映画と一緒に、オリジナル作品も上映されていました。6月7日に嵯峨本願寺を訪問した折、お父様がガリ版を刷って手作りされたパンフレットや自ら脚本を書かれたものなどたくさんの資料が保存されているのを見せて頂きました。各地を布教して歩かれた折の映像なども残っているようです。19日見せて頂いた映像にも「李香蘭独唱 満映スターコロムビア専属歌手」とタイトルにあり、智子さまが熱心に取り組まれていた合唱グループ「大谷楽苑」のピアノ伴奏者の演奏で歌う様子が35ミリフィルムで撮影されていました。

亡くなった私の母は熱心なお東さんの信者でしたので、きっと天国から見ていて驚いたことでしょう。私自身、手紙を書いておきながら、このような日が来るとは想像もしていませんでした。光道様は大変に穏やかで、気さくでお優しい方でした。ご縁に感謝感激です‼

この後、メインの『おもちゃ映画で見た日中戦争』を上映しました。3月15日世界初上映という触れ込みで上映したものに、少し手を加えて編集し直しました。1点は日露戦争がなぜ中国で行われたのかを追加説明したこと。2点目は悲惨だった第一次世界大戦の経験から列強が覇権主義や帝国主義をやめ、国家間の安全保障と軍縮を話し合うための最初の国際機構「国際連盟」を創設したことに触れたことです。残念なことにドイツ、日本、イタリアがこの「国際連盟」を無視し、第二次世界大戦に進んだわけですが、2月24日に突如始まったロシアによるウクライナ侵攻が長引き、世界史の針が巻き戻ったかのような惨状に世界中が胸を痛めています。今こそ国家間の話し合いが大切で、「国際連合」が失敗しないことを願うばかりです。

用いたのは、劇場で上映後に切り売りされたプロパガンダ映画(実写とアニメーション)や、新聞社がプロパガンダ用に撮影した記録映像(事実を伝える目的で、敵対していないときに再現して撮っています)、戦中にホームムービーとして個人が記録した映像など約50作品です。新聞社が撮影した映像は戦後証拠とならないよう処分されたのがほとんどですが、家庭用に販売されたことで今に残った貴重な映像です。家庭で見ていたといっても、どこの家にでもあったわけではなく生活に余裕がある家でのことですが。占領して「バンザーイ」をしている人たちは、映像を通して故郷にいる家族らに自分がいま生きていることを知らせる意味もあったことでしょう。その方たちが無事に帰国できたのか否かを考えると辛いものがあります。戦争は絶対にしてはいけないと改めて強く思います。

演奏は当館でお馴染みの天宮遥さんにお願いしました。「大砲の音などどう表現するのか」と連れ合いは勝手に心配していましたが、天宮さんは「敢えて大砲の音を用いるのではなく、全体としてのイメージで感じていただけるように演奏しました」と仰っていました。この作品の演奏をできることをとても喜んでくださったのが嬉しかったです。

恒例の集合写真です。皆様ようこそおいで下さいました。狭い会場のため、参加希望されてもお応えできない方が幾人もおられ申し訳なかったです。更なるブラッシュアップをして、海外の映画祭で上映を希望していますので、それが実現した後には広くご覧いただく場を設けたり、教育の場で活用してもらえたらと思っています。

 

今回、当館主催の催しで初めてのアンケートを実施しました。回答は16名で、そのうち20~30代が2名おられました。回答いただいた皆様、どうも有難うございました。感想を①良かった②どちらかと言えば良かった③どちらかと言えば良くなかった④良くなかったの4段階でお尋ねしました。回答者の中に海外からの留学生2名は含まれていないように思われますが、全て①良かったを選択してくださいました。

お書きくださったコメントから

・時間があっという間に経ちました。英語説明も大変分かりやすかったです。

・ピアノとマッチしてよかった。ありがとう。

・映像の収集ので(編集して)苦労が伝わった。

・南京虐殺の中国人の死者数は多すぎる。

・貴重な映像を一つのテーマにそって編集された。映画というものの語る力を見るように思いました。

・ストーリーではないので一貫している必要はないが、途中時系列が判らなくなった。伴奏は困難な作業だと拝察、でも素晴らしい。

・英語だけでなく、日本の周辺地域の言語でも発信してもらえたら、さらに良い。

・初めておもちゃ映画を見たのですが、映像の豊かさに驚きました。『日中戦争』は改めて教えられた感じがします。「山中貞雄?」にはびっくりした。

・画面の情報量が膨大なので集中力が要りますが、貴重な労作再拝見(3月15日に続いて2回目)。ありがたかったです。更なる改訂版を見ることができるかもですね。依然侵略戦争続くこの時勢、タイムリーなのが良いことなのかどうか。満洲侵略日中戦争、軍国主義その成れの果てまで子細に教えていただきました。おもちゃ映画で見る記録映画・アニメーション・ホームムーヴィー。やはりどれも見ごたえありますね。

メールで辛口のコメントも貰いました。

・全体として、映像は、当時の小国民向けのプロパガンダ映像でした。ですから、このままで中国の方々に理解が得られるとは思わないほうがいいかと思います。

このコメントをふまえて、今日来館の中国からお越しの留学生2人と中国留学経験がある若者3人組さんに、19日の映像(ピアノ演奏なし)を見て貰いました。事前にここで用いたフィルムがどういうものかを説明し、さらに言えば日本の歴史に関する教育現場の話にも触れ、見終わった後に感想をお聞きしました。

・子どもの頃から、日中戦争のドラマを見ているので、ある場面は今日見た映像と似ていて別段ショックは受けなかった。大変工夫した映像で、本当に多くの方々に見て貰いたい。

・中国では、毎日どこかのテレビ局で日中戦争をテーマにしたドラマをやっているので、それを見ている人たちと、日本に関心をもってやってきた人では見方が異なるかもしれない。

・日本人が加害者だった映像を直視した。太平洋戦争の映像は見る機会があっても、日中戦争はそうではないので貴重な経験になった。

・戦争映画は、悲劇的な反戦映画であっても、憎しみを生み好戦的な映画になってしまうこともある。難しい。二度と戦争はしてはいけないという姿勢が大切。

・いま中国では、『戦争と人間』など戦後作られた日本映画の一部が削られて見られなくなっている。

・これ以上情報量が多いと大変。字幕の漢字を読んで内容はある程度理解できる。

これまで幾人かの海外からのお客様に見て貰いましたが、直接感想をお聞きしたくてもそれができないでいましたので、今日の語りの場は参考になりました。長時間引き留めてしまう形になってしまいましたが、3人とも貴重な時間を過ごせたと言ってくださり、安堵しました。最後は国境ではなく、人と人の交流を大切にしていこうという思いで締めくくります。これこそが川喜多が目指していたことでもありますから。

 

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