おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2023.02.07column

映画評論家山根貞男先生の新刊『映画を追え フィルムコレクター歴訪の旅』

映画評論家山根貞男先生(1939年生まれ)の新刊『映画を追え フィルムコレクター歴訪の旅」が届きました。読みやすい文体であるだけでなく、「へぇ~、そんな人がおられたのか!」と登場人物に惹き込まれて、次へ次へと読み進み、昨日読み終えたばかり。その晩に山根先生と連れ合いが電話で話して、驚くことがあって、、、先ずは、この本を出版することに力を注がれた山根先生に敬意を表します。

そして、この中の「第四章 映画はさまざまに甦る」で「京都映画祭の復元プロジェクト」「玩具映画プロジェクト」「おもちゃ映画ミュージアム」それに尽力した連れ合いのことに触れて頂き、感謝申し上げます。上映写真は本の139頁に載せて頂いた2020年7月28日来館時に撮ったもの。その時の様子はこちらで書いています。京都映画祭復元プロジェクトでは企画委員の仲間として共に最善を尽くした同志です。

表紙にも用いられている小津安二郎監督『突貫小僧』を1988年フィルムコレクターの一人岡部純一さんが入手してからの騒動が第二章に綴られています。一報を聞いて駆けつけた岡部さんの家で内田吐夢監督の『天国その日帰り』も見せて貰って心底驚いた山根先生は、以降フィルムコレクターなる存在への関心が高まっていきます。そうして、最初に出会った神戸映画資料館安井喜雄館長らの案内で、1988年から1992年にかけて芋づる式にフィルムコレクターを訪ねます。それぞれのコレクターさんの個性が際立ち、全く赤の他人の視線で読めば、どの方のエピソードも本当に面白いのですが、それぞれの身内での視線となると、どんなもんでしょう。

「あとがき」の冒頭に「本取材ノートによれば、本書は当初、なんと、1990年末に刊行の予定で、それに合わせて『突貫小僧』上映会を催すことになっていた」とあります。偶然ですが、ここにあげた2作品とも当館開館後に寄贈して頂いたパテ・ベビー・フィルムの中から見つかっています。岡部さんが入手された『突貫小僧』に欠けていた部分も含むフィルム発見の第一報は2016年、山根先生宛てにしました。その知らせを受けて、どのような気持ちで受け止められたのかと思います。

これは昨年12月11日、小津安二郎監督をテーマに伊藤弘了さんが講演された折に、持参いただいたビデオブック。1994年2月に発売されて「それで騒動記は終了した」と思い出を綴っておられます(41頁)。

第一章で詳しく述べられている神戸映画資料館館長安井喜雄さんは、無声映画の16㎜フィルムから集め始めたそうですが、多くのフィルムコレクターは子どもの頃に見た「オモチャ映画」から始まっておられて…

1930年生まれのコレクターさんは、小学校5年ぐらいからオモチャ映画のフィルムを集め始め「短いので30フィート、長くて50フィート。50フィートで1円ぐらい。一日に1銭か2銭しか小遣いを貰っていない時代で高いオモチャだった」と語ります。

別のコレクターさんは1928(昭和3)年、小学1年の頃から集め始め「30フィートとか50フィートとかのフィルムで、1円50銭くらい。母親にねだって2円50銭の映写機を買うてもろて、50ワットの電球を入れて見た」と証言。。

1918年生まれのコレクターさんは1931(昭和6)年、上野の松坂屋で父親にオモチャ映写機を買ってもらったそうで、それには「試しに見るために大河内傅次郎の『荒木又右衛門』(1931年)が付いていた。35ミリのフィルムが30フィートで90銭。電車が1区5銭の頃だから、そんなに安いものではない」と証言されています。当館にある大河内の『荒木又右衛門』は、そうした1本なのでしょう。山根先生のインタビューのおかげで、当時の値段がわかります。なお1フィートは1尺で16コマで1秒。

無声映画時代のフィルム残存率が低いことについては、フィルムが高価だったことから乳剤を落としてから再度塗布して再利用したこと、可燃性のナイトレートは危険だからと廃棄された、戦争や自然災害で失われた、松竹下加茂撮影所などのように火災で焼失した、製品として残しておくと倉庫代や税金がかかるから処分したなどを挙げますが、一番の理由はそもそも映画を残そうとしなかった姿勢にあるといつも話しています。

山根先生のインタビューに答えたコレクターさんの中には「戦後はね、アメリカの進駐軍がフィルムを没収して、燃やしたもんです」というのがあり、また「徳島の人が何百本も35ミリのフィルムを河原で焼いたという話を聞きました。可燃性だから消防法の関係で」という証言や、「1946年5月に(戦地から)帰国するが、その直前、日本軍が倉庫一杯のフィルムを河原で燃やす話を聞いた」という証言もありました。

最も興味深かったのは、第五章で多くの紙幅を費やして書かれた「生駒山麓伝説のコレクター」安部善重さん。どこまでが本当で、どこからがそうではないのかが分かりませんが、面白かったです。その安部さんが山根さんに話したところによれば、昭和16,17年ごろの学生時代、軍部から委託を受けて銀幕を化学処理して窒化鉛を作り、それを起爆に使うための研究をしていたのがフィルム集めの最初だったとか。洋画は敵性国のものだし、娯楽映画は人心が腐敗する元だといって当時の陸海軍情報部からフィルムの提供を受けていたと話しておられます。

他にも活動弁士の長田猛虎が占領軍の指令で御法度になったチャンバラ映画のフィルムを集めて、それを溶液に漬けて表面の絵柄を剥がし、再生フィルムの原料を作っていて、それを手伝ったという証言も載っています。1948年頃のことだそうです。

再生フィルムについては、『大魔神』3部作で知られる名キャメラマン森田富士郎先生から「戦後大映京都に入ったころ、ぐねぐねカールしていて、酷い状態の再生フィルムを使わされた」と聞いています。大映ですら、そういう時代だったそうです。日本に戦前のフィルムが残っていない背景には、様々な事情があるようで、これからのお客様への説明も少々変えなきゃと思いながら読みました。

また、当館にも来館いただいたことがあるライオンのおもちゃ映写機を製造販売していた小池商店のことかもしれないと思いながら読んだ証言も興味深かったです。「フィルムは、子どもの頃、東京の浅草にオモチャのフィルムを売っている会社がありましてね。そこの目録にタイトルと値段が書いてある。それを買ううち、目録の仲間同士の欄を通じて、遠くの人とも手紙のやりとりをし、フィルムもやりとりするようになった(略)」と証言しているコレクターさんや、

「おもちゃ屋は浅草橋に固まっている」という子どもの頃の思い出を語った人の証言も載っています。小池さんは「製造したおもちゃ映写機を毎日浅草寺の出店まで運んだ」と話しておられましたし、絵の上手な学生さんにアルバイトで描いてもらった」とも話しておられました。浅草界隈には、小池商店の他にもどれぐらいのおもちゃ映写機やフィルムを販売している店があったのかしら?とも思いながら読み進めました。

もう一つ、「浅草仲見世の奥にあったカメラやで」と1939年東京生まれのコレクターの一人岡部さんが子どもの頃の思い出を語る場面は、「レフシー」のことだと思われて興味深かったです。「紙に印刷したオモチャのフィルムで、35ミリより少し幅が狭いけど、九ミリ半と同じようにコマとコマのあいだに穴があるものもあった。コマ送りをするためにひっかく穴が左右の端にあれば、紙だから破れやすいし、これのほうが画面が大きい。鞍馬天狗とか丹下左膳とかの断片を反射式で映して楽しむんです」と証言(45頁)。

日本独特の紙フィルムについて稲葉千容さんの先行研究によれば、1932年に東京の印刷所が考案し、同年から1934年に特許申請して製造販売。1933年9月までに大阪の「家庭トーキー」も実用新案出願をして製造販売していますが、時局から1938年に国内向け金属玩具の製造が禁止になり、セルロイドの生フィルムはもちろん、紙も貴重になってくるので製造不可能だっただろうと書いておられます。岡部さんの証言から「レフシー」が、1938(昭和13)年以降も流通していたことが伺われます。

ともあれ、1988年から各地のフィルムコレクターを訪ね始め、今年2月2日に上梓された『映画を追え フィルムコレクター歴訪の旅』、山根先生の好奇心と行動の成果が遺憾なく発揮されています。今、ご自身が当初計画された目的を完遂してきっと安堵されていることでしょう。本当にお疲れさまでした。この本は当館内でもお読みいただけるようにしますので、遠慮なくお声がけください‼

【2月22日追記】

今朝、ネットで山根先生の訃報を知り、絶句。「20日、胃がんのため横浜市の自宅で死去した。83歳だった。葬儀は親族で営む。」とのこと。とうとう、この日が来てしまいました😢2月6日の晩に山根先生と連れ合いが電話して、その折にご自宅で奥様の看護を受けながら闘病されているとお聞きしたばかりでした。まさか、こんなに早くお別れの日が来るなんて。。。先生から寄贈して頂いた『映画を追え フィルムコレクター歴訪の旅』(草思社)には、少年時代「おもちゃ映画」に夢中だった各地のコレクターさんの思い出が記してあり、私どもにとってはとても貴重な証言記録です。最後の力を振り絞って文字に残して下さったことに改めて御礼を申し上げます。これまでのご厚情に感謝し、心よりご冥福をお祈り申し上げます。合掌

2023 年2月23日京都新聞対向面掲載記事

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