2016.11.29column
勘亭流4代目井上優さん
28日午後は、毎日放送「ちちんぷいぷい」(13時55分~17時50分)の番組内で、正会員の井上優さんが紹介されると聞いていたので、今か今かとテレビの前にスタンバイしてソワソワ落ち着かず。結局放送されたのは16時ごろの「ニュースな人」コーナーでした。
11月お寺に籠って、京都・南座の吉例顔見世興行「まねき」を書いておられる井上さんを、番組の西 靖アナウンサーが取材。「文字を書いているというより、模様を書くように」等とお話しながら、井上さんは1枚を約20分で書き上げていました。
委託販売本『京都繁華街の映画看板“タケマツ画房の仕事”』によれば、1906(明治39)年、白井松次郎さんと大谷竹次郎さんの松竹合名会社傘下におさまった南座は、その年の12月に新装改築記念として顔見世興行を開きました。古く江戸時代から11月(後に12月)新たな役者連を紹介する興業として江戸、大坂、京の三都で行われていましたが、松竹が引き継いだころには、南座しか残っていませんでした。当初は字を書ける人がいず、提灯職人が書いていましたが、書家を探していた白井信太郎さんによって、大阪で勘亭流を学んでいた竹田猪八郎(雅号:耕清)さんが招かれました(当時23歳)。その竹田猪八郎さんが作り出した勘亭流の文字は、佐治克己(雅号:永清)さん、川勝茂(雅号:清歩)さん、そして井上さんに引き継がれています。
さらに、25日朝に南座正面に「まねき上げ」されるのを見届ける様子も取材して、勘亭流を引き継いで3年になる井上さんの活躍を放送していました。「干支が一巡するまで頑張って書きたい」と話す井上さん。
25日朝は師走の風物詩を取材する大勢のマスコミ関係者と見物人が詰めかけましたが、番組に見学する私共の顔が大写しされたのには、びっくりポン!でした。当日の様子は私のブログでも書きました。井上さんが「まねき上げ」を見たのは50年ぶりだそうです。そして、久しぶりに雨が降らなかった「まねき上げ」だとも。
「井上さんといつ知り合ったのかなぁ」と日記帳を繰っていたら、6月3日に書き込んでいました。その時の出会いをこのブログでも書いています。前回書いたマンス・トンプソンさんも、その時一緒に書いていて、お互い知り合って約半年になります。縁、出会いって面白いですね。
その井上さんにお願いして、義兄から貰った立派な板に「玩具映画博物館」を揮毫していただけることになりました。27日朝連絡があり「今日行きます」ということになり、急いで仕舞っていた板を引っ張り出して用意しました。ご本人も、私共も簡単に考えていましたが…
最初に取り出されたのは、ベビーパウダー。書く面全体に粉をはたきます。「板の素性がわからず、にじみ方がわからないから」だそうです。
物差しをあてて、デッサン用の木炭で割り付けをします。あっという間の作業。
筆に墨をたっぷり含ませて、下書きなど一切なしに、いきなり書き始め。
ところが、板の削りがあらいので、墨が沁み込みにくく、上から重ね塗りしてもなかなか埋まりません。滲み出る木の油も問題だということで、「玩」の1文字を書いたところで作業中止を決定しました。この日帰りに、「との粉」を買いましたが、どうすれば上手く書けるか研究しようということになって、この日は終了。話を聞きながら、キーワードは「素性を知る」ということだなぁと思いました。材質もわからないまま、お願いした不手際を反省しました。井上さんも、「いずれ再挑戦を」といってくださいましたので、首尾良くいった暁には、皆さまにご覧いただきますので、もう暫くお待ちください。
このあと、50年前に井上さんが撮影された竹田猪八郎さんの「まねき」書きの映像と、「タケマツ画房」二代目竹田耕作さんが撮影された、若き日の井上さんが看板に文字を書いておられる映像を見せてもらいました。共に8㎜モノクロ。改めて、動画で見られるって凄いなぁ、貴重だなぁと思いました。
なお、墨作りについて以前見学したことがあり、私のブログに書いています。この文中に「耳削り」の文言が出てきますが、墨を型に入れて削った時の墨屑が、「まねき」を書く時に用いられる「削り墨」です。