2017.03.06column
日本劇映画元祖尾上松之助を偲ぶ会
待ちわびた春を感じた陽気の3月4日(土)16時から、京都市右京区妙心寺道馬代西入の成願寺で、尾上松之助遺品保存会による『目玉の松ちゃん‼ 尾上松之助を偲ぶ会』が開催されました。2日付け京都新聞には、先日ご紹介した尾上松之助さん(1875-1926年)に頭を撫でて貰った経験がある101歳の佐々木初栄さんも参加されて幼少期を振り返ってお話されると予告記事が掲載されましたが、足の具合が悪いのと高齢のこともあるので、大事を取ってご家族と相談の上参加を見合わせることに。式典の中で保存会代表の松野吉孝さんからひとことを求められましたので、そこで簡単に佐々木さんについてお話をさせていただきました。
熱心な松野さん(上掲写真左に立っておられる男性)の声かけで参集された人々の中には、松之助さんのお孫さんにあたる田中憲子さん(写真右に立っておられる女性)とそのお嬢さんの姿もありました。2015年12月12日ミュージアムで開催した「第5回無声映画の夕べ」でこの年に発見された『忠臣蔵』(1926年、日活大将軍)を上映した折、初めてお会いしました。この時「一度実際に活動写真がどんなものか、自分の目で観てみたいと思って、来ました」と挨拶されたのが昨日のことのように鮮やかに甦ってきました。それ以来、何度かお便りを差し上げたりしましたが、お会いするのはその日以来。ずっとお元気でおられるか気にしておりましたので、お顔を拝見してとても嬉しかったです。
松野さんから『史劇・楠公訣別・桜井の別れ』(1921<大正10>年12月8日、後の昭和天皇が摂政官時代に、『太平記』をもとにした松之助さん演じる楠正成と息子正行の父子が別れる名場面をご覧になった時の記録映像)、『尾上松之助葬儀実況』(1926<大正15>年9月16日に営まれた松之助さん葬儀の記録映像)を解説付きで上映していただいた後、挨拶される田中さん。葬儀実況記録映像には、まだ北野中学の生徒だったお父様、房吉さんも映っていました。「いろいろしてくださって…」と、感無量で込み上げてくる涙を堪えておられました。お母様を早くに亡くされて苦労されたそうです。終了後暫しご一緒した折り、「この年になって、このようなご縁が次々結べるとは思ってもいなかったので」と、とても喜んでくださいました。
この方は松之助さんの映画によく登場される太い眉や髯に特徴がある新妻四郎さんのご子息。やはり「第5回無声映画の夕べ」の時に初めてお会いしました。ご自身がまだ小さいころに亡くなったお父様の映像を探し続けておられます。
今回の催しは、松之助さん葬儀行列の映像に出てくる「日蓮法華」の旗(1枚目写真の 赤い旗)と位牌、日活会社各部関係者従業員先祖累代の位牌が成願寺に祀られていることがわかったことにより計画されました。
佐々木初栄さんの話では、馬代通の1本東に位置するこの通りと一条通の交差するあたりに日活大将軍の門があったそうです。当時は今のように家もあまり建っていない時代。一条通から阪妻さんが乗った人力車が門を入ってきて「撮影が遅うなって申し訳ない」と急いで草履を履かせてもらうなどお付の人に世話をしてもらいながら葬儀会場に向かわれるのを目撃したそうです。真っすぐ進むと大将軍小学校の裏門に至ります。
日活大将軍撮影所は1918~28年、この地でたくさんの作品を撮りました。3月2日にも佐々木さんにお会いした折り、「この辺りで時代劇を撮るのは事欠かなかった。『忠臣蔵』のお城の場面は、おおかた妙心寺で撮った。土手にカシワの木があり、小学2年ごろカブトムシを捕りに行った時、化粧して待っている松之助さんを見つけ『おっちゃん出てはる』と思った。それは『鍵屋の辻』の場面だった」などと随分昔に見た光景をとても鮮やかに覚えておられました。佐々木さんのお父さんと松之助さんは同い年だそうで、気が合ったのでしょう。撮影所外のプライベートでも引越しなどいろいろ手伝いもされたことから、その小さな娘さんにも、国民的大スターだった松之助さんが目をかけて可愛がってくださったことが強く印象に残っておられます。先に佐々木さんのことを書いた時、「尾上松之助なんて歴史上の偉人だと思ってたのに、その手の感触を憶えている方がご存命だなんて‼」とコメントを寄せてくださった方がおられましたが、本当に凄いことだと思います。
佐々木さん、田中さん、新妻さんと出会い、その契機となったのが件の『忠臣蔵』発見。全てミュージアムを開設したことで繋がった縁です。
その発見されたパテ・ベビー版『忠臣蔵』は、正しくはこのポスターの作品です。このことは既に2015年の京都国際映画祭で初上映した時に発表していますが、松之助主演で撮った最晩年の『忠臣蔵』に、入社した大河内伝次郎も加えた増補改訂版(1927年)として作られたものですが、ポスター右上に掲げられている吉良上野介の丸い写真のすぐ下に掲載されている新妻四郎さんとみられる人物が加わったシーンはなかったように思います。家庭用に再編集されたときにカットされたのでしょう。本当にオリジナルが残っていないことが残念です。
他にも松之助が一人三役をした『忠臣蔵』(1910年、牧野省三監督)のポスターや
『松之助双六』も展示してありました。国民的スターだったことが、これからもうかがえます。前者のポスターの「日本劇映画元祖尾上松之助」の言葉が気に入ったので見出しに拝借しました。
『史劇・楠公訣別・桜井の別れ』は、2010年に2本目の重要文化財指定を受けた作品です。松野さんから、上映前に「青葉茂れる桜井の♪」の音楽が掛けられた瞬間、以前私が主宰していた会の例会で大阪府島本町を探訪した時のことを思い出しました。と同時に、復元に少しばかり私もかかわった記録映画『金鵄輝く建国の聖地』も思い浮かべました。今またこの時代を連想させるような全く不愉快極まる森友学園騒動が起こっています。記録映像は資料として貴重ですが、『楠公訣別・桜井の別れ』がもてはやされる時代の到来はまっぴらごめん被りたい‼
東京国立近代美術館フィルムセンターで尾上松之助生誕130年を記念して開催された「尾上松之助と時代劇スターの系譜」で主になって担当された現文化庁芸術文化調査官の入江良郎さんは、「松之助と等持院は良く知られているが、成願寺は知らなかった。位牌を目にして驚いた。京都というのは、松之助が活躍した時代の痕跡がポンと残っていて、学ぶことが多い」と挨拶されました。
映し出される堀川丸太町から日活大将軍撮影所に向かう葬儀行列、大将軍撮影所での日活社葬、等持院墓地埋葬までの記録映像を時折停止しながら、松野さんが「初めてレンズの前に立った『碁盤忠信』を撮った千本座裏にあった大超寺境内の大きな欅が映っています」「旗を持つ人は松之助が日活に通う人力車の車夫で、自分から名乗り出たと雑誌に書いてあります」「出水小学校が奥に見えています」「阪妻さんのお焼香姿が映っています」などと町や人の説明をしてくださるのを聞いていると、回を重ねるごとに説明箇所が増えてきているのがわかるだけでなく、あたかも自分も大正15年のまだ残暑が厳しい京都の町を葬儀行列と共に移動しているかのような気分になります。松野さんの熱心さには本当に頭が下がります。
この秋には、ミュージアムで松之助さんに因んだ催しも開催する予定です。その折には、特別な1本をご覧いただく計画です。どうぞお楽しみになさってください。なお、この日取材して下さった様子は、下記で放送されるそうです。視聴可能な方は、ご覧いただければ幸いです。