2022.04.19infomation
5、6月の展覧会「『川喜多長政と中国』展ー映画の国際交流を求めてー」のご案内
新緑の季節を迎えて、5-6月は「『川喜多長政と中国』展-映画の国際交流を求めて―」を開催します。
5月18日に当館が開館7周年を迎えることに加え、高橋伸彰さんに執筆していただいた小冊子7『川喜多長政と中国―映画の国際交流を求めて―』を発行したことを記念して開催するものです。
小冊子発行については、こちらで紹介しています。繰り返しの掲載になりますが、高橋さんは今年3月から、中国海南省にある海口経済学院傘下の南海芸術予科技学院(小冊子発行時は“華都影視学院”で掲載していますが、大学名が変更)で演出演技と映画制作を指導する准教授としてご活躍です。今回の展覧会は、そのお祝いも兼ねていて、高橋さんにはビデオメッセージを依頼していて、会期中に随時ご覧いただけるようにします。
小冊子の中でも、たびたび日経新聞に連載された「私の履歴書」の川喜多長政の記述が引用されていますが、その中国訳をされた蔡 剣平さんと繋がることができました。今回貴重な資料をお貸し頂いた公益財団法人川喜多記念映画文化財団さんのご紹介によるご縁です。蔡さんにもビデオメッセージを頂けることになりました。現在は北京国際映画祭プログラミング・アドバイザーを務めておられ、日本語が堪能な方です。
川喜多長政は、軍人だった父が32歳の若さで中国で謎の死を遂げたことの真実を知ろうと中国に関心を示し、高校卒業後、北京大学に入学。しかし政治情勢は日本との関係が悪化する中だったこともあり、在学中に知り合ったドイツ人から「若いころにヨーロッパに行っていろいろと学ぶ方が良い」と助言を受けてドイツ留学にシフト。そのドイツの大都市ハンブルクでオペラ公演『蝶々夫人』を見たとき、外国人の日本に対する認識不足に衝撃を受け、同時に日本も西洋から学ぶべきことが多いと実感します。そして当時話題になっていたフリッツ・ラング監督『ジークフリートの死』(1924年)を見たときに、映画の影響力の大きさを強く実感。こうした経験から、「映画は最も効果的に風情、風俗、習慣、文化を紹介し、東西文化の交流の早道になる」と考えた長政は、帰国して兵役を終えたのちの1928(昭和3)年10月10日、辛亥革命記念日を選んで外国映画の輸入会社“東和商事合資会社”を設立しました。社名は戦後、東和映画株式会社、東和株式会社、東宝東和株式会社へと変遷しましたが、東洋と西洋の和合、融和を意味する“東和”の名称は今も引き継がれています。
今回の展示では、主に日本が中国に進出していた時代に焦点をあてます。戦後の1947年GHQから発表された公職追放者リストに長政の名前もありましたが、中国重慶の要人から「川喜多氏は中国の映画産業を日本の管理下に置いておらず、純粋な商業の運営方針でした」と伝えたほか、上海時代に関わった各国の人々からこの公職追放に異議申し立ての手紙が寄せられたそうです。結果、1950年10月長政に対する処分は解除され、映画産業に復帰しました。1964年長政は映画産業の発展に尽力したことを称えられて「藍寿褒章」が授与され、彼を支えるだけでなく、世界各地の映画祭審査員として活躍し、さらに映画保存のためのフィルムライブラリー設置にも尽力したかしこ夫人も、1974年紫綬褒章が授与されています。
1981(昭和56)年5月24日78歳で亡くなった長政を報道した朝日新聞の見出しには、「映画の架け橋 半世紀」とあります。それから12年後の1993(平成5)年7月27日にかしこ夫人は85歳で亡くなります。翌28日付けで訃報を報じた朝日新聞の小見出しには「欧州の名作映画を紹介」とあります。ご夫妻そろって映画による世界各国の相互理解を深める活動に尽力された人生でした。
今回の展覧会も一つの契機となって、ひとりでも多くの方に川喜多長政夫妻の足跡を知っていただきたいです。なお、中国繋がりで、期間中の6月19日(日)13時半から、去る3月15日第17回大阪アジアン映画祭で世界初上映した『おもちゃ映画で見た日中戦争』を上映します。平日昼間の上映だったこともあり、ご覧になれなかった方々からの要望もありましたので、天宮遥さんのピアノ生演奏付きでご覧いただきます。新型コロナウイルス感染拡大防止のため定員をいつもより少ない25名に設定しています。予約優先ですので、ご希望の方はお早い目にどうぞ‼