おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2021.12.07column

映画『(実録)忠臣蔵』と『祇園祭』への関心から

今日の京都新聞催し案内欄で紹介していただいた「ペン画で甦る日本最初の映画スター尾上松之助最晩年作『忠臣蔵』展PartⅡ」。SNSでこのことを紹介するに際し、他にどんな写真を載せようかと考えていて思い出した下掲写真。

4~5月に開催したPartⅠで紹介したチラシです。熊本市内にあった世界館は日活直営館。どこにあったのかと検索したら「熊本市中心部映画館跡地巡り」というのがありました。よく調べられたなぁと思います。

『活動写真の大スター目玉の松ちゃん―尾上松之助の世界-』(1995年、岡山文庫、130頁)によれば、「松之助の声は低音で力強く、いま思うと進藤英太郎の声に似ていたようだ。京都の千本座の滝花主任が画面の松之助にピッタリの声だというので、それを手本に各地から募集して松之助の声色を統一した」そうです。熊本の世界館でも似た声の弁士さんが活躍されていたのでしょう。

ペン画を描いた芹川文彰さんが住む山鹿市は、熊本市の北に位置しています。映画公開時15歳だった文彰少年は、おそらく山鹿市内の映画館でご覧になったのでしょうが、熊本市内にあった世界館での上映と同じ頃だったのかも。熊本の過去新聞を調べれば、いつ上映されたのか特定出来るのではないかと思ってはいますが、コロナ禍もあって、まだ着手していません。

上掲チラシには、「追善」「故尾上松之助」の文字がありますから、1926(大正15)年9月11日以降であることは確か。久し振りにこのチラシが載っていた藤田治水さん著『熊本シネマ巷談』(1978年、青潮社)を手にとり、「あとがき」を読んで、今更ながらビックリ。

この本の表紙絵を描いたのが、竹中英太郎さんだったからです。少し前までなら、別に驚きもしなかったのですが、映画『祇園祭』(1968年)のことを調べていて、映画製作スタート時にプロデューサーだった竹中労さんについての思い出を聞かせて下さった方がおられました。その労さんのお父様が挿絵画家の英太郎さんでした。

2020年7月15日に発行された『映画産業史の転換点ー経営・継承・メディア戦略』の中に、菊池暁さんが書かれた「まぼろしの映画『祇園祭』パンフレット-挿絵画家・竹中英太郎の『復活』-」という文章も載っています。

「まぼろしの」と付いているのは、竹中英太郎さんが表紙を描いたこのパンフレットが、息子労さんの降板によって、ほとんど陽の目を見ることがなかったからです。

代わりに普及したパンフレットがこちら。ここで用いられている表紙も挿絵も菊池さんは「作者不詳」と書かれていますが、その後私たちの聞き取り調査の結果、映画「祇園祭」製作上映協力会事務局長を務められた堀昭三さんがこのパンフレットを手掛けられたとわかりました。しかも、この中に載っている「あらすじ」を書かれたのが、連れ合いの高校時代の恩師でした。

ゴタゴタ続きの映画『祇園祭』で結果的に手を引いた竹中労さんと共に、父英太郎さんの表紙画のパンフレットも「まぼろし」になっただけでなく、内容も変化していますが、動的な英太郎さんの表紙画が個人的には好きです。堀さんの家で、この「まぼろしの」パンフレットを見たという人もおられますが、私自身は実見していません。見たいです。

英太郎さんは江戸川乱歩、夢野久作、横溝正史らの挿絵を担当し、時代の寵児になりますが、1935年に人気絶頂の最中に絶筆します。その後、映画に奔走する息子の懇願で三十余年を経て再び絵筆を執ったのが、先の絵でした。陽の目を見ずに終わったのは、何とも残念ではありますが、以降は息子の関係に限って絵筆を執ったそうです。

藤田治水さんが『熊本シネマ巷談』の表紙画を依頼されて、英太郎さんがそれを「快くひきうけて」下さったのは、そういう時期のことだったのですね。英太郎さんが亡くなったのは、これから10年後の1988年でした。

これは春に見に来て下さった活動写真弁士坂本頼光さん。コロナの先行きが見通せない中で、人の往来もパタッと止まってしまった感があり、頼光さんも絶賛して下さったこのペン画の凄さを、何とかもっと多くの人に見て貰いたいし、無名のままに終わってしまった芹川文彰さんのことを知って貰いたいという思いが強まって、今回のPartⅡ展になりました。

お陰様で18日に予定している坂本頼光さんと楽士の天宮遙さんをお招きしての『(実録)忠臣蔵』上映会は、予約で満席になりました。当館は古い京町家を改修して使っておりまして、隙間がたくさんあります。暖房していても寒いので、ご来館の際は、できるだけ暖かい服装でお越し下さいませ。よろしくお願い致します。

 

 

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