おもちゃ映画ミュージアム
おもちゃ映画ミュージアム
Toy Film Museum

2023.04.07column

9日まで、展覧会「甲斐荘楠音の全貌」

いよいよ次の日曜日で評判の展覧会「甲斐荘楠音の全貌」が終わっちゃいます。最近観に行った展覧会でも出色のできだったと自分的には思います。もし、まだご覧になっていない方がおられましたらお勧めです。何が良いのかと言えば、甲斐荘楠音(ただおと:1894-1978年)がデザインした時代劇スターたちが身にまとった着物がズラーッと並んだ圧巻の展示です。中でも市川右太衛門(1907-99年)が演じた『旗本退屈男』シリーズの衣装の豪華なことったら‼『旗本退屈男』製作費の大半がこの衣装代だったという話にも頷けます。

この粋を凝らした着物の製作に関する一つ一つの手作業が、それに従事する人々の技をキープしたり、高めたり、次世代に継承したりすることに大いに貢献したことでしょう。1950年代の日本映画黄金時代、映画のセットを組む技術には戦争で職を失った宮大工さんらの技術が貢献し、その一例が黒澤明監督の代表作の一つ『羅生門』(1950年)に見ることが出来ます。ロケ現場に使われた京都の社寺も映画によって甦ることができた大きな一例です。今日の観光京都には、産業や文化などで映画が貢献した面が極めて大きいと改めて思わせてくれた展覧会でもありました。

3月16日に市川右太衛門ファンの八木一夫さんも展覧会をご覧になり、当館でも展覧会をした高木紀彦さんが描かれた旗本退屈男全身画集を持参され、一着ずつ見比べながら見て歩いたそうです。そして「見る人にとって、衣紋掛けに飾られた着物だけでは甲斐荘氏の素晴らしさは、100%は伝わってこないのではないかと思った」そうです。その上で「高木紀彦さんの全身画をせめてA3サイズで着物の横に展示していればお客様がもっと楽しまれたのでは、と感じた」と仰っていました。

これは、2018年3月21日に高木紀彦さん(左から2人目)から寄贈戴いた旗本退屈男の扮装をした市川右太衛門さんの額絵を手に微笑む私。左端が八木さん、右端が京都「南座のまねき」を書いておられる井上玉清さん。高木さんも井上さんも元は映画看板を描いておられました。高木さんが存命だったなら今回の展覧会をどんなに楽しまれたことだろうと惜しく思います。

2019年、市川右太衛門が主役を演じた『旗本退屈男』シリーズで身に付けた着物114点が京都太秦の東映京都撮影所で発見されたニュースを知って、関係者の人に高木さんの絵のことを伝えたような記憶があるのですが、次回どこかでこの衣装展をされる場合には、ご一考願いたいものです。

それにしても、よく無事な姿で着物が保存されていたものです。発見後選りすぐりの4点がポスターなどと一緒にパリ日本文化会館で2019年10月22~26日まで展示され、パリの皆さんは「これが男物の着物だとは思えない」と目を見張っていたそうです。僅かな日数にも関わらず、3500名近くの方がご覧になって大好評を博したそうです。日本の文化を紹介するのにふさわしいと思います。

展示の前半部分は日本画家としての甲斐荘を紹介していました。一度見たら強い印象を受けて忘れがたい女性像は、国画創作協会展に出品したところ「きたない絵」と陳列を拒否されたというエピソードが残っているくらいです。当時の京都画壇では透明感がある女性画が評価されていたので相容れられなかったこともあり、日本画から離れて映画の世界に入っていきます。幼い頃に歌舞伎の女形の美しさに魅せられて芸能にのめり込み、自らも女形を演じることもあったようで、会場に展示された写真の中には、女装姿のものが幾枚も含まれていました。そういう甲斐荘の一面を京都の映画界は受け入れ、その中で彼は才能を発揮することができたわけで、彼を取り巻く映画界の懐の深さを思います。

美術監督の故・西岡善信さんは「画壇に残された、甲斐荘さん特有の官能と耽美の世界が、フィルムという画紙の上に描き出された様に思うのである」と書いておられます(京都映画百年記念『日本映画と京都』1997年春、100頁)。

驚いたのは甲斐荘が用いた落款印の種類の多いこと。どのように使い分けていたのかしら。甲斐荘が描いた登場人物の下絵も展示され、時代劇や衣装の製作過程もほの見えて面白いです。実は、3月11日付け京都新聞を読んで、興味を持ち、27日午前中にゲストハウス「月と」を訪問しました。オーナーの山内マヤコさんの手元には甲斐荘が描いたスケッチ画が12枚があるとのことで見せてもらいました。祖父の正司さんが「山内映画製作所」を手掛けておられたそうですし、祖母の京子さんは舞踊や伝統文化に精通されていたことから甲斐荘と交流があったのでしょう。正司さんと京子さん夫妻は1960年頃から京都市左京区聖護院のこの家に住み、甲斐荘だけでなく画家の榊原紫峰や作家、留学生らが下宿したり交流する場になっていたようです。

撮影してきたうちの中からスケッチ画2枚を。それぞれのスケッチ画1枚1枚にも落款が押してありました。興味深いのは、甲斐荘直筆の文章が添えられていたこと。12枚のスケッチ画を入れた封筒の表に、これを描いた折のことを思い出して、綺麗な文字で書いています。

まだ甲斐荘が若かった頃、四条大宮に掛け小屋があって、そこで盲目の女性ばかりの一座が踊りの興行をしているを見ます。本人はハットセ踊り(宮城県塩釜市に300年も前から受け継がれている塩釜甚句に合わせて踊ります)が色っぽくて気に入ったとあります。一座が何日間四条大宮に逗留していたのかわかりませんが、馴染みになって楽屋へ入れて貰って写生したと書いています。甲斐荘は若い頃、このミュージアムがある辺りも闊歩していたのですね。

読みながら昨年6月に福田淳子・昭和女子大学教授の講演付きで上映した田中絹代主演『戀の花咲く 伊豆の踊子』(1933年、川端康成原作、五所平之助監督)のシーンが浮かびました。あるいはまた、「頓智の一休さん」で知られる一休宗純が晩年一休寺(京田辺市薪の酬恩庵一休寺)に迎え入れた盲目の女旅芸人森女のことも思い浮かべました。

ミュージアムを開館してから、甲斐荘が下宿したことがある家の方とも知り合いました。溝口健二監督『雨月物語』(1955年)で第28回アカデミー賞衣装デザイン賞にノミネートされて渡米後、その報告に訪れたそうです。ひょっとしたら展示されていた「アカデミー賞ノミネート状」という楯を持って挨拶に来られたのかもしれませんね。

他にも『歌麿をめぐる五人の女』などで一緒に仕事をした方のお家にも、甲斐荘から受け取った品が大切に保存されていることも最近知りました。映画産業が盛んで、多くの映画人や俳優さんたちが住まいした時代の京都には、こうしたエピソードがいくつも聞かれたことでしょう。寂しいですが「今は昔」の感がします。

美術館で、甲斐荘楠音の大々的な回顧展は二度目だそうです。サブタイトルにありますように「絵画、演劇、映画を越境する個性」、さらには性差をも越境する甲斐荘の生き様とその作品世界は実に興味深く良い展覧会でした。

記事検索

最新記事

年別一覧

カテゴリー