おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2025.04.09column

京都経済同友会の提言


「5日付け京都新聞を何度も読み返しました。京都経済同友会が文化庁と府・市に「京都を文化の発信地」として明確に位置付け、施策を展開すべきだとの提言書を提出したそうです。『国立文化史博物館』を京都に設けることも提案しています。記事の中にアニメやゲームを挙げていますが、京都経済同友会のメンバーの皆様のお考えの中に「映画」の二文字も含まれていると嬉しい。先ずは第一歩。これからも夢が実現するよう出来るだけの努力をしていきます。」

と、新聞を読んで、早速Facebookに書きましたら、知り合いの方が以下のコメントを書いて下さいました。

「映画はゼニクイムシなんでしょう。アニメ、ゲームはゼニを生む。そろばんはじいた結果かな。経済同友会のお歴々、ほぼ同世代。(石原)裕次郎でも日活ではなく『太陽にほえろ!』『西部警察』ですから。映画館に足を運ぶ(ことは)あまりしなかったと思う。」と。

他の新聞はどのように報じたのかが気になって直ぐに中央図書館へ行って他紙を繰りましたが、上手く見つからず。帰ってからネット検索しましたら、日経新聞は4月3日夕刻の電子版で報じていました。京都経済同友会が提言を提出したのは4月3日のことで、京都新聞の記事はその後の掲載だったようです。日経新聞電子版を読むと、「アニメやゲーム、アート」の表現になっていて、京都新聞より「アート」が加わってる違いがありますが、やはり「映画」の2文字はありません。「じゃ、提言書を読んでみよう」と検索しましたところ、読むことが出来ました。そこに例として挙げられていたのは、アニメ分野では、ロサンゼルスで開催されている世界最大のゲーム開発者サミット「GDC」、プロダクトデザイン分野ではイタリアのミラノで開催されている世界最大規模の家具見本市ミラノサローネ、現代美術の分野では日本のアートウィーク東京と提携した「アートバーゼル」、東南アジアの都市で開催される日本のポップカルチャーを紹介する「Anime Festival Asia」などを挙げています。他にユネスコの無形文化遺産である和食や伝統的酒造りなど食文化、文化庁芸術祭オープニング公演の京都での定例開催、京丹後地域での全国民話サミット創設なども提言しています。が提言書そのものの中に、残念ながら、「映画」の2文字を見つけることは出来ませんでした。「国立文化史博物館」については、「文化史の視点から京都の文化・日本文化の神髄を国内外の人々に常に示し続けることができる施設」ということで新設を提言しているのみでした。

「我が国の文化の発信は京都から」という意欲的な表現ですが、京都経済同友会のお歴々の方々が思っておられる「文化」の範疇に「映画」の二文字は無いのだろうと残念に思いました。「2年間の研究活動を通じ、多様な講師陣を招き」とありますが、その講師の中に映画関係者はきっと不在だったのでしょう。「中島貞夫監督が今もご健在だったなら」と本当に残念に思います。氏亡き後、京都の映画界は羅針盤を失ったかのように私には思えます。現場だけでなく大学でも映画を教えて優れた映画人を育成されましたが、彼らのほとんどは東京を活動拠点にしています。関西では仕事がなく、東映や松竹はあれどももはや貸しスタジオであり、「京都で」と胸を張れる作品はほとんどない状況ですから、京都経済同友会の提言の中に「映画」の2文字がないのも時代の流れで致し方ないのかもしれません。

京都経済同友会のお歴々の方々は「第七藝術」という言葉をご存知でしょうか?1911年世界最初の映画批評家リチョット・カニュードは『第七藝術宣言』を著しました。映画は音楽・詩・舞踊の「時間芸術」と建築・彫刻・絵の「空間芸術」を統合するものとして「第七藝術」という名前を与えました。フランスなどでは映画を総合芸術「文化」として重要視していますが、悲しいかな日本では、明治時代に渡来して以来「興行」「芸能」と見られてなかなか「文化」としてとらえられていない面があります。拍車をかけたのは1960年代からのテレビの台頭によって映画館へ足を運ぶ人口が激減し、映画界が起死回生を狙ってやくざ映画やピンク映画を作ったことが却ってその位置付けを強固にしてしまったように思われてなりません。

しかし、敗戦によって打ちひしがれた京都を救ったのが「映画」の存在だったことを知る人はそう多くないでしょう。世界中に黒澤明監督の名前を知っている人は多いですが、黒澤明監督が1950年に作った名作『羅生門』は京都にあった大映が作りました。まだ世界の映画祭の情報が届いていなかった日本にイタリアの女性、ジュリアナ・ストラミジョーリがヴェネツィア国際映画祭に出品するよう働きかけ、彼女の金銭的負担と尽力によって第12回同映画祭金獅子賞を獲得し、第24回アカデミー賞で名誉賞を受賞しました。関連して以前ブログでも書きました。この受賞は日本映画の存在を世界に知らしめることになり、日本人に誇りをもたらし、以降も日本の優れた作品が海外受賞を続け、日本映画海外展開の契機になりました。同じ出来事を複数の登場人物の視点から描くことで、人間のエゴイズムを鋭く追及した手法は「羅生門効果」という言葉を生み出し、宮川一夫カメラマンが、鏡を使うことでそれまでタブーとされていた太陽に直接カメラを向けて撮影したテクニックなど、後の世界中の映画人に大きな影響を及ぼしています。

『羅生門』は京都で大きなセットを組んで撮影されましたが、台風が直撃して撮影が危ぶまれる事態にも遭遇しました。その時宮大工の人々が「戦争中は仕事がなく大変だったが、映画のおかげで食べてくることができた。その恩義があるから」と助っ人に馳せ参じて撮影に間に合わせました。映画の美術人たちは宮大工さんたちから技術を学び、それがのちの『大魔神』シリーズなどにも反映しています。撮影現場に京都の社寺を用いたことで、荒れ放題だった境内を整えたのも、黄金時代だった映画の資力でした。今日海外の人々にも人気の京都の社寺を復興させたのは、実は映画の力だったのです。同様に、映画で用いる衣裳、屏風や襖などの道具も京都の伝統産業に携わる人々の技術を駆使して、映画作りに活かすことで、それらの人々の暮らしの復興をも支えました。そうした「映画」にまつわる時代背景がきちんと伝えられていないことを、とても残念に思います。京都の文化がずっと今のままの状態ではなかったことがあり、京都の映画産業のおかげで復旧し、継承され、今があるという「歴史」も大切にして貰いたいです。

京都経済同友会の提言の中に「国立文化史博物館」とあったのに惹かれたのですが、たかだか100年ちょっとの歴史に過ぎない「映画」ですが、今の京都との関りの視点でみていくと、「京都の映画文化」の歴史も是非に組み込んでいただきたいと切に願います。

今は、日本のアニメーションやマンガが世界的に評価されていますが、戦後の日本映画黄金時代はこんな比ではなく、世界中で高く評価されていました。「映画はゼニクイムシ。アニメ、ゲームはゼニを生む」と目先の算盤ばかり弾いていると、ひょっとしたら映画と同じ道を歩むことになるかもしれません。きちんと「映画」の過去を評価し、讃え、その熱意を引き継ぐ熱い思いの次世代を育成していくことこそが大切だと私は思うのです。「国立文化史博物館」が実現すると嬉しいですし、その中に「映画」の二文字も含まれることを心から願います。

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