おもちゃ映画ミュージアム
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2023.11.02infomation

“知っていますか?”シリーズ3「敗戦後、強制労働させられた降伏日本兵のひとり、野田明が残したマレー抑留のスケッチ画展」開催‼

11月1日から、長崎県佐世保にお住まいだった野田明さん(1922-2018)が描いたスケッチ画の展覧会をしています。

12月2日展覧会に関連して同志社大学で催しをするのですが、その時に講演して頂く岡山大学大学院准教授中尾知代先生がお書きになった『日本人はなぜ誤り続けるのか 日英〈戦後和解〉の失敗に学ぶ』(2008年、NHK出版)を引用すれば「1945年、南方軍約70万人が降伏したが、連合軍側は、国際法上の捕虜として扱わず、SEAC(東南アジア連合軍司令部)はJSP(Japanese Surrendered Personnel、降伏日本兵)として取り扱った。「捕虜」とすると、ジュネーブ条約に守られ賃金も発生するからという見解もあれば、日本軍は捕虜という汚名を着せられることを恥と思い込み、絶望して自決することを懸念したという見解もある。(略)日本は連合国のポツダム宣言を受諾し、1945年9月2日に降伏した。その9条に『日本の兵力については、完全に武装解除されたあとは、故国に帰ることを許されるべし』とあり、しかもわざわざ『その点は注意願いたい』と確認され、東南アジアから大多数の軍人軍属が帰国しはじめたにもかかわらず、その約定に反して、10万人超の兵隊が強制的に残留労務を命じられ、『残置作業隊』として道路整備や飛行場作り、港湾設備、農作業、その他下級の労務につかされた。彼らが帰還できたのは1947年の6月から12月だった。英国に抑留された者に関しては、SEACは1946年12月1日に解散しているため、JSPの管理責任はそれ以後は英国軍にあった」(217~218頁)。

2013年2月26日NHK長崎で野田明さんのスケッチ画について特集されている映像を見ましたが、ここでは「13万人は現地に残され、抑留」と解説していました。この番組までの5年の間にJSPの人数は10万人から13万人に増えていますが、こうした人数把握の様子を見ても、軍は一人一人の兵隊さんの命を軽んじていたのではないかと思ってしまいます。野田さんのもともと上官だった大隊長(野田さんは大隊長の身の回りの世話係)は彼が絵を描くのが上手だと知っていたので、「作業の様子を描いてくれ」と依頼されたのだそうです。その目的は、抑留生活を描いた絵を復員局に送ることで、少しでも帰還を早めることにありました。実際に送られ、それが功を奏したのかまではわかりませんが、そうして手元に残ったスケッチ画約150点を宝のように持ち帰り、ご自宅で保存されていました。1947年7月、復員船輝山丸が佐世保港の浦頭に上陸した時、検疫所でリュックに丸めて入れたスケッチ画が没収されることを恐れて、「重要でない荷物のふりをして、わざと向こうにポンと放って検閲の目を逃れた」と証言されています。

昨年12月18日、“知っていますか?”シリーズ2として、シベリア抑留を取り上げ「女性抑留経験者の証言映像と講演」をした時に中尾先生と知り合い、シベリア抑留だけでなく、南方にも大勢の日本人抑留者がおられたことを知りました。そして、その時に野田明さんのスケッチ画のことを教えて貰いました。それからやがて1年、2015年1月3日から10回にわたって、「よみがえる抑留の日々~野田明のマレースケッチ」を連載された長崎新聞犬塚 泉記者のご協力を得て、野田さんのご長男、明廣様にお繋ぎ頂き、貴重なスケッチ画をお借りして展示することが出来ました。12月2日には明廣様に京都迄お越し頂き、中尾先生と対談して頂くコーナーも設けます。お二人が、生前の野田さんからどのようなことをお聞きになっていたのか楽しみです。

野田明廣様からお借りした資料の中にあった手作りの文集『噴焔』(1947年3月発行)が、抑留生活を知る貴重な資料だと思います。野田さんが属しておられたエンダウ海軍作業隊の副官だった森山幸晴さん(当時海軍司令部中尉)の提案で、文集として創刊され、500部製本されました。随想や川柳などのほか、森山さんが長文の『エンダウ開拓小史』を書いておられます。関心がある人は、ぜひ間近で読んで貰いたいと思い、全ページ複写してファイルに入れました。この森山さんの対談集『勲章のいらない巨人たち』(1981年)のタイトルを読んだとき、反骨精神というか、南方抑留の体験が影響しているのではないかと思いましたが、前書きの冒頭部分に「戦争中、その大学の学生新聞が弾圧された当時の最後の編集長として」と書いてあることから、反骨精神はそれ以前からお持ちだったようです。文集創刊は森山さんらしい発案だと思います。復員後は、日活のプロデューサーとして1954年ハードボイルド・ミステリー『俺の拳銃は素早い』、1957年には『川上哲治物語 背番号16』や石原裕次郎さんが「おいらはドラマー♪」と歌い出す『嵐を呼ぶ男』、1972年には近代放映取締役の傍ら『百万人の大合唱』などを企画されています。

森山さんは『エンダウ開拓小史』の後記に「エンダウ開拓小史には、現住民に就いて、何等語られてない。若し…続噴焔が発刊される様な場合、私は先づ彼等を語りたい。私は終戦時、現地人が我々に示してくれた深い愛情を忘れることはできない。戦争中我々が現地人に示した積りの好意は今から思へば、あさましい代物であった。我々は感謝と反省の涙でもって五体を清め、あの純真なインドネーシヤ、マレーの天使達に、文化の翼に乗って、今度こそ彼等へ、ふさわしい贈物をしたく思ふ… 皇紀二千六百七年三月三日」と綴っておられます。

もはや76年前、苦労して貴重な紙8000枚を調達して手作りされた文集はセピア色しています。その最後のページに発行者の森山幸晴さんから「野田君、芸術の初夜が待ってゐるよ。何だか内気な様子だが、案外途は単純な上り坂だよ。深い愛の道かも知れない」と書き、編集者を務めた向 駒雄さんは「画筆取る手に 頂上なし」と書いておられます。絵が上手で、エンダウ作業隊の中で文化部に所属していた野田さんは、仲間がひねり出した川柳にお得意の挿絵を描いて壁に張り出していたそうです。今回の展示でも26句を掲示しています。ある句に「今までは青春もなく國のため」。本当になぁ、と思います。二度とこうした思いを味わずにすむよう、国が道を誤らないようしっかり見ていかなければならないと改めて思います。テレビではロシアとウクライナの戦争だけでなく、イスラエルとパレスチナの戦火の映像まで加わって、何とか早く戦争を終結できないものかと心を痛める日々です。

9月まで開催していた木下惠介監督展を見に来て下さった方とおしゃべりをしていて、「南方抑留をテーマにした展示をしようと思っている」と申しましたら、「祖父が経験者だった」と仰ってビックリ。しかも詳細な戦場日記を書き残しておられるというので、展覧会の時に協力して欲しいと依頼しました。ここでは「田所日記」としておきます。

今では茶色をしている紙(横19.5㎝×縦13.5㎝)の両面に、鉛筆で丁寧に細かく書かれています。『見たまま、思いつくまま 昭和20年8月14日以後』と題されたこの日記の冒頭は、停戦協定が成ったことで、当初は玉砕を覚悟していた日本兵は、やがて命の危険が無くなったことを喜びます。そうして1か月過ぎたある日、突如オーストラリア軍の自動短銃と自動小銃に取り囲まれ、50人乗りのはしけに1回300名も詰め込まれて、ファウロ島へ移住させられます。2万余の陸海兵はグループ分けされ、田所将校はタウノ島へ移され収容生活が始まります。オーストラリア軍は最小限度の1500キロカロリーは保障すると言っていますが、「ひもじい思い程苦しい事は無い」と日記には度々空腹の辛さを書いています。国によって対応が異なるようで、ここでの抑留生活に強制労働のことは書いてありませんが、足りない食事を補うように、きゅうり、かぼちゃ、タロイモなどを育て、漁業をしたり。南方は農業に適しているとも書いています。手作り楽器を用いての演芸会も催しての気晴らし。とはいえやはり内地の家族を思い、望郷の念が募ります。そうして、ようやく1946(昭和21)年3月に佐世保に上陸して、故郷の高知に帰還されました。「以上終わり」で安堵されたのか、帰宅後マラリヤのため療養。

他にも、お声がけすれば「うちの家族も」「親戚に南方抑留経験の人がいる」という話も聞けるかもしれません。どうぞ、そうした声をお聞かせください。今年出版された山下清海さんの『日本人が知らない戦争の話-アジアが語る戦場の記憶』(ちくま新書)の「はじめに」で、1951年生まれの山下さんが「私が高校生のときも、歴史の授業では『時間がないので、太平洋戦争のところは、自分で勉強しておきなさい』と言われた記憶がある」と書いておられますが、私自身を振り返っても、それ以前の日中戦争についてさえも授業で学んだ記憶が乏しいです。加害の歴史を学ばずに、被害のことだけを展示したのではいけないということで、プロパガンダの研究をしている当団体理事の河田隆史さんに、「南方における日本の加害について」と題して書いて頂き、その文章も掲示しています。今度の展示で、南方での戦場の記憶についても知って頂く端緒になれば嬉しいです。中尾先生によれば「JSP(降伏日本兵)に関する展覧会や、講演が持たれるのは、日本初だと思います‼」ということです。お一人でも多くの方に関心を寄せて貰って、ご覧頂きたいです。

12月2日の申し込みが、次々届いています。参加は無料ですが、準備の都合上、できるだけ事前にお申し込みを頂けると助かります。昨年12月の催しと同様、同志社大学ジャーナリズム・メディア・アーカイブス研究センターと共催です。このイベントは、京都市「Arts Aid KYOTO」補助事業として開催します。

なお、チラシに掲載し忘れましたが、11月12日と12月23日午後は他のイベントの為、通常見学は午前中のみとさせていただきます。悪しからずご了承くださいませ。

 

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