2023.11.06infomation
12月23日講演と参考上映「祇園会から祇園祭りへ-映画『祇園祭』から消えた僧兵~」開催‼
2019年から毎年7月に「祇園祭」をテーマに展示と関連イベントをしてきました。今年もささやかな祇園祭の展示をしましたが、その頃から12月に映画『祇園祭』(1968年、山内鉄也監督)をテーマにした催しをしようと考えていました。その理由の一つは、7月16日、17日、23日、24日京都文化博物館での『祇園祭』上映は、山鉾町の人々が最も忙しい時期でもあり、168分という長時間の映画をゆっくり見ることが難しいだろうと思ったことです。その時期を外した時に見て貰えたらと考えました。
2021年7月24日に講演して頂いた河内将芳・奈良大学教授の本『祇園祭と戦国京都(改訂)』(法蔵館文庫、2021年7月17日発行)によれば、戦国時代の公家が書いた大永3(1523)年、大永5(1525)年、天文元(1532)年、天文4(1535)年、天文7(1538)年、天文18(1549)年、弘治3(1557)年、永禄元(1558)年、永禄3(1560)年、永禄10(1567)年、元亀2(1571)年の日記には、11月や12月などに祇園祭が行われた記述があるそうです。旧暦時代のこととはいえ肌寒い時分であり、実際、天文元年の時は雪が降る中を神輿が祇園社(八坂神社)から御旅所へ渡ったと記されているそうです(22頁)。
雪の中を神輿が渡御するだけでなく、二度も祇園祭が行われた年もあったようです。永正9(1512)年の場合は、前年に実施できず、この年5月に続き6月にも祭りが行われています。どうしてこんな事態になったのかと言えば、当時の祇園社は、比叡山延暦寺や日吉社(日吉大社)の末寺・末社であり、本社の日吉祭が行われなかったり、延期されたことに伴って祇園社も中止や延期せざるを得なかったことを当時の資料の多くが指摘しているそうです。本社をさしおいて末社が勝手に神輿を出すわけにはいかなかったのでしょう。延暦寺三塔(東塔、西塔、横川)に拠る大衆(僧兵など)は、室町幕府に強訴したり、祇園社へ圧力をかけたりすることもあったようです。何年か前に河内先生の講演会で「雪の降る中を山鉾が巡行したことがある」と聞いて、凄く驚いたことを今も覚えています。だったら寒い時期に往時を追体験しながら映画『祇園祭』を見るのも一興ではないかと思い、12月23日(土)13:30~、映画『祇園祭』を見る計画を立てました。
講師は、当館での映画『祇園祭』シリーズ常連の京樂真帆子・滋賀県立大学教授にお願いしました。私が思うところでは、この作品に関して、誰よりも精通されているのが京樂先生です。そして、この時期に開催することの二つ目の理由は、12月20日に京樂先生初の映画論『映画と歴史学-歴史観の共有を求めて-』が塙書房から刊行予定だと知ったからです。今回の催しは、京樂先生出版お祝いの意味も込めました㊗
先生から頂いた演題は「祇園会から祇園祭へ-映画『祇園祭』から消えた僧兵-」です。先に比叡山延暦寺の「僧兵」について少し触れましたが、映画『祇園祭』に「僧兵」は出てきません。映画化するにあたって一番最初に脚本を書いた八尋不二の準備稿には「僧兵」3名の名前が挙がっていますが、映画美術監督の井川徳道が現場で用いた脚本には「僧兵」役は載っていません。京樂先生の概要によれば「当初は大活躍するはずだった僧兵が、なぜ画面から消えてしまったのか?」を丁寧な資料調査をもとにお話しくださいます。楽しみですね。
そして、京都文化博物館所蔵上映フィルム『祇園祭』の劣化を憂いておられた生前の山内監督(諸般の事情により途中降板した時代劇映画の巨匠・伊藤大輔監督の後を引き継いで完成させたB班監督。フィルム復元当時73歳)、壮大なセットをデザインされた井川美術監督(同復元当時78歳)の助言を得ながら、2007年に退色していたフィルムを大阪芸術大学の研究費で修復した太田米男・当館館長が、伊藤大輔監督が残した赤い表紙の小冊子『映画「祇園祭」―物語の輪郭-』をもとに、伊藤監督が作りたかったのは、このような作品だったのではないかと編集し直し、135分に短縮した研究バージョンをご覧頂きます。
伊藤監督小冊子の冒頭は、現代の京都市街の大観、夜景等の実写の上に「京都!この美しい都市、千年の古都と親しみ呼ばれる此の都会が、過去の歴史の間に幾度戦火に見舞われて焦土と化し、幾度その死灰の中から不死鳥の如くに蘇ったか。しかも、その復興は、常にこの都の住民たる市民みづからの力によって行われ、連綿今日にまでその精神と実績を受けつがれて来たのであるという事を果たして市民の、そうして日本人の何人が知っているであろうか?此の映画は、そうした歴史の真相を「祇園祭」という虚構の素材に托して物語ろうとするものである」の解説の声をかぶせるとあります。
そして、その最後のページには「ゆらめき進む鉾頭の長刀。その同じ鉾頭の長刀が、今、大京都市の現代風景の中を東山に向かって、林立するビルの空を截って進む。四百余年前の古ながらの姿で、昔ながらの勝利の喜びを籠めて、昔ながらの庶民の願いを籠めて-(完)」で終わっています。太田の編集バージョンでは、その冒頭を、1997年山内監督が演出した祇園祭山鉾巡行の映像から始めます。この映像は、京都映画100年を記念して1997年からスタートした「京都映画祭」を市民に広める目的で製作された映画『映画のふるさと京都―映画100年の歩み―』(17分)の中で戦後復興場面で使われました。山内監督にとって、戦後復興のイメージは祇園祭だったのだと思います。
共産党市議で小説家でもあった西口克己が書いた小説『祇園祭』をもとにして伊藤大輔監督によって構想された映画『祇園祭』ですが、もとを辿れば1952年5月5日、東京大学で催された歴史学研究会の創立20周年記念大会用に、京都大学や立命館大学の学生たちによって製作・上演された紙芝居『祇園祭』(翌年7月に東京大学出版会から書籍化)をモチーフにしています。伊藤監督はその頃から映画化を考えておられたようで、15年間ほどもの長い間温めていた素材であるだけに途中降板となった無念さは如何ばかりかと思います。その降板劇は脚本家にも及び、先に書いた八尋不二から加藤泰監督、そして鈴木尚之・清水邦夫へと交替し、プロデューサーも当初の竹中労から久保圭之介に代わっています。2022年7月24日に「映画『祇園祭』論争とは何だったのか-伊藤大輔の降板を巡って-」の演題で講演して下さった紙屋牧子さん(多摩川大学他非常勤講師)によれば、製作から40年経った頃には「当時の京都の映画界をかく乱した“呪われた映画”」とまで言われたそうです。
出演者が超豪華だというだけでなく、そのようなイワクつきの映画である点からも興味が湧き、もっと誰でも容易くこの映画にアクセス出来る環境になったら良いのにと思い、2019年からこの映画を巡る研究発表会を催しているわけですが、なかなか思うようには進みません。京都文化博物館で上映している『祇園祭』は先にも書きましたように2007年に復元したプリントでの上映で、復元した折に太田は将来を見据えてマスターポジ(複製ネガを作成するマスター原版)作成を提案したのですが、上映用プリントで終わってしまっているのが惜しまれますし、音ネガの劣化も危惧しています。公開直後の『キネマ旬報』1968年12月上旬号から半年にわたって当事者の監督、脚本家に、映画評論家、業界人、読者をも巻き込んで紙上論争が繰り広げられた作品ではありますが、興行的には大成功で、三船敏郎人気もあって世界各国で興行されたことが残された資料からも分かっています。どこかに、この海外上映版のフィルムが残っていないかしら?ということも気になっています。海外でも短く編集して上映されていましたので、どの部分がカットされたのか興味があります。
ともあれ、まだ『祇園祭』をご覧になっておられない方には、先ずは研究バージョン版映画『祇園祭』をぜひご覧下さい‼ そして機会がございましたら、京都文化博物館で毎年7月祇園祭山鉾巡行の折に上映される『祇園祭』をご覧下さい。クリスマス、忘年会と年の瀬の慌ただしい時期ではありますが、ご都合よければどうぞお越しください。1300円(当団体正会員は1000円)で入館料込みです。先着25名(予約優先)。皆様からのお申し込みを、心よりお待ちしております。