おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2015.12.18column

「第5回無声映画の夕べ」~講演と上映

 

DSC03996 (2)12月12日の「第5回無声映画の夕べ」は、最初に羽鳥隆英さん(京都大学大学院非常勤講師・神戸映画保存ネットワーク研究員)による講演「欠落した環を埋める―『実録忠臣蔵』発見の映画史的意義」からスタート。日本映画史研究者で、いつも応援していただいている方です。7月26日の台北映画祭報告に続き2回目の登壇となりました。この日は、「再編集」「運動」の2つの視点から、どのような切り口で見ればいいのか、わかりやすく具体的な例を挙げて、問題提起をしてくださいました。内容につきましては、後日要点を纏めたものを寄稿していただくようお願いしていますので、楽しみにお待ちください。

講演で紹介された昭和31(1956)年晩秋の日付がある徳川夢声さん(1894-1971年)の文章(勝手に夢声さんの名前が使われた可能性もあるそうです)に興味を覚えました。宮城県の矢本で1月18日に1日限りで上映された映画『忠臣蔵』の広告に載っていました。「昭和7(1932)年時の松竹が(略)一流スターを総動員して製作した。これを二十数年後再び、この珍品が見られるとは現代の奇跡みたいな気がするほど一種の国宝として大切に保存すべき映画だ。(略)」というもの。「現代の奇跡」「国宝として保存すべき」は、今自分たちが取り組んでいることに通じると思いながら聞いていました。

調べてみると、1949年に国宝・法隆寺金堂壁画が焼失、1950(昭和25)年に松竹下加茂撮影所が火災に遭って貴重なフィルムや建物が焼失し、保存に対する意識が高まりました。矢本でこの作品が上映されたころは、ちょうど安全フィルムが出来て、可燃性からの置き換えが活発になった時期にあたるので、そうしたことも、夢声さんのメッセージに反映しているのかもしれません。この置き換えの時期に、可燃性フィルムは安全フィルムにコピーされた後、処分されてしまいました。けれども、置き換えには多額のお金がかかるので、全てが置き換えられたわけではなく、大半の作品が処分され、残らなかったのです。

DSC03963続いて、坂本頼光弁士に登壇していただいて池田富保監督の『実録忠臣蔵』(1926年)を上映。3日前に1928(昭和3)年に作られた牧野省三の『実録忠臣蔵』を活弁したばかりなのだそうです。講演で、昭和9~10年の「パテベビー月報」も見せていただきましたが、今も昔も12月になると「忠臣蔵強化月間」になるのは同じですね。日本人は、本当にこのお話が大好きなんでしょう。弁士さんは、台本を自ら書かれますので、いくら馴染みの話とはいえ、続けてとなると大変ですねぇ。頼光さんは、渾身の力を振り絞って見事な語りを披露してくださいました。映画に見入りながら、羽鳥さんに教わった視点も忘れずに、参加いただいた皆さんは大いに勉強しながら楽しまれたことだろうと思います。

その後、あいさつされた頼光さんの話も印象深かったです。先ほど名前が出た徳川夢声さん(一世を風靡した活動写真弁士)は、島根県益田市の出身ですが、そこの山深い赤来町(今は合併して飯南町)に吉岡長太郎という篤志家がおられたそうです。9.5㎜、35㎜、8㎜を自分で購入し、奥様が映写機を回し、長太郎さんが活弁を付けて町の公民館や学校で、あるいは県内各地で上映して、人々に映画を見せてあげていたそうです。1965年ごろ長太郎氏が亡くなった後、膨大な量のコレクション(娯楽作品、教育映画、ニュース映像、地域の映像など)が役場に寄贈され、今、飯南町の教育委員会所蔵になっているそうです。

11月27日に、島根県芸術文化センターで、「キネマとアートと音楽の夕べ」があり、坂本頼光さんも出演されていたのをFacebookで何気なく読んで知っていましたが、背景にそうした篤志家の美談があったのだと、この日の話でわかりました。頼光さんは2010年からこの「名画をいろどる話芸と音楽」に毎年参加され、7回目となる今年は、自らアニメ「ヒストリーオブ益田氏」を脚本・作画し、活弁を付けて上映されたようです。今、頼光さんは、師と仰ぐ水木しげるさんがお亡くなりになって意気消沈気味ですが、12日は、気迫のこもったパフォーマンスで魅了してくださいました。温かい拍手が盛んに送られて、「第5回無声映画の夕べ」は無事終演しました。

皆様、本当にありがとうございました。心から御礼申し上げます。

 

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