おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2022.09.24column

「『シベリア抑留』って、知っていますか?」展も残りわずかに。絵画「一九四六」のことも含めて書きました。

毎年夏には戦争と平和を考える展示をしようと試みてきました。今年は「『シベリア抑留』って、知っていますか?」を8月3日~10月2日まで実施しています。

会期はもう僅かとなりました。今では「シベリア抑留」を知らない人が多いと思いますが、今年12月9日から東宝系で全国公開される『ラーゲリより愛を込めて』(主演二宮和也さんと北川景子さん)はシベリア抑留をテーマにした奇跡の実話をもとにしています。

原作は辺見じゅんさんの『収容所から来た遺書』(1992年)で、最近漫画『ラーゲリ<収容所から来た遺書>』も出版されました。映画の背景の事前学習にもなりますので、ぜひこの機会にご覧いただきたいです。

“ラーゲリ”は強制収容所の意味です。シベリア抑留経験者からお話を聞かれたことがある来館者からは「“ダモイ”という言葉や過酷だった森林伐採などの“ノルマ”という言葉をよく口にしていた」と伺いました。“ダモイ”は帰国、“ノルマ”は一定時間内に果たすよう強制的に割り当てられた作業量のことを言います。これが達成できないと、ただでさえ少ない黒パンが減らされることに。帰国を夢見て、空腹と寒さに耐えながらノルマを果たそうと耐えた男たちの抑留生活でした。

辺見さんの「あとがき」によれば、1976年厚生省の調査では、旧満州や樺太などからソ連軍によってシベリアに連行された日本人は、民間人を含めて574,530人だそうですが、ソ連国防省軍事図書部刊行『第二次世界大戦』(1948年刊)の記録では「日本人俘虜609,176人」とあるそうで、正確な数は把握されていませんが、夥しい数の人々が厳寒のシベリアに連れていかれ、7万人以上が彼の地で亡くなったとされています。

俘虜収容所は約1200か所に及び、東はカムチャッカから西はドニエプル川の流域、北は北極海に近い極北の地から南はパミール高原の西麓という広大な地域に点在しています。今回の展示には、全国強制抑留者協会から借用した大きな地図二種「ソ連・モンゴル領内日本人収容所分布・各地点死亡者発生状況概見図」(1946年頃の状況を示したもの)と「戦後ソ連に抑留された軍人・軍属等の移送状況」を掲示しています。

『収容所から来た遺書』は、ハバロフスクの強制収容所で1954年8月25日に死去した実在の人物山本幡男を主人公にしたお話で、収容所仲間によって彼が書いた遺書の7通目が妻山本モミジさんの手元に届いたのは、1987年の夏でした。届いた遺書は、仲間たちがラーゲリ内で絶えず復唱することによって、それぞれの頭の記憶に刻み込み、帰国後に再現して書き留められたものでした。

最初の遺書を届けたのは山村昌雄さんで1957年1月半ばのこと。その前年1956年12月26日、ソ連本土からの引揚最終船「興安丸」がナホトカから舞鶴に入港し、その中に山村さんもおられました。ずいぶん長い間抑留されていたものです。以降、同じように仲間が分担して記憶した遺書がモミジさんのところに届きました。最後に届いた遺書は、山本さんが亡くなって33年目でした。

手元にある辺見じゅんさんの文庫本は昨年11月出版の第23刷です。当然今年2月に突如始まったロシアによるウクライナ軍事侵攻前の出版で、そのことには触れていませんが、この本を読むと、ロシア(ソビエト)は今も昔も変わっていないなぁと思わずにはおれません。

展示期間中にお会いした印象的な方を少しばかり紹介します。

9月6日にお越しいただいた松井珍男子(いずひこ)さん。お名前が珍しいので、話が弾みました。現在は学校法人立命館理事をされていますが、以前は京都市役所最後の民生局長をされていました。手にしておられるのは『シベリア抑留って?』の絵本ですが、この文章を書かれた亀井励さんが、当時京都新聞市役所担当記者だった頃、「シベリア抑留で亡くなった人たちの慰霊碑を建てたいので相談に乗って欲しい」と頼まれたのだそうです。松井さんは当時の建設局長に相談し、地下鉄の終点「国際会館」駅近くにある市の所有地に碑を建てることになりました。「鎮魂」の文字を揮毫されたのは当時の荒巻知事。碑を建てるに際しては亀井さんが立ち上げた「京都シベリア抑留死亡者遺族の会」で寄付金を集めて実施されました。鎮魂碑の裏面に協力者の名前があり、松井さんのお名前も刻まれています。松井さんは「丁度故郷の比叡山が見えるところに建てた。いつも碑の前を通って帰るので、そのたびに亀井さんを思い出す」と懐かしそうに仰っていました。

こちらは9月16日に来館いただいた三輪芳弘さん(82歳)。嬉しいことに初めて新聞折込(7月31日日曜日付け)に挑戦したチラシを手に来てくださいました。江戸時代から続く有名な老舗“本田味噌”のご主人。

本田味噌本店は京都市上京区室町通一条上ルにあります。かつては京都三条会商店街で商店を構えていて、その頃の看板が今も上がっています。現在は人気の魏夷飯店が営業されています。「店で丁稚奉公をしていた松本さんから、よくシベリア抑留の話を聞いたので展示を見に来た」と足を運んでくださいました。

三重県出身の松本さんは店から乾小学校に上がらせてもらい、20歳ぐらいになった頃、召集令状が来て、松本さんは店から出征されたそうです。樺太で終戦を迎えた松本さんでしたが、その後シベリアに連行されます。森林伐採は大変にきつく、倒れた木の下敷きになって亡くなる人が大勢おられたそうです。「帰りには一人欠け、二人欠けという話を帰国した松本さんからよく聞いた」と三輪さん。帰国されてからも長く本田味噌で働かれたそうです。帰ってくる場所があり、待ってくれている人がいるのは、過酷な労働に耐える力になったことでしょう。

もうお一人、書家井口湖山さんは、表具屋さんへの道を寄り道していて、たまたま玄関に張り出している「シベリア」の文字に目が留まってお越しくださいました。お父様も牡丹江へ出征の経験があり、車の運転ができたことから最初はその仕事をされていたという点は、連れ合いの父親と同じですが、井口先生のお父様は南へ異動になったのに対し、義父は北へ異動して、結果シベリアに抑留されました。井口先生は中国の東北大学中日文化比較研究所客員研究員でもあり、コロナ前は毎年中国で授業をされていて、引き上げ問題に強い関心を持っておられたことから、合間に中国東北地方を何度も旅されたそうです。その旅には夫君の日本近代史が専門の井口和起・京都府立大学名誉教授や、9月10日にご講演頂いた日本近現代史が専門の原田敬一・佛教大学名誉教授も同行されていたと知り、そのご縁に驚きました。

その井口先生から「ぜひ観に行って」と勧めていただき、9月1日に兵庫県立原田の森ギャラリーへ行ってきました。前日のオープニングには井口ご夫妻お揃いでお出かけで、ありがたいことに「『シベリア抑留』って、知っていますか?」展のチラシも会場で配って紹介して下さったと思います。

沢山のお客様が鑑賞にお越しでした。満洲から日本への引揚げの拠点だった葫蘆島からの帰国者だったり、そうした方がご家族にいらした方が多いようでした。「これは私かもしれない」「あれがお母さんだったかもしれない」と描かれた絵を見つめながら話しておられるのが聞こえました。

横20m×縦3mもある巨大な絵を描かれたのは、中国錦州市生まれで魯迅美術学院教授の画家王希奇(ワンシーチー)教授(62歳)。

手前には出航する遼寧省の葫蘆島の海を暗い色調で描き、「一九四六」を間に挟んで、右手奥には舞鶴湾の絵があります。舞鶴湾の海は無事に帰国した人々に希望が宿るようにとやや明るい色調で描かれています。それにしても、これだけの大きさの絵3作品が壁一面に掲げられる美術館というのも凄いです。

井口湖山先生の話にも登場した事務局長の宮原信哉さん(65歳)。東京、舞鶴、宮城に続いて高知で開催された展覧会をご覧になって、ぜひとも神戸の皆さんにも見て貰いたいとクラウドファンディングに挑戦され、実現に至りました。大変なご苦労があったことと思います。今回は日中国交正常化から50年の節目を記念しての意味合いもあります。

宮原さんが指し示している一人の女の子が、手にしておられる本『在外邦人引揚の記録-この祖国への切なる慕情』の扉に載っている1枚の写真をもとにした絵。11年前にインターネットでたまたま目にしたのがこの写真だったのだそうです。ボロボロの服をまとい男の子のように装った女の子が、家族の遺骨と思われる箱を首から下げています。どうしたのだろうと関心を持って史実を調べ始め、5年半の歳月を費やして、約500人の日本人群集を描き分けて絵画に表しました。葫蘆島からは、大陸に残された日本人280万人のうち、1948年9月までに105万人が送還されたそうです。

これは五州伝播出版社の本に載っていた写真をもとに描かれたのだろうと想像していますが、両親を亡くした女の子がたった一人、妹を背負って船に乗る列に連なっています。その厳しい視線が物語るものは。

右手奥には日本から差し向けられた引上げ船に列をなして乗船しようとする人々の上にたくさんのホタルが描かれています。8月29日付け日経新聞文化面に掲載された王教授の文章によれば「過酷な状況の中で『生きのびたい』という意思からにじみ出る光がホタルのように自らを照らす、という解釈だ。使ったのは黒と黄土色の二色だけ」。そして「描いたのは、戦争を起こした人たちによって運命を弄ばれた日本人の姿である。しかし、国籍こそ違え、このような不幸や不条理は世の全ての戦争の犠牲者、被害者に重なる。作品を通して訴えたいのはあくまで平和の大切さ、生命の尊さだ」とも書いておられます。

右端が加藤登紀子さんのお兄様の幹雄さん。哈爾濱で生まれたご兄妹は、登紀子さんが2歳半の時に引揚て来られました。6歳違いなので幹雄さんは8歳半の時。絵の中の子どもの姿にご自分と重ねてご覧になっていました。加藤さんは王希奇さんの絵と出会い、ウクライナで故郷を追われた人々への思いを重ねて、これからの永遠の平和を願って『果てなき大地の上に』という曲を作られました。広い会場をその歌声が満たしていました。たまたま「シベリア」の文字に目を止めて足を運んで下さった井口湖山先生と出会ったおかげて、実際に「一九四六」を見ることができたのは幸運でした。「『シベリア抑留』って、知っていますか?」展にお越しになったお客様には、この絵のことをお伝えしています。

昨日滋賀県守山市からお越しいただいた女性(80歳)は、お父様がシベリア抑留から戻られた時には、腑抜けの状態だったそうで、まだ若い45歳で亡くなったそうです。過酷な強制労働の様子を描いた吉田勇さん(故人)の絵をご覧になりながら、お父様の体験へ思いを馳せ、涙ぐんでおられました。お父様は生前、シベリアのことは一言も話されなかったそうです。旧満洲では満鉄の仕事をされていて、その暮らしは豊かだったそうですが、ソ連軍が攻めてきたとき、お母様が体を張って4人の子どもをかばった必死の形相が忘れられないと仰り、「奉天からよく帰国できた」とお母さまとおばあさまに感謝しているとをお話しくださいました。「一九四六」で描かれたそのままの体験をされたのです。

会場に掲げてあった「一九四六」神戸展の解説の部分引用をしますと、

……ソ連はアメリカ・イギリスとの協定に基づき、1945年4月に日ソ中立条約の不延長を通告し、ソ連軍による「満洲」侵攻は時間の問題となりました。日本軍大本営は同年5月、ソ連軍侵攻の際は「満洲の四分の三」を戦場にして持久戦を行う作戦命令を出しました。しかし、こうしたソ連軍侵攻の切迫、関東軍の弱体化・作戦変更の情報は、現地の日本人民間人、とくにソ連との国境付近に住む農業移民には一切知らされませんでした。それどころか1945年8月2日、関東軍報道部長は「関東軍は盤石だ。国境開拓民諸君は安んじて生業に励むがよろしい」とラジオで発表しました。

1945年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を破棄し、「満洲」に侵攻しました。日本軍大本営は翌10日、「満洲全土放棄も可」の命令を出し、関東軍はいち早く撤退しました。農業移民などソ連国境付近の日本人は、関東軍の撤退のための「静謐」確保に必要な「生きた案山子」として、ソ連軍侵攻の最前線に無防備で置き去りにされました。……

全くの棄民です。更に8月9日日本軍大本営は関東軍に「戦後将来の帝国の復興再建を考慮」して、「なるべく多くの日本人を大陸の一角に残置する」命令を出します。その結果、厳寒の難民収容所で越冬せざるを得なかった多くの難民が餓死・凍死・病死。敗戦前後「満洲」で亡くなった日本人は約24万5千人(うち農業開拓移民が約7万2千人)と推定されています。先の妹を背負った幼い少女の目は戦争の悲惨さと戦後処理の杜撰さを訴えているように思えてなりません。解説文にあった「生きた案山子」の言葉が突き刺さります。

9月10日の原田敬一・佛教大学名誉教授をお招きしての講演「シベリア抑留を歴史的に考える」と上映会『私はシベリアの捕虜だった』、絵本『シベリア抑留って?』は大変好評でした。先生は4ページにわたる配布資料をご用意下さり、わかりやすくお話下さいました。実施後も「先生に聞きたいことがあった」「先生の話を聞きたかった」という声が幾人からも届いていますし、会場が狭いことから大勢の方の参加希望に応えきれなかったこともあり、映画『ラーゲリより愛を込めて』上映の頃に第2弾ができないかなぁと思っています。

この日ご覧いただいた映画『私はシベリヤの捕虜だった』については、この展覧会の最中に台本が見つかる偶然がありました。そのことも含めて別立てで書こうと思います。先ずは、10月2日までの期間中に、お一人でも多くの方にご覧いただきたく、長くなりましたが、思いつくまま書き連ねました。

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