おもちゃ映画ミュージアム
おもちゃ映画ミュージアム
Toy Film Museum

2016.03.12column

二日連続上映会、一日二部制上映会を終えて(1)

2月20、21日に初めて、二日連続の上映会と研究発表会、対談を開催しました。日数がない中での開催で、どれだけの人が集まってくださるか心配し続け、そのツケは3月5日の二部制無声映画上映会にも及び、たくさんの人を巻き込んで、随分迷惑をおかけしてしまいました。長期的展望に立って、計画を立案し、実行することの重要性は充分わかっているのですが、なかなか手が回らず、申し訳なく思っています。

「新着情報」のコーナーで、両日の報告出揃いました。お忙しい中を書いていただきました佐藤圭一郎さん、中原逸郎さん、高槻真樹さんには、心から御礼申し上げます。京都新聞に掲載された石田民三監督(1901⁻1972)の在りし日の写真は、かつて交流があった人々の記憶を呼び覚まし、懐かしがって、あいにくの天候にもかかわらずお越しくださった方、思い出を語る電話をくださった方もおられました。映画とかかわりが深かった京都の街ならではのことと改めて思った次第です。石田監督と親しかった元「萬春」のご主人は、石田監督と作家・水上勉さんに親交があったエピソードを、「石田のたみさん」と呼んで親しくしていた書家・綾村担園(1907⁻1999)のご息女からは、「父は女優さん等いろんな人から字を頼まれましたが、永田雅一さんの家の表札も書いた」とお聞きしました。けれども映画における文字を書いたか、まではわからないそうです。

当日は、考古学者の猪熊兼勝・京都橘大学名誉教授のご厚意により、先生所有のDVDをお借りして、石田監督の遺作『古代の奈良』(1960)を上映することができました。戦争中に映画人も協力したことに嫌気がさし、お茶屋「万文」を経営しながら、上七軒の北野踊りを演出した石田監督が、なぜ十数年のブランクを経て、当時最先端のシネマスコープのカラー映画、みるからに贅沢な作りの作品を撮ることができたのかと思っていましたが、タイトルロールに西陣の帯の名門「じゅらく」の文字がありました。綾村さんからこの作品の制作者である猪熊兼繁・京都大学教授と綾村担園さんが同じ病院に通っていたこと、猪熊兼繁教授は「都をどり」の作者で、「都をどり」の衣装は室町で作っていたこと、一方の「北野をどり」は、石田監督が作者で、衣装は西陣が担っていたことを教えていただきました。じゅらく帯には、担園さんが書いていたそうです。そんな文化人、西陣との交流も背景にあって、豪華な衣装をまとった女性陣が出演する映画ができたのかもしれないと思いました。

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 『古代の奈良』は関西では観ることが極めて困難な作品です。映画を見ていて、万一近畿日本鉄道にフィルムが所蔵されているのなら、既に劣化が始まっているかもしれず、今なら救える技術もあると思いました。当日参加してくださった中には映画研究者がおられ、感想を求めましたら「古代の奈良、観光学や都市学の立場から関心を持つ学者も多いと思います。現在の奈良のPRとしても有意義と思いますし、行政に積極的に動いて欲しいものです。石田の思い描いた古代の奈良の色彩美を蘇らせるために、オリジナルに遡及しての復元は意義があると思います」と返ってきました。

また、歴史研究者からは、「戦後の奈良の描かれ方が気になりました。切り取り方が、単なる名所紹介ではなく、また『戦後』に何を伝えるかという切り取り方に関心を持ちました」と感想が届きました。石田民三の作品だからというだけでなく、様々な視点から魅力的な作品ですので、近鉄の前向きな判断が得られれば社会的にも意義あることだと思います。

昨年発見された映画『おせん』(1934、断片)は、わずか16分程度ですが、本当に良い場面が残っていたと思いました。当日ご覧いただいたお客様から「とっても美しかったです。全てのシーンが絵になっていて、見とれてしまいました」と感想が届きましたが、同様の感想を私ももちました。16ミリを映写機で上映できたのも良かったです。

21日の美空ひばりの『青空天使』については、高槻さんがわかりやすく書いてくださっていますので、それをご覧ください。喜劇の天才斎藤寅次郎が、わずか1週間で撮った作品。人気の入江たか子、美空ひばりが母娘を演じるのですが、スケジュールが忙しく、それぞれ別々に撮影したそうです。でも、演出が巧みで、作品からは全くそのようなことに気付きません。しゃべくり漫才の基礎を築いた花菱アチャコ、横山エンタツをはじめとする芸達者な面々には、大いに笑わされました。しかし、復元に際し台本を見た連れ合いによれば、ドタバタは台本に全く書いてないそうです。作品が作られた1950年代は、引き揚げ者が多い時代。シナリオは凄くシリアスですが、映画は明るくて実に面白い作品でした。この作品も、フィルムが託されたときには、経年劣化し相当ひどい状態だったそうです。

高槻さんの著書のタイトルは『映画探偵』ですが、復元した本人は「誰も映画探偵と思っていない。探して見つかるものではない。映画への思いがある者に、幸運にも天から落ちてくる」と言っていました。これまで傍で見ていると、本当にそのとおりです。ただ、縁があって、連れ合いのもとに委ねられたフィルムを何として救おうかと、知恵を絞り、工夫を重ねて実績を積み重ねていくうちに、「幻の」と表現される作品とも出会うことがあるという具合です。おもちゃ映画ミュージアムという拠点ができたことが、なお一層、そうしたことと巡り合うチャンスを多くもたらしてくれるかもしれません。昨年の尾上松之助『実録忠臣蔵』(1926)発見のように。でも急がないと、劣化が進んで救えなくなるかもしれません。今は、タイムリミットと直面しているといえましょう。

【当日の本人の言葉から】

・映画が失われていることすら、多くの人は知りません。誰かが管理しているだろうと思って、油断をしています。

・映画を1本作るのは、伝統工芸と同じで、手作業の逸品作り。できたものは、マスメディアが広げる。映画を産業と見る人は、できた商品と考え、金儲けしか考えない。既存の映画会社はリスクを背負う映画を作らないで、できた映画を動かそうとしているのが、今の現状。作り手ばかりにリスクを追わせている。これでは映画が育たない。

・復元に際し、技術的な指示ができるのは、名カメラマン・宮川一夫先生との会話からヒントを得たことが多い。現像を経験した先生は、『出世太閤記』の撮影の時、保津峡で、昼間に夜のシーンを撮る「擬似の夜景」として作った。その時白黒のフィルムに染色と調色を同時に使っている。この技術は、カラー時代には消えた。この手法やモノクロ時代の技術について、宮川先生から多くのことを教わった。現像所の人たちも経験者がすでに退職していて、技術伝承が途切れている。モノクロ時代の技術は高かったが、今やその技術を伝えるフィルムすら残っていない。

・齊藤寅次郎と小津安二郎は同じ年にデビューし、同じ年に小津が亡くなり、斎藤もリタイヤしている。小津が生涯で60本ほど撮り、斎藤は喜劇ばかり200本ほど作った。小津が世界的に評価されているのに対し、斎藤は忘れられた存在になっている。小津の作品は50本ほど残っているが、喜劇映画の天才斎藤作品は、ほとんど残っていない。日本の無声映画の残存率はあまりにも低いのだが、ことに喜劇映画は蔑視したかのように使い捨てされた。喜劇は時代をビビッドに捉え、世相を反映し、権力や為政者への風刺が利いているからこそ笑いが生まれる。社会への笑いは、庶民の痛烈で辛辣な声であるはず。喜劇を下等なものとする姿勢は為政者側の視点である。

等々、私の当日のメモから書きました。最後の項目を書きながら、おもちゃ映画ミュージアム開館に際し、大勢の皆様から応援メッセージをいただいたことを思い出しました。その中に、映画評論家の佐藤忠男・日本映画大学長のメッセージがありましたので、再掲します。

「むかし、親しくさせていただいた五所平之助監督がよく冗談に言っていました。『小津安二郎君がうらやましいよ。あまり当たらなかったからフィルムがきれいに残っている。僕や斎藤寅次郎君の作品はヒットしてフィルムが全国を回って引っ張り凧だったから、ボロボロになって、なくなってしまった』。でも、そのボロボロになった断片だって、残っていればそこから想像を広げることができます。ましてやおもちゃ映画は、再編集されているから元の形とは違うけれども、資料的な価値はずっと大きい。これを集めることは本当に急務です。私も声を大にして呼びかけたい。」

この言葉が、今回の総まとめにピッタリだと思います。

ご来場いただいた皆様、そして登壇いただいた皆様に、心から御礼申し上げます。ありがとうございました。

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