2024.07.20column
朝日新聞京都版で伝説の刺青絵師 毛利清二展の紹介記事掲載‼ 併せて明治時代の「横浜写真」についても書きました!
待ち焦がれていた記事が今朝載りました。朝日新聞京都版。
早速お読みいただいた人から問い合わせの電話を頂いたり、実際に足を運んで下さったりと、市内だけでなくいろんな地域から当館をめざして観に来て下さいました。忙しかったので、貰った時にちっとも気が付きませんでしたが、7月3日に発行開始された渋沢栄一の新一万円札を受け取っていたようです。
お客様の中には6月25日フランス国立極東学院京都支部で講演会講師を務められたクロード・エステーブ先生とお友達のゲームデザイナーで多言語翻訳家としてご活躍の来日25年を数えるパトラシュク・パウロさんの姿も。丁度今朝、エステーブ先生から日本最初期の写真家下岡蓮杖が撮影した2枚の“横浜写真”をお送りいただいたところで、グーグル翻訳を使いながらお礼のメールを書こうとしていたところでしたので、ビックリしました。
その2枚の写真を拡大プリントして額装して記念に写真を撮りました。向かって右がエステーブ先生。先にも書きましたが、こうした最初期の明治に撮影された“横浜写真”は海外の人が土産に持ち帰っていますので、日本ではそうそう簡単に手に入りません。この2枚の写真も先生が200枚近くコレクションされたうちのもの。実物は、写真を展示している棚の一番下、パウロさんの格子柄シャツ裾部分に見えている写真の大きさだそうです。下岡のカメラは小さく、写真も小さな湿板写真でした。今日聞いた話では、かつてフランス人医師が1万8千枚もこうした写真を所蔵していて、それらがフランス国立ギメ東洋美術館に寄贈されているそうです。世界最大の日本古写真コレクションで、幕末から明治の日本の様子が記録されているので大変興味深いです。エステーブ先生は日本の古写真研究の第一人者。今回の毛利清二展が契機になって、そうした方と繋がりが持てたことを大変光栄に思います。
額装した2枚の写真は1860年代のもので、鶏卵紙にプリントした後で手彩色されています。赤色が特徴的で目に飛び込んできます。下岡は狩野派の画家でもあったので、向かって左の写真に写っている屏風の絵も自ら描いたもので、写真の彩色も自らしたものだろうとのことでした。写真棚向かって右端にある5枚の“横浜写真”ですが、先日のブログで「イタリアのアドルフ・フォルサーリが撮影したものではないか」と書きましたが、1870年代の“山本写真”ではないかとのことでした。ネットで検索してひょっとしたら山本讃七郎のことかと思うのですが、エステーブ先生に聞いてみます。もしもこの人物でしたら、横山松三郎や中島待乳など歴史上の人物に教えを乞うている人というので興味深いです。
なお、パウロさんのすぐ隣に写り込んでいる舞妓さんや芸妓さんの写真の裏には京都八阪社内写真師成井頼佐〈なるいらいすけ〉の名前があります。エステーブ先生によれば、八坂神社北側にある平野屋本家京料理“いもぼう”の近くにかつて写真館が並んでいたそうです。他にも明治期の写真家で東京から京都に移り住んだ鹿島清兵衛という興味深い人物の名前も教えて貰いました。松原柳馬場に写真スタジオがあったそうです。まだまだ知らないことがいっぱい。
さて、14日に東京から展覧会を観に来て下さった鈴木祐子さんからメールが届きました。許可を得て部分紹介させていただきます。
……貴重な下絵の数々、保存状態も良く、楽しく拝見させていただきました。毛利さんの手掛ける「絵」の、テーマの多様さにも驚きました。京都の古本屋で図案になりそうなものをお探しになって参考にされたということですが、八犬伝やめ組の喧嘩などお芝居から、仏教美術まで、あらゆるジャンルを横断して、ふさわしい「肌絵」に仕上げられ、映画やドラマの世界観を完成させる、芸術作品であったのだな、と思いました。……
そして、お会いした時に私が「日活などでも同様の技術者の方がいらっしゃったはずなのですが、その方のお名前や下絵や写真など残っていないのかしら?」とおしゃべりしたことを覚えていて下さって、調べて下さいました。
それによりますと、日活では俳優部の河野浩史さんが刺青絵をやっておられたようです。大正14年生まれですので、ご健在だといいのですが。河野さんの仕事については、ネットで読めるアサヒ芸能「アサ芸プラス」に記事が載っていることも教えて貰いました。高橋英樹さん、小林旭さん、渡哲也さん、扇ひろ子さんら錚々たるスターの方々に刺青を描いておられますが、あさ芸プラスを読んで毛利さんとの違いを知りました。河野さんの場合は「4~5日で消えてしまうから、描き直したり、手を入れたり」と証言されているのに対し、毛利さんの場合は、描いた後その日のうちに落とし、翌日同じ絵を同じ色で描くことを繰り返しておられました。毎日上映してご覧頂いている毛利さんのトークイベント記録映像でそのことを知った人々が「大変だなぁ」と感想を述べられていることを話したら、毛利さんは当然のことというふうで「映画職人だから」と答えて下さいました。
河野さんの下絵についてはわかりませんが、「下絵や完成時に記録として写真を撮っておかないとつながりがわからなくなる。それで写真が多いんだ」と記事にありますので、写真は今も残っているのかもしれません。日活では、他にも霞さん、戸波志郎さん、大中温さんという人も刺青絵をしていたそうです。今、日活の知り合いの方に刺青の下絵や写真が残っていないか問い合わせましたので、何かわかれば追記で書かせていただきますね。
会期は28日までですので、残り僅か。ご都合よければ、ぜひ毛利さんの美しい下絵をご自分の目でご覧下さいませ‼
【7月22日追記】
日本の古写真について詳しいクロード・エステーブ先生から返事が届きました。「“山本スタジオ”は余り知られていませんが、1870年代に横浜にスタジオを構えていたのは“山茂登屋(山本ゑい)写真館”でした。京都の写真家の名前は“成井頼佐”で生没年は1858-1902です」と教えてくださいました。