おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2025.07.14column

西陣空襲から80年

1945年6月26日に起こった西陣空襲から80年の節目を迎えることから、6月28日に「西陣空襲から80年~戦争を繰り返さないために~」を開催しました。この空襲では、B29 一機が50キロ爆弾7発を落とし、6発が爆発。記録によれば、死者43人、重軽傷者66人、被害家屋292戸(全壊71戸、半壊84戸、一部損壊137戸)、罹災者850人を数えました。

下調べになると思い、4月27日に京都歴教協の春のフィールドワーク「西陣空襲と平安京」に参加しました。その中に朝日新聞の八百板一平記者さんがおられて、お話をしたのがご縁で、6月28日の講演会のお知らせを6月24日付けで書いていただきました。気付いたのが遅かったので新聞購入できず、26日に中央図書館に行って朝日新聞を繰りました。

その記事がこれ。想像以上に大きな扱いの記事だったのにびっくり。さっそく原田敬一先生にもお送りしましたら、「大きな記事でしたね」と先生もおっしゃって💗

図書館で他の新聞も一緒に繰ったら、6月26日付け読売新聞に、これまで知られていなかった4コマの「のらくろ」幻の連載があったことを報じていました。この漫画が載っていたのは日刊タブロイド新聞「戦時版よみうり」で1944(昭和19)年3月1日~45年3月末までの1年1か月。4コマの「のらくろ」は44年10月までの224本が載っていたことが確認されたそうです。

時局からしようがないのでしょうが、「大東亜戦争ニ乗出ス」から始まって、戦争モードまっしぐらですね。今年8月のNHKスペシャル実録ドラマ「シミュレーション~昭和16年の敗戦~」では、日本のエリートたちに「戦争に進めばどうなるか」をシュミレーションさせたところ、「日本は圧倒的に敗北する」という結論を出しました。にもかかわらず軍部は戦争へと突き進んで、歴史が示す通りの結末を迎えました。国が始めた戦争です。

28日上映したインタビュー映像で西陣空襲体験を語った水口章さん(90歳)も、26日に偶然知り合ってお話を聞かせてくださった小関貞子さん(80歳)も、「家が空襲で全壊し、家族が亡くなっても国からは何のお詫びもなく、補償もない。家族は大変な思いをして生きてきた」と話しておられました。二度と戦争をしないために、あの戦争で何があったのか、それを知ることは大切だと思います。

「受忍論」という言葉があります。太平洋戦争中の空襲で被害を受けた民間人に対し、戦争被害は国民が等しく我慢すべきだという考えで、1968年在外財産補償請求事件の最高裁判決で初めて示されました。これは、戦時中に海外から引き揚げた人が、残してきた財産の補償を求めた裁判です。「受忍論」は1980年、原爆被害者対策に関する厚生相の私的諮問機関の意見にも盛り込まれ、空襲被害者らが起こした裁判でも繰り返し引用され、国が戦後補償を拒否する根拠となってきました。7月7日付京都新聞によれば、この「受忍論」が厚い壁となって、超党派の国会議員連盟が救済法案成立に向けて動いていましたが、戦後80年の6月、「自民党内部から受忍論を背景に『戦後補償は終わった』の声や、他の戦争被害に波及することへの懸念が上がり」、通常国会への提出が見送られたということです。

昨年12月のノーベル平和賞授賞式で、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の田中熙巳代表委員は「日本政府は一貫して国家補償を拒んできた」と述べ、その根幹にあるのは「戦争で亡くなる命はごみと同じか」「国が責任を負うことが、新たな戦争の歯止めにもなる」との思いだそうです。新聞記事で紹介された早稲田大学名誉教授永島朝穂先生は、空襲時、国民に避難を許さず消火を強いた「防空法」に触れ、「国が民間人を戦争に動員した結果、逃げ遅れて犠牲になった人は多いはずだ。補償せず、受忍論でごまかすのは不正義だ」と批判しています。もっともな指摘です。

以前、「『満洲国』って、知っていますか?」展をした折に、来館したお客様から「国は私たち戦争経験者が早く死ぬのを待っている」と仰った言葉が忘れられません。体験者の言葉に真摯に耳を傾けることが、今後も平和を維持できる世の中にしていくために大切だと思います。被害者の人々はすでに高齢で、残された時間は少ないです。何とか早急に救済法が成立するよう、国には真剣に考えてもらいたいです。

さて、水口さんにインタビューしたのは5月8日のことでした。映像で水口さんは「インドとパキスタン、ロシアとウクライナが戦争やってるけど」と話しておられますが、映像を見ていただいた6月28日の段階では、それにイスラエルとイランの戦争が加わって、世界中が戦争拡大を懸念しています。戦争は死の商人を儲けさせるだけで、圧倒的人々は悲惨です。私たちも遠い世界のことと傍観者でいるのではなく、戦後80年戦争をせずに済んだ日本という国をこれからも継続していくためにも自分事として考えていく必要があると思います。まず身近なところから80年前に起こった西陣空襲から考えていきましょう。

原田先生をお招きして開催した講演会に先立つ6月26日(水)は、水口さんが尽力された献花式が京都市上京区の辰巳公園「空爆被災を記録する碑」で営まれました。生憎の雨でしたが、地元の人々ら約30人が参列されました。私も白い菊の花束を手に参列させていただきました。夕方のKBS京都テレビ「きょうとDays」でこの様子がトップで報じられ、最後の場面に私が手を合わせているのが映し出されてびっくりしましたが、碑の傍に地元の二条中学の全校生徒さんが心を込めて折った千羽鶴が飾られているのも写っていました。この折り鶴に言及した原 真弓上京区長さんが挨拶された折、感極まっておられたのが印象に残りました。折り鶴は、昨年11月に水口さんが二条中学で、西陣空襲についてお話をされたことが契機になりました。水口さんの体験を聞いた生徒さんたちは、西陣空襲の記憶を継承していくことが大切だと思ってくださったようです。世代を超えて記憶が継承されることが大切だというのは、水口さんの願いでもあります。

水口章さん(90歳)主催の献花祭。この日に備えて、水口さん自ら筆をとって「西陣空襲被災者献花祭」の文字を書かれました。足が不自由な中、開催にこぎつけるまで並々ならぬ努力がなされたことでしょう。背中の「空爆被災を記録する碑」建碑に至った3人のうちでただ一人存命という責任感から、10年ごとに開催してこられた慰霊祭を「戦後80年の今年実施しなければ」という強い思いが貫いていました。

区長さんらの挨拶に続き、参列者の献花が続きました。左側白いカーディガン姿の女性が小関さんで、水口さんとお話をされています。この後、テントで雨宿りをしているときに、小関さんに話しかけて、小関さんも空襲の被害者のひとりだったことを知りました。碑が建てられたのは2005年8月15日のことですが、「めでたいことでもないし、今まで一回も来ていなかった。水口さんから『一回は見に来なあかん』と誘ってもらったので、初めて参加した」と話して下さいました。写真はきっと「よく来てくれたなぁ」と水口さんが話しておられる場面でしょう。

水口さんの方針で、お坊さんの読経もなく、無宗教で無事営まれ、思いが実現した水口さんを大勢のマスコミ人が囲み取材。

たくさんの花が供えられました。

辰巳公園傍のイチョウの木や電線には、80年前のその日、爆風で吹き飛ばされた人の遺体がぶら下がっていたと言います。モノ言わぬ証言者です。

翌日の新聞各社の記事です。戦後80年という節目から大きな扱いです「京都には空襲がなかった」と思っておられる多くの方に、この事実を知っていただく機会になれば。

大役を終えて水口さんは空襲で亡くしたお姉さんを偲びながら、責任を果たせて安堵されているような表情ですが、お話を聞くといつも「自分は新聞などに載りたくないんや」と名前が載ったりすることを避けたいという思いを抱いておられているので、見ようによっては複雑な表情に見えなくもなく…。ともあれ、全力投球した後の水口さんです。本当は5月8日にインタビューした動画を編集したものを公開したい思いもありますが、それはこれから水口さんにご相談してからのことにして。

先に触れた小関さんからお聞きした話を少しばかり書いてみます。

昭和9年生まれのお兄さんの友達が水口さんでした。大宮出水下ルに爆弾が落ちて、家が全部潰れ、北隣の本家も潰れてしまいました。昭和20年5月に生まれて生後50日目だった貞子さんは、土の中に埋まっていたそうです。土の中からちらっと赤い着物が見えるのに消防団の人が気付き、掘り起こしてもらって助かりました。会社勤めをしていたお父さんは大阪に行っていて不在。3人のお兄さんもたまたま不在で助かりましたが、3歳上の4男のお兄さんは頭にケガを負い、亡くなるまでその傷は残っていたそうです。遊びに来ていた薬局の男の子(水口さんのインタビューで語られた「僕と同じ年の男の子が亡くなった」というのは、この男の子のことでした)もその時亡くなりました。お母さんにしてみれば男の子4人に続いて生まれた女の子が可愛くて、赤い着物を着せていたのでしょう。「目立つ赤色が命を救ったんですね!」と言ったら、「母は派手なのが好きだったから」と小関さんはちょっと笑って、「でも戦争の話は余りにも酷すぎて、話をしなかった。もう少し聞いておけばよかったと今では思う」と話して下さいました。

講演があった28日の朝、大宮出水下ルの小関さんの家を探しましたがわからず。通りがかった男性に「80年前、この辺に爆弾落ちたそうですね」と尋ねたら、出水通りに面したお宅にお住まいのこの男性、八木さんの家も被害に遭ったうちの一軒でした。

八木さんが写っている右側のあたり一帯が爆風で壊れたそうです。

落ちたのは、このエトワールパーキングのあたりで、写真にみえる家々があるあたり一帯が被災しました。

お話を伺いながら地図を試作して、当日の参加者の方にお配りしました。

【2026年5月31日追記】

5月29日同志社大学社会学部メディア学科3回生の学生さん2人が来館されて、「西陣空襲について調べている」と仰ったので、昨年6月28にご覧いただいた水口さんのインタビュー映像をご覧に入れ、水口さんと交わした話などを紹介しました。水口さんに直接会う日にちの設定をしたいと思い、仕事帰りに水口さんを訪ねました。久しぶりにお会いした水口さんはお元気な様子でしたが、足の具合が悪く思うように歩けないとこぼしておられました。若い人に戦争を繰りかえさないよう戦争の悲惨さを伝えたいと願っておられることから、心よく学生さんの取材に対応して下さることになり安堵しました。今、水口さんはこれからの継承のことを心配しておられます。10年ごとに献花式を営んでこられましたが、次の10年、まだまだお元気でその日を迎えられると思いますが、今回のようにお一人で進めるには負担が重すぎます。妙案が見つかれば良いのですが。

そんなこんなを水口さんを話していて、私どもで編集して上映したインタビュー映像をYouTubeで公開しても構わないとおしゃって下さいました。それで先ほどUPしましたので、良ければクリックして見てください。

今年2月7日付け京都新聞に、同じように西陣空襲を体験した並河文子さん(94歳)の話が載っていました。学校では同級生と空襲のことは話さなかったそうです。「見たらいかん、聞いたらいかん、しゃべったらいかん時代。誰が亡くなったとか、けがをしたとか、家族ですら言えないのは、つらく悲しいことでした」と話しておられます。50歳代で読んだ詩には「B29 あの地鳴りの亀裂の沸騰する恐怖に襲われた日 大すり鉢状に口さけた地表」「京都 西陣の悪臭に涸れた涙 言葉のない叫び 立ち入り禁止の札の中で 白米のおにぎりが配られ 名無し番号の棺が ひっそりと運び去られた」。詩の題名は「松葉ぼたん」。空襲後、道端に松葉ぼたんが供え物のように咲いていたのだそうです。もうすぐ松葉ぼたんが赤、黄色と鮮やかな花を咲かせる季節が巡ってきます。

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