2025.07.19column
祇園祭:弓矢町武者行列復活
祇園祭前祭当日は、朝から激しい雨降り。テレビで中継を見ていましたが、貴重な懸装品を透明ビニールで覆いながら粛々と巡行が行われ、それでなくても大変な辻廻しも豪快にやってみせてくださいました。その一瞬をとらえた京都新聞夕刊一面に載った佐伯友章記者の写真が良かったです。

四条堺町で行われた「籤改め」の儀式では、白楽天山の正使6歳の長谷川拓志君が見事な所作で大役を努めました。可愛らしいばかりでなく、その真剣で一生懸命な様子が伝わってきて、思わずテレビを見ながら拍手しました。大変な山鉾巡行となりましたが、無事に終えられて関係者の皆さんはホッとされたことでしょう。お疲れ様でした。
そして、山鉾巡幸によって悪霊を集め清められた市中に、いよいよ神様がお出ましになる神幸祭が営まれ、お神輿を先導する弓矢町の武者行列が51年ぶりに復活します。その様子を見ようと雨降る中を弓矢町弓箭閣に向かいました。ふと思いついて、前日に知り合った方から教えてもらった「風流武者人形」がひょっとしたらまだ飾ってあるかもしれないとギャラリーに向かいました。生憎ドアは閉まっていましたが、外からガラス窓越しに見ることができました。

「生人形」は、江戸時代の見立て細工で見世物の一つでした。等身大でとても精巧に作られています。母衣(ほろ)は武士の道具の一つで、兜や鎧の背に幅広の絹布を付けて風で膨らませ、矢や石から防御する甲冑の補助道具でした。ネットで検索したら和歌山県の和歌祭では、今も紅白の母衣が登場しています。
部分が写り込んでいる巨大な太刀も目を惹きます。

添えられていたキャプションによれば、「多くの洛中洛外図屏風で描かれた巨大な太刀で、現代でも様々な祭で残っているが、現存する数は少なくなっている」そうです。日本甲冑武具研究保存会企画「祇園祭屏風飾 祭礼と風流武者 かつて祭を華やかに彩った甲冑武者を現代に」の展示の一部分でも見ることができてラッキーでした。
弓矢町の武者行列は16時に弓箭閣を出発すると聞いていましたので、松原通を東に向かって急ぎました。

「松原橋」の駒札。写真右の通りは平安時代の五条大路で、この道をまっすぐ東に向かうと清水寺に至る参詣道だったことから人々の往来が古来から盛んでした。通りの両側に松並木があったことから「五条松原橋」とも呼ばれていたと書いてあります。秀吉の時代、方広寺大仏殿の造営に際し、この地に掛かっていた橋を現在の五条通に架け替え、「五条橋」と呼んだため、今の「松原橋」と呼ばれるようになりました。弓矢町へはこの橋を渡って東へまっすぐ進みます。

心配した雨もあがり、甲冑に身を包んだ若武者5名が勢揃いして、16時10分、弓箭閣を出発。町内の人々の拍手で見送られ、町内を練り歩き、六原清々講社高橋会長の家で休憩の後、松原宮川町、団栗宮川町、四条大和大路、四条東大路、東大路神幸道を経て八坂神社へ。弓矢町を出た後、行列について歩けないとの案内があったので、八坂神社に先に行って、お神輿が出る様子を見学していました。大変な人出でした。午前中の大雨による困難さを思えば、時折涼風も吹き行列には良い天候でした。自分勝手な思い込みながら、夕べ「晴れるよう守ってね」とテルテル坊主さんに願ったのが叶ったのかと思います。野村宮司さんの挨拶を聞きながら四条大和大路に急ぎました。実際に大将が騎馬された瞬間を見ることができなかったのが、残念な一点ですが、それぞれのお神輿が神社から出て神幸道を八坂神社西楼門前に進むのを見ることができました。三基の神輿が集まって「差し上げ」をするのを見たのは何年か振り。いやはやもの凄い熱気でした。


四条大和大路の仲源寺前でようやく弓矢組一行と出会いました。大将は騎馬して凛々しい表情です。お父様の山中信寛さんによれば「おとなしい馬」で、暴れる心配もないそうですが、ずっと乗りっぱなしも緊張の連続で大変だろうと思います。うだるような暑さでないのが、まだ救われましたね。

大和大路通りの縄手を北へ。

今回の修復では大将の甲冑だけでなく、馬の鞍も修理されました。自然素材の染料を用いた赤が鮮やかですね。


続いて、祇園祭で最も位が高く、神の化身とされる久世駒形稚児が白馬に乗ってやってきました。スサノヲノミコトの荒御魂を象った駒形の御神体を胸に掛けていて、八坂神社の祭神スサノヲノミコトがのる中御座神輿の先導役を務めます。久世駒形稚児は八坂神社とゆかりがある綾戸国中神社の関係者から選ばれます。八坂神社はスサノヲノミコトの和御魂を祀りますが、綾戸国中神社はスサノヲノミコトの荒御魂を祀り、祇園祭では和御魂と荒御魂が合体することが重要とも言われています。今年の稚児は戸倉蓮介さん8歳と立葵さん10歳の兄弟です。還幸祭の24日は、前のミュージアムがあった場所近くの武信稲荷神社にお参りされるので、毎年夕暮れ時に見学するのを楽しみにしていました。2019年の時の様子はこちらで書いています。

大和大路を北に進み、三条大橋郵便局前を過ぎ、三条通を西に進む弓矢組。

これまでの祇園祭では見かけない武者行列に興味を持って見ている沿道の人々。写真を撮っている人がたくさんおられました。

寺町御池へ向かう弓矢組の皆さん。

街々の明かりが灯ってきた19時20分の寺町御池。

寺町三条で休憩タイム。大将の山中秀起さんに実際に馬に乗りながら行列した感想を聞いたら「思っていた以上に大変だった」と噴き出る汗をぬぐいながら仰っていました。慣れない甲冑を着続けるのも動きが制約されたり、紐が食い込んだりして痛かったでしょう。本当にお疲れさまでした。秀起さんと村田浩昭さん、薮内 駿さん、蓮實良尚さん、藤田隆馬さんの5人の若者たちは、弓矢町の半世紀にわたって行列参加を見送らざるを得なかった悔しい思いと、それを克服して復帰できた喜びで万感の思いに浸られたことでしょう。それはここに写っている弓矢組世話人の皆さん方の思いでもあります。武者行列復活、誠におめでとうございます!!!!!
写真左端の秀起さんのお父様、信寛さんには、6月14日の「祇園祭と弓矢町―武者行列半世紀ぶり復活―」の折に登壇して頂き、1974年武者行列中断を決意した弓矢組世話役だった祖父喜多内信吉さんの無念な思いを話して下さいました。信吉さんは、こんなに長く中断するとは思ってもおられなかったようです。喜多内さんの息子の亮二さんも大将の経験があり、その子である信寛さんも高校時代3年間武者役で参加されました。半世紀ぶりに大将役で参加した秀起さんは、4世代にわたる伝統をこうして無事に引き継がれました。

三条寺町での休憩の後、残りの力を振り絞って三条通を河原町へ進み、そして南へ繁華街を歩き、午前中に降りしきる雨の中豪快な鉾の辻廻しが行われた四条河原町に。八坂神社筆頭氏子組織宮本組の太鼓が打ち鳴らす後に宮本組頭の原 悟さんが行列を先導しておられます。それまで先導しておられた副組頭の「鍵善」今西善也さんにお聞きした話では、赤穂浪士の原惣右衛門の末裔だそうで、黒七味の老舗「原了郭」13代目ご当主。久世駒形稚児が装束を整えて出発する稚児宿としても知られているようです。武者行列復活に際しては、宮本組の働きかけも大きかったようです。

20時20分、武者行列が四条河原町交差点を曲がって、ゴールの御旅所へ歩を進めます。この後久世駒形稚児が続き、さらにスサノヲノミコトのご神霊を乗せた中御座の神輿が、「ホイットー、ホイットー」の掛け声で続きます。

四条御旅所前にはたくさんの人が詰めかけ、「ホイットー、ホイットー」の掛け声に合わせて手拍子。神輿を練る「神輿振」は、大変な熱気で、担ぎ手だけでなく観客も一体になって祭りに参加した気分を味わえる熱い時間でした。

神主の祝詞奏上、お祓いの後、「神輿振」をして神様をもてなしながら、やがてお神輿は御旅所の中に。

中御座の六角形をした屋根のお神輿の上に飾られている「お稲さん」を外しているところ。京丹波町の神饌田で収穫されたこの青い稲を持ち帰って玄関や神棚にお供えすると、安産などのご利益や厄除けになると信仰されていて、担ぎ終えた人たちが少しずつ手にして持ち帰っておられました。この写真を撮ったのが22時。この後、クシナダヒメをのせた四角い屋根のお神輿の東御座、ヤハシラノミコトをのせた八角形の屋根の形をした西御座がやってきて、それぞれ「神輿振」をしながら、同じように御旅所に安置されます。午後から歩き通しだったのに続き、御旅所前でずっと立ちっぱなしでいるのも流石にキツくて、中御座が安置されるのを見届けて帰りました。京都へ来てから何年も経ちますが、弓矢組の武者行列復活を知ったご縁から、こうした伝統行事の一端を見学する機会を得ることができました。
最後に、18日付け各紙記事を。最初に京都新聞社会面。

続いて読売新聞京都版。

産経新聞京阪奈・京市内版。

毎日新聞京都版。

24日後祭の山鉾巡幸も還幸祭も、どうぞ天候に恵まれて無事進行されるよう、テルテル坊主さんに祈ります。皆様、本当にお疲れさまでした!!!!!


