2025.07.29column
戦時のアニメーター、瀬尾光世さんの苦悩

昨朝の京都新聞の記事に目が留まったので。それに関して書いてみます。
2019年12月4日~28日、「戦争プロパガンダ展―ポスター・雑誌・映画―」をした時、ふと思いついて「戦争で翻弄されたアニメーション作家」というテーマで瀬尾光世さんの『桃太郎 海の神兵』を上映できないかと思い、たぶん持永伯子さんの伝手で、お孫さんに協力をお願いしたことがあります。おじいさまのことを知って貰いたいという思いが強く、お孫さんはOKしてくださったのですが、「上映に際しては松竹に事情を説明して許可を得て欲しい」ということでした。手元に残るメモによると松竹㈱映画営業部関西グループ販売促進課のご担当者に連絡したところ、上映料が小さなミュージアムでご覧いただくには高額で到底賄いきれず、泣く泣く断念したことを思い出しました。
何度も上映することで見た人の記憶に残り、「それを見てみたい」という人が現れて、また上映する場が設けられる。どんな良い作品であろうとも、その記憶を継承するには繰り返し繰り返し人の目に触れ、心に届くことによって、また命を蘇らせることができるのに。目先の儲けばかりに走って、上映機会をなくすと、やがて人々の記憶からも消え去ってしまうのに……と大変残念に思ったことをも、この記事を読みながら思い出しました。
興味深く思ったのは、「制作費が限られ、塗ったセル画を洗い流して再利用することもあった」という文言。映画でも当時のナイトレートフィルムの素材が火薬の材料でもあった硝酸ナトリウムを用いていたこともあり、どんどん入手が難しくなりました。使用したフィルムを洗い流し、まだ使えると判断したフィルムには乳剤を塗布し、再生フィルムを作りました。そのことも昔の映画が残っていない理由の一つです。よくフィルムが原因による火災で焼失したことにされていますが、実際には、戦争による消失も挙げられます。先日この時代のことについて森田富士郎カメラマンからお聞きした話をこちらで書きました。

当館には特高に追われて京都の政岡憲三映画美術研究所に逃げ込んだ瀬尾さんが、チーフアニメーターとして作った『ギャングと踊り子』(1934年)の後半部分を抜粋して作ったおもちゃ映画『ギャングの最後』があります。このことについては、こちらの最後部分で触れています。
上掲記事最後部分「瀬尾は戦後しばらくしてアニメ業界を離れ、絵本作家に転身した」という部分については、絵本の文章は髙橋克雄さんが、絵を瀬尾さんが「せおたろう」のペンネームで担当されていたことを、髙橋克雄さんのご息女、佳里子さんからお聞きしました。2018年10月18日~11月11日「平和へのメッセージ 映像作家髙橋克雄の世界」をしたときのことです。展示には、お二人が組んで生み出された小学館の絵文庫シリーズ『サンダーバード』『スーパージェッタ―』『トッポジージョ』などの絵本も並べました。
この時に佳里子さんから聞いたお話が頭にずっとあったことから、冒頭に書いたように2019年12月に「戦争で翻弄されたアニメーション作家」としてご紹介したいと考えたのです。瀬尾監督とご遺族の思いをぜひ、アニメーション研究者の皆様によって叶えてあげて欲しいなぁと思います。
今朝、髙橋佳里子さんに、瀬尾光世さんについてどういった話をお父様からお聞きになっていたのかを再度お尋ねしました。
…………
父は小学館の少年誌に小説の連載をするようになった後、学年誌や小学館絵文庫を書くようになって、最初に絵を書いてくださったのが「せおたろう」というペンネームの瀬尾氏でした。

『どんほあんかん』とか、

『トッポジージョ』(上掲写真2枚提供:髙橋克雄著著作権事務所)とか、動物の出てくるお話が多かったので動物の絵がお上手な方を小学館から紹介されて父はとても喜んで、それ以来たろうさんと親しく交流させていただきました。父は1932(昭和7年)生まれ、瀬尾さんは1911(明治44)年で、親子ほども年齢差があるのですが、髙橋は父親を早くに亡くしたので父親のように慕っていました。
『ぴっきいちゃん』がテレビ化され、アニメーションの世界が広がり始めた頃、アニメーション協会の組織化についての会議の中で『桃太郎の海鷲』(1943年)の作者の瀬尾光世氏を会長に推薦するという動きが強い中、長崎原爆で故郷を失って平和への想いが強くあった父は、原爆死した祖母の家に下宿していた海軍の若者たちに可愛がってもらっていたこともあって、「自分も含めてあの映画を観て多勢の若者が海軍に憧れて戦争や原爆で亡くなったことについて作者の瀬尾氏はどう思われているのか教えてほしい」と協会の会議でお尋ねをしたことがありました。瀬尾光世氏は会議の席にいらっしゃらずに後日、ご本人から直接お返事をされることや瀬尾さんが協会には入らないとのお話などを協会関係者の皆様からお聞きしたとのこと。
そして、小学館でたろうさんと絵本の打ち合わせをした帰りに、たろうさんから「話がある」と切り出され、「実は…」ということで、父は仰天。当時の父は不覚にも絵描きのせおたろうさんが海鷲の瀬尾光世氏だとは夢にも思わず、瀬尾さんを会長に推薦することに反対の気持ちが強くあったので会議で生意気な発言をしてしまったのです。けれども、たろうさんのお気持ちを直接お伺いして、そのことを父は本当に後悔したそうです。
瀬尾光世氏は、「自分にはあの映画を作ってしまった戦争の責任があるからもう二度とアニメーションには関わらないことを決めた。今まで通り“絵描きのたろうさん”として付き合っていただきたい」というお話をされました。父は、自分と親しく一緒に作品を作っていたたろうさんが、瀬尾光世氏と同一人物であることに驚いてその日は帰宅。後日、瀬尾さんのご自宅にお詫びに伺って、どうして海軍の映画を作らなければいけなかったのか、いろいろお話を伺うことができました。
瀬尾さんが戦争をしたくてあの映画を作ったのではなくて『海軍に入りたい!』と若者が切望する映画を作らなければならなかった当時の国の圧力に反せずにいた作家たちの存在を、瀬尾光世氏のお話から父は初めて知ったのでした。
小学館の学年誌で有名になった『ぴっきいちゃん』のお話をテレビと並行して書くようになった父は、テレビ局とのつながりが強くなって『ぴっきい劇場』の後番組にたろうさんと自分の『どんほあんかん』を是非!と強くお願いをしたのですが、瀬尾さんの決意は固く、「アニメーション作家としての筆は折った。もうアニメーションはしたくない」とお断りされました。その頃父は万博プロデューサーとしての仕事が増えて海外に行くことを国から希望された時期で、シスコン王子やぴっきい劇場が終わったら海外へ!ということになっていたこともあり、たろうさんとのお仕事ができなくなることをとても残念に思って、最後にお食事をご馳走になったと聞きました。
そういったことを、父は当時の教育映画の皆さんにいつも語ってきたのですが、なかなか記事にはしていただけなかったのです。
結局、アニメーション協会の初代会長さんには手塚治虫さんが就任されました(1978‐1989年)。2009年ロカルノ国際映画祭の後、ジョナサン・クレメントさんたちによる戦後と戦前のアニメーションがどう変わったかを検証する企画があり、そこで海外の方から、若き日の髙橋克雄さんが瀬尾光世さんに問いかけたのと同じような質問が上がったのだそうです。その折に、髙橋佳里子さんはお父様からお聞きになったこうした話をジョナサンさんに伝えたのだそうです。この本のタイトルは今確認中ですが、わかれば瀬尾さんの話が反映しているかどうか確認したいものです。ともあれ、瀬尾さんだけでなく多くの芸術家も戦争に加担しなければならなかった時代を再び繰り返してはならないと強く思います。とりわけ今回の参院選で議席を増やした某党の「戦前回帰」を思わせるような「新日本憲法」構想案には寒気を覚えてしまいます。何より大切にしなければならないものは、「平和」です。